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smart crest ―判で押したような日々―

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0.わたしとくれすと 2026
 くれすとは、いつでもわたしをたすけてくれます。このまえは、おとうさんとおかあさんのけんかをとめてくれました。わたしがくれすとのぼたんをおすと、おとうさんも、おかあさんも、にっこりわらって、わたしをなでてくれました。わたしはくれすとが、だいすきです。これからも、だいじにしていきたいです。
(印章庁主催「私とクレスト」作文コンテスト小学生部門佳作より一部抜粋)

1.東京 オフィス街 2022
「次は、新宿ー。新宿ー。」
電車のアナウンスが合成音声になって何年が立つだろう。ボーカロイドが流行ったのが中学生の頃だったか。あの頃はまだ、人工音声はメカメカしくて、「人間になろうとしている何か」感 が強かったように思う。ボカロはそういう、本能的な気持ち悪さを誘発させる要素― 後に大学で「不気味の谷現象」という名前があると知った ― があったのかもしれない。
3年生のときには、「昼休みの放送でボカロ曲を流しても良いか、悪いか」という議題が生徒総会にまで出てしまったうえ、オタクも非オタクも、男子も女子も、学年やクラスといった線引きまで越えて、国語や道徳の授業で行われたディスカッションがコントに見えてしまうくらい、真に迫った議論が行われた。当然、2時間程度では足りるはずもなく、暴動に発展しかねない熱量に、教師陣と校長は目を丸くし、その場で翌日の授業をすべて生徒総会にすることが決定された。今思うと、あれは異常だった。教師側、特に国語の先生方は、その熱い議論を自分たちの教育の成果と勘違いし、翌年からサブカル系の話題を授業のディスカッションで取り上げたりしたようだが、あまりパッとせず、生徒総会も、生徒の睡眠時間に戻ったということを後輩から聞いた覚えがある。
そんなことを考えるともなく考えながら、私は電車を降りて、人の波に乗って階段を昇ったり、だらだらと歩いたりしているうちに、いつの間にか駅の外に出ていた。少し強めの陽射しに、我に返る。

クレストという名前のデバイスが、国策という大義のもとで半ば強制的に普及した結果、改札機が日本の駅という駅から消えた。もちろん券売機も仲良くいなくなった。なんでも、電車の扉の位置に設置されたホームドアでクレストを読み取っているらしい。クレストは銀行の口座と直結しているから、チャージの必要すら無い。国民は銀行口座を持たされて、どんな小規模な会社も給与は振り込みになった。残高が足りなかったらツケになって、翌月の給与から自動的に引き落とされる。
クレストはタイムカードの代わりにもなった。労働基準監督官が常駐しているレベルで勤務時間が管理されるようになったおかげで、毎朝決まった時間に全員が出社するという就業形態も、すっかり絶滅危惧種の仲間入りを果たしている。さすがに、好きな時間に出社とまではいかないまでも、ある程度の緩やかさが生まれたのは事実だ。高度AIとやらのサポートのもとに仕事が割り振られるため、管理職の顔色をうかがうことも減った。
結果的に、満員電車という文化も消滅の危機に陥っている。高度経済成長期を支えてきたと自負している層が、寂しく感じている、満員電車は誇りであり象徴であった―などと語っているというのを聞くと、新しい技術の普及や働き方改革を邪魔していたのは、変化を恐れ、面倒くさがり、下の世代に蔑まれたくない、社会の主役の座を受け渡したくない…そういう感情を持った私たち自身だったのかもしれない。次に選挙があったら、そういうこともよく考えてみよう。クレストを使って投票ができるようになるみたいだし。

2.北海道 洞爺湖 2018
「お集まりの皆さま、今回は遠路はるばるありがとうございます。このホテルで国際サミットが行われたのが、ちょうど10年前。国際的な経済危機が起こったのも同年でした。以来、いや…もっと前から、わが国は緩やかに低迷の兆しを見せておりました。当時5%だった消費税も、来年には倍の10%に達し、経済の冷え込みは加速することが、簡単に想像することができます。2011年の東日本大震災以降、自然災害の規模及び被害額も膨らみ続け、皆さまご存知の通り、日本はあまり、良い状態とは言えません。」
メインの大会議室、そしてオンライン中継でつながれた様々な大きさの会議室に、淡々とした声が響く。
「現在、このホテルは期間中、国で借り上げ、一切のスタッフはこちらの管理下にあります。また、皆さまには大変申し訳ありませんが、全会議終了まで、このホテルから出ることはできません。」
あくびまじりの参加者、話を聞く気を見せず談笑していた参加者の空気が凍てつく。映画の見過ぎか、何かの聞き間違いか、と苦笑を浮かべる者もいる。
「これより、電子認証用印鑑型デバイス運用会議を始めさせていただきます。日本の未来のため、皆さまから同意が得られるまで、1週間になりますか、1ヶ月になりますか…。皆さま、是非とも、お付き合いいただけますよう、よろしくお願いいたします。」
日本の様々な産業を代表する大企業や銀行、各省庁の代表者、学問の別なく集められた有識者、研究者たちのどよめきと、うやうやしく頭を下げる男の声とともに、後にクレスト会議、別名、魔の十日間と呼ばれる会議が幕を開けたのであった。

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