見出し画像

『永遠平和のために』の読書記録。

おはようございます
ぱそです。

私は最近2周目の『永遠平和のために』(Immanuel Kant, 1795)を読み始めました。

初めての出会いがNHK100分で名著の特集を視聴し本を読んだこと
その番組で感銘を受け、大学3年生の時に実際の本を読みました。

卒論の題材にしようかと迷った程、興味を惹かれる本でした。

今、イスラエルでの戦争が始まり再度読まなければならないと思い立ちました。
私の読書記録を通して、皆さんも一緒にカントが考えた平和と、永遠の平和は訪れるのかについて考えていただけたらと思います。

第1章第1条項
将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。

カント著、宇都宮芳明訳、『永遠平和のために』、岩波書店、1985年

カントはここではじめに「平和」とは何かを定義しようとしています。
「平和とは一切の敵意が終わること」であるとカントは述べています。
そのため、将来の戦争の種が残ったままでは「平和」条約とは呼べないというのです。
逆に言えば平和条約を締結するということは、今後戦争の火種になるようなあらゆる原因が否定されたことになります。
しかし、戦争が行われていたために平和条約は結ばれるものです。
その戦争の火種となった権利主張を心の内に留めたままで平和条約を結ぶと、また戦争の疲れや苦難を忘れたころにまた戦争が繰り返されてしまいます。

カントはここでそのような取り合えず保留にしておくというような行いは「品位を汚す」と述べています。

しかし、「品位を汚す」ではあまりにも弱いと思いませんか?
私はその品位自体が人によって異なる価値観に属しているため、品位がどうであれ戦争をしたい人が必ず出てきてしまうと考えます。

ただ、カントが言うように平和条約を結んだ以上、今後一切、それから何年、何百年経とうとも戦争をしないという決意が現れたものが平和条約であるべきだと私も考えます。
そうでなければ平和条約にはなりませんし、ただの停戦です。
停戦では敵意が残っている状態に変わりはありません。

平和条約を結ぶためには相互理解が欠かせません。
戦争をするということは、お互いに主張が食い違っている状態と言えます。
その時に、相手が自分の主張に納得してくれないから武力行使がはじまってしまうのです。
まるで子供の喧嘩のようですが、事実そんなものではありませんか?

お互いの主張が理解できないから戦争をしているのに、急に相手の主張を受け入れて同意するわけにはいかないはずです。
では、どうすれば戦争状態から敵意を一切なくした平和条約が締結できるのでしょうか?
現実的に考えて、ただ対話を重ねたところでお互いの意見は食い違い続けると考えられます。

なぜなら、その主張の出立点自体が理解できない場合や認識が違う場合が往々にして考えられるからです。
主張が違う場合にも相手を理解し、お互いにとって最善の打開策を見つけるために、重要なのはその主張が目指す、真の目的を明確にすることであると哲学を学んできた私としては考えます。

イスラエルの問題には当てはめられて、もしかしたら打開に近づくかもしれませんが、ウクライナの問題の場合には目的の明確化を図ったところで解決には近づかないかもしれません。

カントはこの点をどう考えて居るのでしょうか。
もやもや感が残りますが、次の条項に進みましょう。
読み進めればカントの考えが見えて、納得するかもしれませんから。


第2条項
独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、ほかの国がこれを取得できるということがあってはならない。

カント著、宇都宮芳明訳、『永遠平和のために』、岩波書店、1985年

この項では国家は誰かの所有物ではないとカントは述べています。
「国家は、国家それ自身以外のなにものにも支配されたり、処理されたりしてはならない人間社会」なのです。
国家というものはあくまで人間のコミュニティの総体であり、物体ではないのです。
そのため、継承や売買、交換はできないのです。
その国家を形作っているのはあくまでそこに住まう国民社会であり、国土でも領主でもないということです。

ほかの国が国家を他の国家に接合することは「根源的契約の理念に矛盾する」とカントは述べています。
「根源的契約」とは社会契約説的考え方の契約のことで、人民同士が契約しあうことで国家が成立しているという形態の契約を指しています。
現代の人権の考え方と同様に、お互いがお互いの自由や平等を認め合い、保障しあっているということです。

確かに、この認め合いの精神がお互いに存在していさえすれば、国家を買収しようだとか、自分のものに変えようだとかいった考えは起こらない事でしょう。
世界の皆がこのような存在者であるべきだと私も心から思います。

しかし、実際の人間というのは相手との比較で自分が不利にならないように、劣るところがないようにと考えて立ち回る生き物です。
そうすると必然的に他者を認め合う存在としてではなく、敵対視する対象と見做してしまうと私は考えます。

国家を物体として消費することは許されませんが、その認め合いの精神をどうすれば全員に忘れさせないことができるのでしょうか?
誰か一人でも自分の現状に他者との比較の中で満足しなくなった時、平和は崩れ落ちてしまいます。

カントはこの理性的な精神をどうすれば維持できるのか本項の中では述べていません。
もしかしたらそれを知るためには彼の『純粋理性批判』を読まねばならないかもしれませんが、とりあえず次項に進みましょう。

次回に続きます。

皆さんが平和について思案し議論するきっかけになればと思います。
お読みくださりありがとうございます。

ぱそふれんだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?