凡庸雑記「白と黒」モノクロ写真をもっと撮らなくてはと思う日々
何事にも感化されやすい、よく言えば感受性が高い、情けなく言うならば、周りにふりまわされやすい僕は、Nikon Zf発売を記念して、モノクロ写真を撮ってみることにした。
なんたってNikonZfには、モノクロ簡単切り替えのダイヤルが付いているのだから。それを使えば、あっという間に、カラーがモノクロに変わるのだ。
見知ったNikon系のカメラマンたちが、YouTubeでこぞってこの機能をほめそやし、嬉々としてモノクロを撮っている。
そんな彼らの姿を見ていると、頭の中の妄想は勝手にNikonZfを手に入れている。そして、嬉々として、モノクロを撮って、味わい深い漆黒の陰影を量産している。
ここで、余計な思い込みを吐露すると、モノクロ写真は紙に印刷してこそ本物。フィルムで撮影して、現像液で現像し、焼き付け機で印画紙に焼き付けて、写真にするもの。
全てを手作業で行い、体と経験で形あるものとして残すべき。こんな思いが、過去の残影が、心に引っかかっている。
太古の世界から(数十年前ぐらいだけど)、写真を趣味としているのならば、一度はモノクロに手を出さないといけない。出すべきだ。もちろん、コダックのトライエックスを詰め込んで、自らの手で白と黒の像を作らねばらない。それは、ほんの少しの環境と徒労があれば叶うことだ。
その過去の常識に囚われている。
現実には、憧れながらも、結果、今の今まで成し遂げてない。その、後悔がデジタルでモノクロを撮ることを躊躇させている。
馬鹿げた話だ。落ち着いて考えれば、それではカラーならばいいのか。
罪悪感皆無で、せっせと撮っているカラー。デジタルならいくらでも撮れる、フィルム代や、現像やプリント代に頭を悩ませる必要がない。これからはデジタルが写真なのだ。なんて、宣っている。
それがモノクロだと、フィルムで撮って、臭い暗室で現像し、赤い光の元で印画紙に像を浮かべさせなければ、本当の写真とは言えない。なんて、妄想を信じている。
でも、これだけデジタルが充ち満ちた世の中のだから、過去の憧れを保蔵しつつも、モノクロも胸を張って、Nikon Z6 で撮ってみないとなあと、思うのだった。
やっぱり、モノクロの潔さは、味があって、心が疼いてたまらない。
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