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凡庸”創作”雑記「ルック・バック」

有体な言い方をすると、「感動した!」

しかない映画なんだけど、それで、終わってしまう物語なのだけど、今でも、胸の中がクラクラしている状態なので、思いついたことを書いてみる。

その間「関心領域」を観て、映画が始まって、初めの画面を見た途端、”美しい”ととろけた。こんな、戦争のそれも、ユダヤ人虐殺の陰惨な物語なのに、”美しい”とは、不遜に違いない。

だけど、監督の思考の形を、徹底した意思のもとに、妥協なくスクリーンに焼き付けた(陳腐)、強く揺るぎない美意識にただただ、満たされた。戦争の物語なのに。

この映画も、同じ、匂いがする。

自由自在に、変幻自在に、絵と表情が切り替わり、めくるめく世界の中に、放り込まれる。だけど、どれほど、意表を付いた絵であっても、頑なに固定された表現の目的、方向がある。

だから、見ていてとても”美しい”

そして、見ながら、そして、見終わった今。改めて、思うのだけど、次のシーン、また、次のシーンと、繋がれていく、シーンと対話している愉快さがあった。

大昔、まだ、僕が映画と言うものを、生きて行くための唯一の”希望”としていた時。その時の星の如く輝く、名匠、巨匠たちの映画に縋っていた時、監督の視線と対話するように、次訪れる場面を、予想し、期待し、待ち構えて見ていた。

あゝ、そうか、ここでこう言う構図で、速さで、画角で、場面に命を与えるのか、と、感嘆の声をあげていた、映画館のシートの上の心の中で。

その、創作者と、対話するような、推理するような、同調するような、何よりも、類稀なる才能に畏怖するような、見方を、薄汚れた地元の映画館で、楽しんだ。もう、こんな経験をできる映画は生まれないだろう、そう、諦めていた。

それがだ、アニメだよ。アニメの映画。そして、わずか、98分。1時間にも満たないもので、再び同じ創作の協調を得ることができたのだから、卒倒である。

フェリーニでも、ビスコンティでも、デパルマでも、コッポラでも、ジョゼッぺ・トルナトーレでも、ミロシュ・ファアマンでも、そして、小津でも、黒沢でも、敬愛する大林宣彦でもないのだ。実写でもなくアニメなのだ。

名匠たちが、映画館の中で、創作の深淵を見せてくれて、それに、贖えない
重厚な感動を得て、かろうじて生きる”希望”を得ていた。それが、映画館を出て、数秒で消えたとしても。

様々な、テクニックもあるだろう。明確な簡潔な、そして、鋭利な創作が土台にあるだろ。だけど、今の世の中、語り尽くされた、表現の技量が、星の如く散りばめられている。そいつを、かき集めても、心に風が吹き抜ける、もどかしさを感じる作品が多い。

それが、技術の極めた創作技術をふんだんに、見せながらも、技術的な一面で賞賛が判断できない。腰が重く座った豪快な力強さが、常に場面から吹き出したいる。いったい、何を、人生の大切な何を、この映画の創作者は捧げたのだろうか神々に。そう、戦慄を覚える。

「創作」とは、

それは、いったい何だろう。と、考えさせられる。

誰にも、催促されず、要求されず、強制されず、ただ、身体の奥からどくどくと理解不能の何か衝動が湧き出してくる、そんな、不可思議で不条理で、腹の足しにもならないつまらないもの。なのかもしれない。

だけど、打ち消して、踏み潰して、河川に水平に放り投げ、三段跳びをさせても、再び、戻ってくる。出来の悪い子犬のような、厄介なもの。

その、身体に張り付いた、どうしようもない病魔なんだと、この映画は、正面から一歩も引くこともなく、描く。そして、知る。

主人公たちの、たゆまぬ、衝動と衝撃と、鼓動を、かろうじて創作への寄り道を歩いている僕は、痛く辛く、ほのかに罪悪を持って、受け入れる。ただ、彼女たちのように、人生の全てを綺麗さっぱり、創作へ振り向けることはできず、気がついたら、飯の種にもならんことを、いったい、ぜんたい、時間と金を使ってやっているんかい?と、しらふに一般的社会人になろうとして、辞めてしまうのだ。

だけど、こうして、嫌になるのだけど、響いた日々の事柄を延々と書いてみたり、一目に憚れる哀れな格好で、不人気機種で価格が安く、手に入りやすかった、Nikon Z6 をぶら下げて、大都会やど田舎を写して、ふらふら歩いているのだから、ほんと、アホである。

こんなアホなことをしなきゃいけなくなった、哀れで面倒な創作者たちの、これ以上ないほど”美しい”鎮魂歌なのかもしれない。この「ルック・バック」は。

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