見出し画像

良くも悪くも「0」か「100」

最近自己分析をする中で気付いた。

自分の短所の一つに、
「人への諦め」
といったことがあるということに。

ここだけ抜き取ると、
ぼく自身が極悪人だと思われそうだが、
最後まで読んでいただけると、
言いたいことが分かる方もいるかと思います。

それでは本題に。




前回投稿した記事、
『良きライバルほど、信頼できる』

https://note.com/pazuandporco/n/n5db1808ab01e

この中でも取り上げた内容だが、
人に対する重要な見方、

それが
“信頼できるかどうか”
という点である。


中学生ぐらいからだろうか、
自分は人に対して「嫌い」という感情がない。

「嫌いな人」というのがいない。

おそらく、
周りが「あいつ嫌い」「あいつウザい」
そんな話をしていて、
それを聞くのがめんどくさくなったのが発端かもしれない。

「いや、
    そんなん言うてるんやったら
    関わらんかったらええやん。」

そんな話を聞く度に、そう思っていた。


「嫌いな人」がいない。

先ほどそう述べた。

が、
みんながいう「嫌い」は、
自分にとって「信頼していない」
にあたるのかもしれない。

もしそうなら、
そんな人はいくらでもいる。

ただ、
自分が徹底しているのは
信頼していない人には積極的に関わらない
ということ。

もちろん、
相手からきた場合は“ふつう”に対応するが
自分からいくことはまぁない。


つまり、

一般的にいう「好き」「嫌い」は、
自分の中では「信頼の有無」であり、

「信頼が無」の場合は関わろうとしないので
自分の周りは基本的に「信頼が有」の人で溢れている。


そういうわけで、
自分は人に対して、
「0」か「100」なのである。

信頼している人のことは
ヒトとしてリスペクトできるし、
一緒にいたいと思う。

一方で、
信頼していない人のことは、
もはや興味がない。完全に「0」だ。

自分でも分かってはいる。

性格ひん曲がってるなぁ、と。

しかし、
自分のひん曲がり具合はこれに留まらない。

信頼していない人、
また、
信頼がなくなった人に対しては、

「どうせこの人はそういう人だろう」
「信じてたけど、所詮はそういう人なんやなぁ」

という考え、感情をもってしまう。

「人への諦め」である。

信じることができなくなる。


自分は小さい頃から、
周りの人に「優しいなぁ」と
言ってもらうことが多かった。

でも、そんなことはない。

なぜなら、
自分は万人に優しいわけじゃないから。

信頼している人にしか温かくは接しない。

つまり逆にいえば、
「優しいなぁ」と言ってくれた人のことは
自分が信頼していたということだ。


そんな極端な人間性なのが自分。

どう非難されようとも、
これからも信頼できる人と一緒にいようと思う。




と気持ちを整理しながら、
この文章を書いてきた。

「0」か「100」、
確かに自分はそうかもしれない。

でも、
「信頼していない(信頼できなくなった)」と
「信頼している」のほかに、
「“まだ”信頼していない」という存在もいると感じた。

していないわけじゃない。
が、完全にはしきれていない。
でもこの先信頼できる可能性がある。

そんな人もたくさんいると分かった。

そういう人には、
無意識のうちに〈信頼〉できる要素を探しながら接していると思った。

「0」にしろ、
「100」にしろ、
まだ信頼していない「50」(?)にしろ、

やはり、
自分にとって
“信頼できるかどうか”はとても大事。

そして、
“信頼できるかどうか”が決まる大きな要素は、
責任感があるかないか
筋が通っているかどうか

というところである。



記事にするような話ではないかもしれないが
感情の整理も兼ねて筆を執った次第であります。

読んでくださってありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?