smart crest ―ハンコのある風景―
0.報道 2019
2019年9月、内閣改造が行われた。新たな科学技術・ⅠT担当大臣は12日に行われた記者会見において「行政手続きの『デジタル化』と書面に押印する日本古来の『はんこ文化』の両立を目指す」と発言し、波紋を呼んでいる。
1.霞ヶ関 某省 オフィス 2019
「なぁ、カジ。例の会見さ」
僕は書類に目を通しながらつぶやく。
「あー、見た見た!こんがりどころの騒ぎじゃねぇ。大炎上じゃん。どーすんだよ、アレ。ハンコとITっての両立って。」
同僚の梶間は心底迷惑そうに言う。が、別に怒ってはいないのだろう。
「ま、どーせすぐ飽きるんだぜ。12時間ともたねーよ。」
ケラケラ笑いながら、それでも仕事の手は止めない。
「いや、アレさ。ガチかもしれんわ。」
ほら、と手元の書類を梶間に投げ渡す。
「ほいっと。なになに…?印鑑型認証デバイスと個人認証のあり方に関する研究と提案…。まーたどっかの大学生の戯言かぁ?…あ、企業研究室か。ってオイオイオイ。」
「総務省と国税庁のマイナンバー系部署、厚労省の保険証事業系部署、経産省のキャッシュレス決済系部署、経団連、文科省、電子決済のbuy/pay、教育業のVanessa、自動車会社4社に国交省と鉄道系各社に航空会社、コンビニ各社に、外食メジャー、大手銀行、保険会社、総務省選挙管理機関。通信会社各社にIT各社。革報堂に伝通。外務省のパスポート系部署。国内の工業系メーカー各社。その他諸々。」
僕は覚えている限りを並べ挙げる。すべて、書類の共同提案者の欄にあるものだ。いや、欄なんてものではなかった。映画のエンドクレジットのように並んでいた。それだけで1~2ページあった。
「いやいやいや、なんの冗談だよ。アベンジャーズかよ!エンドゲームかよ!…いや、マジで豪華なんてもんじゃねーだろ。戦争でもしようってのか日本。普段足踏み合いながら握手してる奴らだぞ。…あー、分かったぞ。名前だけ貸りてる感じだな?高校の文化祭かよ。まったく驚かせやがって。」
「カジ。多分本気で手組んでるぞ。」
「あーっと、なになに…セラミック製の印鑑の内部に小型ICチップを内蔵し、個人の指紋データ、静脈データを保存。個人の戸籍、住民票、マイナンバー、保険証、年金、税金等の国政系データと紐付け。行政サービスのスリム化を目指し、医療現場における処理のIT化も推進する。さらにキャッシュレス決済や自動車の起動、家の施錠、オフィスの入退出、PCの起動など、個人を識別する必要のあるあらゆる場面において、印鑑デバイスを使用する。最終的には選挙やパスポートにも使用していく…。なんだよ。こんな提言系論文、年間何百件届くと思ってんだ。驚かせやがって。」
「内容だけなら、な。提案者の名義をこんなにそろえて来てるのは、俺は初めて見た。それに、提案の内容が、本気になれば2年かからないレベルの難易度にまとまっている。技術水準的にも。現状で日本のシステムを変えるときに障害となるのは、もはや社会インフラとなった企業達だ。その企業が協賛している。それに、ハンコなら高齢者でも抵抗が無い、という点も大きい。老人にスマホ持たせるのは大変だが、ハンコなら持ってくれる。理に適っている。」
「俺らも持つの?ハンコ?あっりえねぇ。」
梶間はケラケラ笑ってみせながら―表情は硬いが―、電子タバコのユニットを取り出した。
「それ。」
「は?」
「それより小さい。俺らは既に、スマホやらモバイルバッテリーやら、アイコスやら、そういうのを持ち歩いている。それより小さいデバイスなら、今さら1つ増えても、多分俺らはすぐに慣れる。気にもしなくなる。」
「だとしてもよー…」
「ま、実際通らんだろ、多分」
夜はふけていく。書類は梶間の手を離れ、机の上で力なく広がっていた。
2.日本 コンビニ 2030
「いらっしゃいませ」
店にいないはずの人間の声がする、と言って困惑していた母を思い出す。
コンビニの店内には―少なくとも表側には―店員の姿は無い。商品が整然と並んでいる。僕の骨伝導型イヤフォンは、このコンビニからの外部アクセスを許可しているから、入店時には若手女性声優の声をもとにした合成音声が、耳元で挨拶してくれる。今はチョコレートを手に取り、買おうか迷っていると、耳には商品を説明する声が流れ込んできた。
僕はチョコレートを結局買うことにする。無人のレジで商品をスキャンさせながら、ポケットからクレストを取り出してレジに挿入した。クレストはリップクリームみたいな形をしていて、僕は小学生のときから持たされていた。指紋認証のために指をレジの指定された部分に押し付けると、買い物が終わる。と、耳元で声がする。
「現在、衆議院議員選挙の投票期間です。」
落ち着いた女性の声。コンビニのシステム音声じゃない。政府広報だ。レジの画面はいつの間にか選挙の告知画面に切り替わっている。
「このまま衆議院議員選挙の投票を行えます。」
そういえば、ここ数日買い物をしていなかった。僕は画面をタッチして、手の平をレジにそっと置く。
「静脈認証に成功しました。投票をお願いします。」
声といっしょに切り替わった画面には、いかにも笑顔の写真が並んだ。僕はとりあえず若くて勢いのありそうなのを押す。僕と同い年くらいかもしれない。被選挙権も何年か前に引き下げられたから、間違いではないと思う。
「投票を確認しました。」
「クレストをお返しします」
声が一気に若返る。コンビニ側の音声とともに、シャッターが開いて挿入した穴からクレストが返ってくる。チョコレートと一緒にバッグに放り込む。かわいらしい声に、耳元で再来店を懇願されながら、僕はコンビニを出た。
3.東京 商社会議室 2025
「契約書の内容を確認していただけますでしょうか。」
久々の大口契約締結の興奮を抑えながら、俺は相手会社の重役に書類を渡す。まさか、社長自ら出てくるなんて、思ってもみなかった。緊張と興奮で吐きそうだ。スポーツモードを切り忘れた所為で、腕時計デバイスがブルブル微振動して、心拍が上がっていることを教える。
「―はい、これで問題無いです。それでは」
「はい、ここに署名と捺印を!」
規模の多寡はあれど、ずっと交わされてきた光景。このゴール寸前みたいな感じが好きで、俺は営業をしている。もっとも、何年か前から若干光景が変わった。
向こうの社長が署名をする横で、秘書がルービックキューブのようなものを準備している。俺も慌てて、営業用の鞄から同じ形のデバイスを用意する。担当者として"捺印"するためだ。自分のクレストを出して、デバイスに近付けると、デバイスの表面がカシャッと音を立てて開く。小さい穴にクレストを挿入すると、デバイスが閉じて起動。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます。確認いたします。」
相手方が差し出してきた書類の署名と捺印を確認したら、自分の名前をボールペンで書く。ペンを置いてから、デバイスを持って、側面のボタンを押すと、赤い光線が契約書の上に点になって落ちる。名前の横に狙いを定めて、デバイスを置いたら、側面のボタンをもう一度押す。次の瞬間には、俺の名字が朱色の円とともに書類に浮かんでいた。
このルービックキューブもどきは、クレスト押印用オプションデバイス。クレスト内の指紋データと、ボタンを押した指から読み取った指紋データを照合して、OKなら印章データをその場でターゲットの紙に印刷。確か、3Dプリンタの技術を使っていて、表面の朱色の層が削れたりしても、下の層がブラックライトに反応する層だとか、そもそも紙も特殊で紙に朱肉の時代より格段にセキュリティ向上しているとか、押印したときの時間と位置情報まで記録されているとか、そんな感じらしい。こいつを使うように言われて、何かが劇的に変わった、ということは無かった。結局やることは変わらなかった。
4.地方都市 小学校 2020
「はーい、今日は大切なものを配るぞー。」
その日、先生は段ボール箱に入ったハンコをみんなに1本ずつ配った。ハンコは新しいチョークより少し太くて、先の方に固めのボタンがついていた。
「それじゃ、一人ずつ呼ぶから、それを持って先生のところにおいでー。まず青井ー。」
呼ばれた子は、先生の机の上には銀色のボールがあった。ハンコをボールの穴に挿して、両手でボールを持つみたいに触った。ひんやりして、なんか気持ちいいな、と思っているうちに、ピーっと音がして、ハンコが出てきて、渡されて、戻らされた。
これはクレスト。クレストはみんなの分身だ。大切に扱うんだ。失くしたりしないように気をつけるんだ。誰かのクレストをいたずらで触っちゃいけない。誰かのクレストを傷つけたら、絶対にいけない。それから、何か困ったことがあったら、クレストについたボタンを押すんだ。思いっきり押して良い。防犯ブザーと一緒だ。しっかり押すんだぞ。
その日、学校には自販機が置かれて、僕らはクレストでジュースを買っていいことになった。自販機には穴があって、僕らはそこにクレストを挿した。持ち主じゃないと、自販機のボタンは反応しなかった。先生が、みんなのクレストにはおこづかいが入るから、1日1本ジュースを買って良いと言っていた。
僕らは学校に来るとクレストを机に挿した。宿題を頑張ったり、先生のいうことを聞いたり、たくさん正解したら、クレストが光った。
教室でケンカがあった。誰かがクレストのボタンを強く押した。
しばらくして大人たちが入ってきた。その後、教室のカメラ映像とクレストのボタンのタイミングから、どっちが悪いかがしっかり明らかになって、ケンカした子たちは、しばらくクレストが使えなくなった。僕らはケンカしなくなった。ジュースが買えないし、授業で頑張ってもクレストが使えないなら意味がないから。ボタンは学校の外でも使えた。近くの防犯カメラが僕らを守ってくれるようになった。いじめも無くなった。誰も得をしないから。僕らはクレストが来る前より仲良くなった。
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