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今日も一緒に生きる

「……よう。」


「……はよう。」


どこか懐かしくて、心地いい、聞きなれた声…・・・。


「おはよう!」


体が大きく揺さぶられ、目をあける。

見慣れた木目の天井。足元の壁には、幼い頃に描いた落書きの跡が残っている。

右を向くと、父が布団の中で、ミノムシのように眠っている。

頭を持ち上げて、上を見る。

逆さまの視界の中に、エプロン姿の母が、背丈よりもずっと大きな窓を開けているのが見えた。

海の潮の香りと土の匂いが、風に運ばれて部屋の中に入ってくる。


「お母さん?」

「もうそろそろ行く時間やろ。」

「どこに?」

「どこにって。学校に。」

「学校?」

「何を寝ぼけちゅうが。」


母は、仕方ないなぁとでも言うように、眉尻を下げクスっと笑いながら、横を通り過ぎた。

温もりの残る布団から、のそのそと起き上がり、天井に向けて拳を高くつき上げながら背伸びをしてみる。窓から流れる冷たい空気に、パジャマの中の温かさが失われていくのが分かる。外には、春の訪れを待つ田んぼが広がり、隣接する中学校の野球部の子たちが朝練で、その前を駆け抜けていく。


窓際の壁には、見慣れた制服がかけられており、その横には「高2Bクラス」と、マジックペンで乱雑に書かれた教科書が詰め込まれたカバンが置かれている。

ワイシャツ、スカート、ブレザー、リボン、ソックス……。

ひとつひとつを身に付けるたびに、自分の中のやる気スイッチが一個ずつ押されていく感覚に、思わず笑顔になる。


「おはよう! 起きたかね。朝ごはんできちゅうよ。ほら、早くおいで。」

母が隣の部屋から顔をのぞかせ、私を呼ぶ。

「おはよう。」

そう言いながら食卓につくと、私と母の二人分の朝ごはんが準備をされていた。

炊き立ての湯気がホクホクと立つ白ご飯と、お味噌汁、鮭の塩焼き、そしてギッシリと中身の詰まったお弁当が、開かれた状態で置かれている。

「おはよう。ほら、早く食べや。それとこれお弁当。忘れんようにね。」

母も向かい側に座り、一緒に手を合わせた。

「いただきます。」

お味噌汁の温かさが、じんわりと染み渡っていく。


テレビからは、話題のニュースやトレンド商品の紹介、映画のランキングなど、今日の始まりを知らせる声が聞こえてくる。

家族と過ごす何気ない朝の1ページ。当たり前で何も疑うことのなかった、毎日の朝。

「おはよう」と言えば「おはよう」と誰かから返ってきて、「いただきます」の一言で何倍も美味しく感じるご飯。

ただそれだけのことが、こんなにも嬉しい。


「何、ニヤニヤしゆうが?」

「ううん、何でもない。」

「あら。今日、夕方から雨やって。折り畳み傘持っていきや。」

「え、晴れじゃん。」

「ん? 傘マークついてない?」

あ、そうだ。ここは東京じゃない。

四国エリアに目を向けると、母の言う通り傘マークがついている。


開かれたお弁当をちらっと見ると、私の好きなナポリタンに、アルミホイルの底に今日の占い結果が隠されている小さなグラタン、栄養バランスを考えた野菜が詰め込まれている。

無言の愛情に、お味噌汁とは違う温かさが体中を巡り、思わず涙がこぼれそうになる。

私はそれを隠すようにして、眠たい目をこすった。


『それでは、今日の運勢。9位は~』

プチン。

テレビの電源が消える。

母はいつも「最下位だったらショックだから」と、占いコーナーになると、テレビを消していた。

実は信心深く、占いの結果を気にする――そんな母の姿が妙におかしい。

食器を洗おうと立ち上がった母の目を盗んでテレビをつけると、ちょうど最下位の発表がされていた。

『ごめんなさ~い。最も悪い運勢はしし座のあなた。』


あ、お母さんだ。

台所を見ると、食器を洗いながら、さっきまでテレビから流れていた、はやりの音楽を鼻歌交じりに歌っている。

黙っといてあげよう……。

心の中でそう呟きながら、私も自分の食器を洗いに台所に向かう。作り置きされたお味噌汁と鮭の塩焼きの側には、まだ起きて来ていない父の食器が置かれていた。


バシャバシャと顔を洗い、髪をとかし、お弁当を包み、玄関に向かう。

すると、まだ目が半開きで、布団の温もりから出てきたばかりの父が、玄関に現れた。

「おはよう。」

「あ~、おはよう。」

起き上がってきた父の髪の毛は、鉄腕アトムのように、ピンと頭のてっぺんにアンテナが立っている。


玄関を開けると、太陽の光が体中の細胞に「おはよう!」と広がっていくのが分かった。

息を吸い込むと、乾いた空気が肺にツーンと流れる。その冷たさは、まだ今日が始まったばかりであることを、教えてくれた。

「行ってきます!」

「行ってらっしゃい!」

両親の声を背に扉を閉め、自転車にまたがる。

ペダルをこぐと、向かい風が「布団の温もりに戻れ」とばかりに吹きつけてきた。

私はそれを振り払い、力強くこぎ続ける。

空は、絵の具の青を、すぅーと水で薄めたように、どこまでも澄み渡り、太陽の光に反射した川は、キラキラと輝いている。

太陽が、風が、空気が、川が、おはようと歌っている。今日の始まりを喜んでいる。


「おはよう!」

制服姿の友達が、後ろから自転車で追いかけてきた。

「おはよう!」

そう挨拶をした途端、家から学校モードへと切り替わる。

「今日の、小テストほんま嫌や~。」

「宿題やった~?」

「やっちゅうわけないやん。」

自転車をこぎ続けながら横に並んで話す、他愛もない話。喋るたびに、冷たい空気が口の中に入ってくる。

あぁ、なんて気持ちいいんだろう。ずっと、このまま続けばいいのに。

そう思いながら、もっと、もっと、と自転車を力強くこいでいく。

ドスン。

体に伝わる鈍痛で目が覚めた。

ベッドから転げ落ちた、重い体をゆっくりと起こす。

物音ひとつしない、静かな部屋。お味噌汁の匂いもしない。

はぁ~。なんだ、夢か……。

引き戻された現実に、ため息をつく。

キッチンに行く。

そこには、お弁当も鮭の塩焼きも白ご飯もなく、父の分の食器も置かれていなかった。

部屋の静けさを打ち消すように、テレビの電源をつける。

テレビからは、今話題のニュースや最新トレンド商品の紹介、映画のランキングと、今日の始まりを知らせる声が聞こえてきた。

『昨日の感染者数は~』

深刻な顔で話す、テレビの中のアナウンサー。

その後ろでは、マスク姿の学生やサラリーマンが行き交う映像が流れている。

皆、誰とも話さず、ただ淡々と目的の場所に向かって歩いている。その目はどこか疲れているようで、光はない。避けようのない現実が、そこにはあった。


ヴー。

ヴー。


ベッドの奥からスマホの揺れる音が聞こえる。手に取ると、画面には「お母さん」の文字。

「もしも~し。」

「おはよう。」

「お、おはよう。」

「元気にしゆうかね?」

「元気だよ。突然どうしたの?」

「いや。変な夢見てね。」

「夢?」

「あんたが高校生の頃の夢。朝、起こして、一緒にテレビ観ながら朝ご飯食べて。そんな夢。そしたらなんか気になってね。」

「一緒だ……。」

まさに、以心伝心。

「ん?」

「ううん。何でもない。お母さん、元気?」

「元気よ。こんな状況になって、なかなかこっちに帰って来れんね。」

「そうやね。」

「いつになったら、帰れるようになるろかね。」

「どうやろね。でも、しばらくは難しそうだよね。」

「そっか。まぁ、そうだよね。」

声からも母の残念そうな気持ちが、ひしひしと伝わってくる。

「朝ご飯しっかり、食べゆうかね? エネルギーの源ながやき、食べないかんで。」

「うん。」

「一緒におれたらね。いっぱい作ってあげるのにね。窓も毎朝数分だけでもえいき、開けなさいね。今日とかすごいええ天気よ。」

「そうなの?」

「ほら~。窓どころかカーテンも開けてないやろ。開けてごらん?」

カーテンを開けると、暖かい日差しが部屋に差し込んできた。

「ほんとだ。すごい、いい天気。」

「今日は全国的に晴れながやって。あ、でも明日は東京雨で寒いみたいやき、寒暖差に気をつけなさいね。」

「うん。ありがとう。」

自分の住んでいる地域だけではなく、私が住んでいる場所の天気まで見てくれている優しさに、お弁当を作ってくれていたあの頃から変わらない愛情を感じる。

「とにかく、身体にだけは気をつけて。」

「お母さんもね。」

「じゃぁ、ほいたらね。」

「あ、お母さん。」

「何?」

「おはよう。」

「あれ? さっきも言わんかったっけ?」

「いいから。おはよう。」

「おはよう!」


電話が切れ、部屋に静けさが戻る。

窓を開けると、目を覚ませと冷たい風が顔に吹きつけてきた。空を見上げると、どこまでも、どこまでも、広がる青い空が見える。この空の下のどこかに、両親がいて同じ時間を過ごしている。ふとそんなことを考えた。


今生きている日常は、非日常のことばかりだ。友達と隣に並んで、大声で話すことが許されない。初めて会う人と握手をすることも、大切な人と抱き合うことも、遠くの家族と一緒に過ごすことも許されない。

離れていることが、互いを思いやれる唯一の方法だなんて、皮肉すぎる。

それでも、こんな窮屈な毎日を過ごすことができるのは、目を覚ませば、「おはよう」と言ってくれる存在が「今日も一緒に生きていこうと」思わせてくれるから。きっと「おはよう」という言葉は、傷ついても立ち上がり、今日を生きていくための合言葉だ。


「おはよう。」

もう一度、空に向かって言ってみる。

大丈夫、ひとりじゃない。

今日が始まる。

自然と力が湧いてくる。

「おはよう、おはよう、おはよう!」

『おはようございます!』

私と同い年になる、毎朝変わらないテレビ番組が代わりに応えてくれた。

明日はどんな「おはよう」が待っているだろう。

思いっきり、拳をつきあげ背伸びをしてみる。

「久しぶりにお味噌汁でも作ってみようかな……。」

そう言って吸い込んだ、冷たさの残る朝の空気は、どこかの家で作られている朝ごはんの匂いと、太陽に照らされた土や木々の香りがした。窓から差し込む暖かい日差しが、私を包み込む。

季節は巡る。今日も生きている。

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