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相模原殺傷事件から5年、命は不平等だけど、劣等扱い排外するのは許されない

相模原殺傷事件から5年がたった。
私にとっては、「発達障害」と「神経障害」で福祉制度に助けられている立場からすごく身近な問題だと思って非常にショックを覚えた事件であった。

 もし、この事件の動機が「意思疎通ができない人に対する安楽死」だとするならば、本人の意思を無視していることには変わりないので不本意の安楽死を生みかねず「殺人」になってしまうので動機に卑劣さを感じてしまう。

生きたい人間に向かう言葉の刃

 この事件の反響といえば、毎日毎日を生き続けている不特定な人に対する「不本意の死」を要求するという追い込み自殺ともとれるような誹謗中傷だったり、人間の弱みに付け込む社会の闇が暴かれたことでもあった。
 「死んでしまえ」という明らかな言葉が用いられなくとも、人格を否定したり個人の尊厳を否定するなどの「一人の人として扱わない」といった言葉が向けられたという当事者の声も聞かれたうえ、「人を守るための精神障害者差別の正当化」というショッキングな事件(下のリンク参照)も起こっている。


障害者は「被障害者」でもある

 以前、NHKハートネットテレビでは、精神障害と知的障害の当事者の生活と入院形態の特集を放映したことがあったのだが、障害を被っているのは自分の体が原因によるものだけではなく、社会や周りの空気が原因になって障害を被っている形態も見られるということがわかった。というのは、重度障害者の当事者の生活事情を考えると、地域や社会で暮らしていくための選択肢を奪われてきているという問題があることに気づいたからだ。
 最近のコロナ禍の雰囲気にもわかるように、コロナウイルスがもたらした生活の不便さを今まで「健常だった人」が感じる、そんな感じのものと同じである。
 私は、福祉制度(手当金など)とフリーランスで働く選択肢をみつけているのだが選択肢そのものを奪われている当事者に対しては「自分の不本意にあつかわれている」状態になってしまう。
 社会で生きる選択肢を与えられず、精神病棟で長い期間入院している当事者たちも、自然と社会との断絶を強いられていることが今の社会に根差している暗点から生まれてしまう現象なのかもしれない。そして、この入院も当事者にしてみれば不本意な入院であり断種の状態にあると感じているのだろう。
 このように特に精神の障害に対する自然に生まれてしまう社会から受けているとも言えるような差別は根強く残っているのかもしれない。

多様性を否定し、個人の尊厳を貶すSNSの一部

SNSにも、まだ相模原障害者殺傷事件を作った社会を映し出しているような雰囲気がまだ見られる。
たとえば、 「フェミニスト」かと思ったら、性の排外主義に走っていたという例がある。フェミニストは本来(おおむね体の性が)女性である当事者の弱いところを助けて万人の平等の権利を実現するという定義であるが、その定義から外れて「汚いとみなしたものを排外し、存在を否定する(主に、セックスワーカーやLGBTQ+,性の表現などを槍玉に上げてくる)」という人生の選択肢に障害を与えかねない「障害者にさせる」ような雰囲気もある。それでいて「障害者にさせて、それを不幸な人扱いして、またその人たちの存在を否定して尊厳を貶す」というのだから、相模原障害者殺傷事件と同じような雰囲気を感じてしまう。

改めて、個人の尊厳と幸福の追求を

 やはり、不平等な命を平等にするには、個人の尊厳を重視して選択肢や表現を狭めずに、いろんな楽しい選択肢を見つけて人生送れればみんなの個人の尊厳と幸福の追求に繋がると思います。これで相模原障害者殺傷事件のような排外殺人事件は起こらないのかもしれない。

最後に、中川翔子さんのこのツイートに命を救われました。


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