日本の遅れ


ここ最近で
ミシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』
上野千鶴子『女ぎらい』
村田沙耶香『コンビニ人間』
木地雅映子『氷の海のガレオン/オルタ』
を読んだ。

『闘争領域の拡大』が一番好きだと思った。今まで読んだ小説の中でも一二を争うくらいかもしれない。訳者のあとがきにこう書かれていた。


ウエルベック自身の言葉によれば、彼の作品はすべて「解明の試み」だ。 そして解明の対象は、自らを取り巻く世界である。
なるほどウエルベック作品の語り部 (=主人公)は、いつも観察している。 隠されたルールを見出そうとしている。 そして彼が結局そこで見出してしまうものは、他人の痛みや苦しみ、それを生み出す世界、そして出口のない不幸のシステムだ。
しかしその解明がいかにクリアーであろうと、その観察が外から行われるだけのものならば、読者はただ他人の痛みや苦しみがごろごろと転がる荒野に取り残され、途方に暮れるだけだろう。
ウエルベックの語り部にとって苦しみは他人事ではない。彼は世界に属しており、苦しみを免除されていない。彼もまた苦しみの当事者である。
しかしここでなおも注目すべき点は、語り部の、ひいては作者の「同情」の能力だ。
ウエルベックの語り部は誰かの苦しみを感知し、憐憫を覚える。 同情する。読者の心がが最も動揺するのは、この瞬間だろう。
同情というのは、他人の苦しみを自分のものとして共感することだ。これが語り部と他人の苦しみを連結する。そしてこの連結は、語り部を介して読者にも起こる。 本の中に描かれた他人の苦しみが、いきなり、自らのものになる。ここで涙をいっぱいにため、死んでしまいたいほどの惨めさと恥辱を味わっているのは、他人じゃない、自分だ、これは私の苦しみだ――と読者は感じる。
この「同情」こそ、ウエルベック作品の大きな要素である。

ミシェルウエルベック『闘争領域の拡大』中村佳子訳、河出書房新社、2004年、204-205頁。


裏表紙には、「今一度思い出してほしい。あなたが闘争の領域に飛び込んだ時のことをー。「自由」の名の下、経済とセックスの領域で闘争が繰り広げられる現代社会。」と書かれているが、あらすじとしてなんて説明したらいいかわからないけど、主人公が仕事したり、出張いったり、同僚のモテない男性(ティスラン)と関わったり、発狂したりする話だ。

読んでいてすごく楽しめたし、全然立場も違うけど、感情移入して共感もできた。それは上述のあとがきに書かれている、著者(語り部)の「同情」の能力のおかげに他ならないのだろう。

好きな場面はたくさんあるが、冒頭の3頁はとてもすてきで、何回読み直しても良い文章だなあと感じた。そのうち、

二人はすぐにその日のニュースについてコメントしはじめた。その日、同じ課のある娘がミニスカートで出社したらしい。それも尻スレスレの超ミニスカートで。
それを彼女たちはどう考えているかというと、すごくいいことだと思っている。 二人のシルエットが奇妙に広がり、僕の頭上の壁に影絵のように浮かぶ。 二人の声がまるで聖霊の声のように、えらく高いところから降ってくるように感じる。実際、僕は
調子が良くなかった。それはたしかだ。
十五分間、二人は陳腐な言葉をうだうだと並べた。 彼女には好きな服を着る権利があるし、男の気を惹きたいとか全然そういうのじゃないし、ただ単にくつろげるから、好きだからそれを着ているんだし…云々。 くだらない、滓の極み、フェミニズムの
成れの果て。ある時、僕は大きな声で言ってみた。 「くだらない、滓の極み、フェミニズムの成れの果て」 しかし彼女たちには聞こえなかった。

同、9頁。


この箇所が特に好きだと思った。この本がフランスで刊行されたのは、1994年だという。その時点で『くだらない、滓の極み、フェミニズムの成れの果て』と、形骸的なフェミニズムのバカらしさに気づけるというか、多様性とかそういうところの一歩先を進んでいる、みたいなところが改めて考えてすごいなと思った。というのも、そのあとに『コンビニ人間』を読んだから、というのもあるかもしれなかった。

『コンビニ人間』のあらすじは、(サイコパスに近いような傾向の)異常な性質を持った主人公が、社会に適合しようと生き方を探る話。コンビニバイト歴18年の36歳、古倉恵子はコンビニ店員としてアルバイトで働いている。あまり感情がなく、状況を観察して記載しているような語りだった。
『コンビニ人間』では、未婚でアルバイトの古倉に対して「普通の」人間である周囲の人々(同級生)から厳しい態度を向けられる(コンビニでは仕事はしっかりできているのであまりきついことは言われない)。

「ええと、他の仕事は経験がないので、体力的にも精神的にも、コンビニは楽なんです」
 私の説明に、ユカリの旦那さんは、まるで妖怪でも見るような顔で私をみた。
「え、ずっと……? いや、就職が難しくても、結婚くらいした方がいいよ。今はさ、ほら、ネット婚活とかいろいろあるでしょ?」
 私はユカリの旦那さんが強く言葉を発した拍子に、唾液がバーベキューの肉の上に飛んで行ったのを眺めていた。食べ物の前に身を乗り出して喋るのはやめたほうがいいのではないかな、と思っていると、ミホの旦那さんも大きく頷いた。
「うんうん、誰でもいいから相手見つけたら? 女はいいよな、その点。男だったらやばかったよ」
「誰か紹介してあげたらー? 洋司さん、顔広いじゃない」
 サツキの言葉に、シホたちが、「そうそう!」「誰かいないの、ちょうどいい人?」と盛り上がった。
 ミホの旦那さんは、ミホに何か耳打ちしたあと、
「あー、でも俺の友達、既婚者しかいないからなー。無理無理、紹介は」
 と苦笑いした。
「あ、婚活サイトに登録したら? そうだ、今、婚活用の写真とればいいじゃん。ああいうのって、自撮りの画像より、今日みたいなバーベキューとか、大勢で集まってるときの写真のほうが、好感度高くて連絡来るらしいよー」
「へえ、いいねいいね、撮ろうよ!」
 ミホが言い、ユカリの旦那さんが、笑いを堪えながら、
「そうそう、チャンスチャンス!」
 と言った。
「チャンス……それって、やってみるといいことありますか?」
 素朴に尋ねると、ミホの旦那さんが戸惑った表情になった。
「いや、早いほうがいいでしょ。このままじゃ駄目だろうし、焦ってるでしょ、正直? あんまり年齢いっちゃうとねえ、ほら、手遅れになるしさ」
「このままじゃ……あの、今のままじゃだめってことですか? それって、何でですか?」
 純粋に聞いているだけなのに、ミホの旦那さんが小さな声で、「やべえ」と呟くのが聞こえた。
 同じ独身という立場のミキは、「私も焦ってるんですけどね、海外出張とかが多くてー」と軽快に自分の環境を説明して、「まあ、ミキちゃんは仕事が凄いもんね。稼ぎだって男よりあるしさ、ミキちゃんほどになると、見合う相手もなかなかいないよなー」とユカリの旦那さんにフォローされていた。

村田沙耶香『コンビニ人間』、2016年。


このシーンは特に残酷で悲しかった。この作品で被害者意識の強い弱者男性として描かれる、白羽さんという男性も似たような、女性蔑視的な厳しい意見を吐くが、作中でまともな人とされている人々ですらこういうセリフを言っているのが、この頃はこういう時代だったのかと思ってとても悲しかった。この本が出たのが2016年だと読み終えた後に知り、衝撃を受けた。まだそんなところにいたのかよ、と。かなり年上の知人でも非正規の未婚の女性は何人かいるけど、そういう人がつい最近までこういう扱いをされていたというのがあまりにも悲しいことだった。わたしの身内はやさしかったし、もしそういう人がいても全然そういうのもありやんな、という感じだった。わたしも昔から、他人のことに関しては全然ありやんな、と思っていたが、自分自身のこととなると、社会の価値観を内面化しすぎていて、普通にならなければ…という強迫観念があった。作中、白羽さんは、社会の価値観を内面化している一方でそれには適応できず、周囲に責任転嫁し攻撃している。社会に適応できずに社会の価値観を内面化している人は他者への攻撃に走るか、自分に責任を感じて自殺するかのどちらかだろう。わたしは2020年くらいまでまともな本を読んでいなかったせいで普通への強迫観念があったのかと思っていたが、日本全体としてあほというか、微妙な考え方の人が多いのが主流で、多様性とかも輸入してなかったらしく、わたしがそういう考えを持つのも当然だった。


#多様性を考える

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