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凡庸雑記「無駄」


さて、無駄なことをしよう。今からスタバで無駄なことを書いていく。

最近忙しすぎて、全く無駄なことをする気持ちになれなかった。もちろん、今もひっきりなしにあれやこれや来ているが、アホらしくて手をつけていない。なんたって、今日は久方ぶりの休みなのだから。


こうして、何も生み出さないと思われる、無駄な文章を書きながら、だけど、なぜだか心がホッとしている現実に戸惑いながら、無駄に生きること、生産すること、それは一体なんだろうかと考える。

価値を産む、すなわち身も蓋もないことを言えば、生きるための対価を得る。そんな、具体的で生産的な事、往々にして仕事。をする時、とてつもない充実感を得るし、達成感に満たされる。


僕の身の回りでも、唯一それだけを信奉して、生きている人が多い。なんと多いことか。

それこそが、人が人たる存在の理由であり、意味である。そう、体全体で彼らは、僕も含めて訴えている。

だけどだ、なぜだか一部の僕みたいな存在は、そこから横道に逸れて、余計な無駄なことを貴重な時間と、時として、資産を使い行ってしまう。

感情がそうさせるのだろうか。利害や他者からの要求ならば、こんなことをしている暇はないはずだ。日々、刻々と世の中は変化し、人の要求も増大し、それに対して、誠意をもって在らん限りで対して行かなければ、未来はない。(事実であり、妄想であるが)

どうしようもないのだけど、農家でも、職人でも、医者でも、弁護士でも、IT経営者でも、同じ。かもしれん。最適な農法を学び、より育つ肥料を見つけ買付、まいて育てる。

職人だって、日々、最良の製品を作るために、技術を磨き、最新の工具を手に入れて、おまけに顧客の要望に対応している。人が生きる上で、誠意のある姿だ。

ひるがえって、こうして無駄なことを切望する僕は、なんとも浅はかな姿であろうか。情けないったりゃありゃしない。でも、頭で考えると、なんとも無価値で無意味なことをしているのに、思いは軽やかにスキップしているのだから、なんともタチが悪い。

きっと、僕の背景には、遠い先祖には、大切な価値や、必要とされる責務を放り出して、思いのままいきた、そして、没落した影があるのだろう。事実、親戚のおじさんに聞いた話では、昔、家の周辺全て我が家の土地であり、それを少しづつ切り売りすることになって、祖父の代では厳しい生活を強いられたようだ。

世の中の大切な部分を捨て置いて、勝手気ままに生きた影。そいつが、常々僕の中に巣くっていることを、じわじわ感じてしまう。ほんの少しのきっかけがあれば、そんな生き方をしてしまうのだ。哀れなり。

この間観て歓喜に震えた「パーフェクトデイズ」なんてのも、ああして、見事な演出と、名演があってこそで観られたが、側から引いてみれば、どうしようもない世捨て人である。

あれを観ながら、素晴らしいと言えるのは、それと、全く遠い人として真っ当な部分が占めている、一般人だからだろう。

僕なんか、確かにすこぶる映画として感動したのだけど、一方、いつでもどこでも、ちょっとした踏み外しで、一人、安月給で貧相な荒屋に一人住み、静かに確実に老いさらばえていく姿がありありと脳裏に浮かんてしまう。

振り返るに、こうしてよくもまあ生きてこれたもんだと、感慨に耽ってしまう。


そう言えば、今日観た「ゴールデンカムイ」で、アシリパさんが死なずに生きているのは、何かしら意味があり、必要だからだと言っていた。多分。それを考えるに、まあ、無駄ばっかりの人生だけど、なんだか、それなりに何かあるかもしれない。

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