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微苦笑問題の哲学漫才20:ハイデガー編(前編)

 微苦:ども、微苦笑問題です。
 微:今回はマルティン・ハイデガー(1889~1976年)です。
 苦:ああ、ナチスとの関係について一切口を噤んだまま死んだオッサン、「沈黙は金」の現存在だな。
 微:キミのその一言ですべてが言い尽くされた感がありますなあ。ですが、師フッサールの現象学の手法を用いて、独自の存在論を展開し、後の実存主義などにも多大な影響を及ぼしました。
 苦:ああ、学生時代のハンナ=アーレントを愛人にし、彼女を全体主義、公共圏の研究だけでなく、アイヒマン裁判へも向かわせただけでも大きな功績だよな。
 微:今日はめちゃくちゃ辛口ですね。ハイデガーの哲学的思索の中心は、解釈学的現象学、現象学的破壊、存在の思索というように、時期とともに変わっていってます。
 苦: 流行に敏感な男だったんだな。
 微:いや、それは彼の思索が次の問題を発見させ、それらを繋ぎながら伝統的形而上学を批判し、「存在の問い(die Seinsfrage)」を新しく樹立することに向けられました。
 苦:というか、ハイデガーの存在そのものが問題なんだろ? ナチス期に手を汚した人間であるし。
 微:死ぬまで語りませんですたもんね。
 苦:さらに言えば『アマデウス』的問題、つまり神は敬虔なサリエリではなく、下品極まりないモーツァルトに才能を宿らせ、その人格を知っていても作品の素晴らしさは認めざるを得ないという。
 微:おっしゃる通りです。ハイデガーはドイツのバーデン州の田舎メスキルヒに生まれ、1909年にギムナジウムを卒業した後にフライブルク大学に進み、同時にイエズス会に加入しました。
 苦:そのまま日本布教に来ればよかったのに。
 微:ザヴィエルじゃあないんですから。ですが心臓の病から修道の道を断念し、1911年まで神学部で学びます。
 苦:そのまま進んで『神の存在と終末までの時間』を書いて欲しかったな。
 微:それじゃヤスパースです。ですが1911年に哲学に専攻を変更し、リッケルトの元で哲学的訓練を受け、1915年に教授資格論文『ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意義論』を提出し、合格します。
 苦:マイナーなスコラ学者でかわしたな。主査以外は読みなさそう。
 微:リッケルトがハイデルベルク大学に転出した後に赴任してきたのがフッサールでした。彼から直接、現象学を学ぶわけですが、ハイデガーはそれ以前からフッサールの著作に親しんでいました。
 苦:親しんでいただけじゃなく、現象学の限界も見抜いていたんだろうけどな。
 微:その可能性は否定できませんね。1919~23年の間、ハイデガーはフッサールの助手を勤めながら、フライブルク大学の教壇に立ちました。
 苦:有能でフッサールが手放さなかったのか、助手だが講義できるくらい優秀だったのか。
 微:両方でしょうね。また1923~28年の間、マールブルク大学の教壇に立ち、ハンナ・アーレントが1924年に同大学に入学し、ここから彼女と愛人関係が始まったわけです。
 苦:もう既婚者だったんだから、今の日本の大学なら即クビだな。
 微:「彼女から企投してきたんだ」って釈明しそうですけどね。1927年に主著となる『存在と時間』を発表します。
 苦:ワタシの卒論は「犯罪と痴漢」でした。ウソですけど。
 微:信じてしまいます。1928年のフッサール引退を受けて、ハイデガーはその後任としてフライブルク大学の教授に就任しました。『存在と時間』については後で話しますね。
 苦:出たな、いつもの「時間切れ」名目の逃げ技。
 微:流れを重視してるの!! ハイデガーはエルンスト・ユンガーの『労働者・支配と形態』の深い影響を受け、国民社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチス党に入党します。
 苦:これは、思想に共鳴というより、出世を加速させるためなんじゃないの? 打算的だし。
 微:おかげをもって、1933年にフライブルク大学総長に就任します。
 苦:俗物的天才って、評価が難しいな。まさに逆サリエリ問題。
 微:総長就任演説で「ドイツ大学の自己主張」という単発講義というか演説を行いました。
 苦:朝の6時という早朝だったので、学生からは不評だったそうです。
 微:ハイデガーは西洋文明、特に科学技術の巨大化に危機意識を持ち、物質的でない自然観の復権を願ってナチスに接近した、とのことです。
 苦:自信過剰を超えて増長満だな。理性で説得できるヒトラーなわけないのに。
 微:彼の目論見では、ヒトラーを指導してナチスを自分の考える方向に向かわせることができると考えていたようです。
 苦:ある意味、ナチスを乗っ取る気持ちがあったと。よく粛清されなかったな。
 微:ですが、木田元氏が語るように、レーム粛清によって、ハイデガーはナチス内のイデオロギー闘争に敗れ、ナチスとは距離を置くようになりました。
 苦:「ソーシャル・ディスタンス」だな。
 微:感染防止じゃねえよ!! 第二次大戦後、ハイデガーはナチス協力を問われ、しばらく教授職というか大学を逐われました。
 苦:「しばらく」ということは日本の「近代の超克」派と同じように大学界に復帰するんだな。
 微:はい。1951年にライバルであったカール・ヤスパースなどの協力により大学に復帰しました。ですが、ナチス関係の質問には答えないまま1976年に亡くなりました。
 苦:政治家の秘書だけにして欲しいよな、真実を棺桶に入れたまま葬るのは。
 微:さて、ハイデガーの主著『存在と時間』("Sein und Zeit")は、「ものが存在するとはどういうことか」というアリストテレス『形而上学』以来の究極的な問いに挑んだ野心的作品です。
 苦:大きく出たな。
 微:すなわち存在論的解釈学により伝統的な形而上学の解体を試みました。論文形式でフッサールが創刊し『哲学および現象学研究のための年報』の第8巻(1927年)で公表されました。
 苦:全部を掲載するためには、それくらいしないとな。
 微:既に師と見解の相違を見せはじめていたものの、「尊敬と友情の念をこめて」と、献辞はフッサールに捧げられています。下心が見えてますね。
 苦:だけどナチス政権下の1942年に刊行された第5版では削除したんだろ。
 微:哲学界に衝撃を与えた『存在と時間』ですが、実際に出版された部分は序論に記された執筆計画全体の約3分の1にすぎなかったんです。
 苦:まさに哲学界というか実存哲学の「人類補完計画」! 風呂敷デカすぎ。
 微:初出時の「序論」では、これから順次発表されていく『存在と時間』の全体的構成の概要が以下のようになっていました。実際に1927年に書かれたのは第一部第2編まで、つまり現存在に関する部分にすぎなかったのです。
 苦:畳むことを考えろよな。形式面だけで見ても全体の三分の一なんだな、本当に。
 微:ハイデガーの序論に示された「存在一般についての問い」に関する考察が書かれるべき”本論”に当たる部分は第一部第3編「時間と存在」という標題をもつ章であると予想されました。

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 苦:紛らわしい題名だな。けど、アリストテレスの時間論への挑戦であることは伝わるな。
 微:ですが、結局は本論は書かれず、1927年の初版以来、『存在と時間』末尾にあった「上巻」の文字は1953年の第7版から消えました。後半を書き次いで完成させることを断念したのです。
 苦:それを考えると、庵野は偉いな。「シン」で完結させたんだから。
 微:ハイデガーは、弁明として後半を書き加えるには前半もすべて書き直さなければならなくなってしまうことを挙げています。
 苦:まあ、ワープロソフトのない時代だから納得できる部分はある。
 微:存在への問いそのものまで諦めたわけではない、それに関しては新著『形而上学入門』(同1953年)を参照してもらったほうがよいということなどを挙げています。
 苦:「船長釈放は政治判断ではない」「尖閣諸島のビデオを公開しない」ことの言い訳に匹敵するな。
 微:なお、サルトルがハイデガーを実存主義哲学とみなした時、本人がその見解を否定したのもこの文脈上のことでしょう。本人は「存在そのもの」の探求を主観的には継続していたのです。
 苦:「この私」に拘るような、キェルゲゴール的な小物ではないと怒ったんだろうな。
 微:では、”本論”においてハイデガーが何を書くつもりだったのか、そしてなぜそこへ至る前になぜ中断されてしまったのか? それは長い間、謎とされてきました。
 苦:誰かが本論をユーチュブで流出させてくれれば良かったのに。
 微:ネットなんか当時はまだありません!! 1923年には『存在と時間』の草稿ができていたことは本人も証言していましたが、その所在は長らくわかりませんでした。
 苦:近畿財務局で見つかった、っていうオチか?
 微:同年にハイデガーはマールブルク大学に異動する際に、審査論文提出を求められ、『アリストテレスの現象学的解釈─解釈学的状況の提示』と題した論考をパウル・ナトルプへ提出していました。
 苦:流行りの「現象学」の文字を入れてウケを狙ったんかな。
 微:この「ナトルプ報告」が『存在と時間』の初期草稿に当たるのではないかと推測されてきました。
 苦:で、その推測が正しかったと。
 微:はい。同時期にハイデガー招聘を計画していたゲッティンゲン大学に彼が提出した同内容の彼の論考が1989年に発見され、「ナトルプ報告」が『存在と時間』の初期草稿だとする推測が証明されました。
 苦:「存在」を確認するのに「時間」がかかったんだな。
 微:誰がうまいこと言えと!! そこで書かれた本論の構想は、アリストテレスの読み直しを通した古代ギリシアから中世を経て近代に至る存在論、ひいては西洋哲学全体の再解釈を超えた「解体」を目指す壮大なものでした。
 苦:この「読み直し」こそ、20世紀の人文系学問だな。その点ではやはりすごい人。
 微:問題の第一部第3編「時間と存在」は西洋哲学の解体的考察の基盤となるものであり、序論はその準備段階にすぎないことも判明しました。
 苦:つまり作品は完成しなかったけど、企画書段階、初期設定段階は見事だったと。
 微:実際に刊行された『存在と時間』は、長大に膨れ上がった序論が本論へたどりつく前に中断されたものだったことが明らかになったのです。要するに前にも言いましたが、風呂敷を広げすぎたわけです。
 苦:まあ、世界征服を目指す悪の秘密組織ショッカーにしても、個々の作戦が非常にセコイのと同じだな。
 微:ですが、未完成、つまり「存在一般の意味」を解明するまでには至らなかった『存在と時間』ですが、それにも関わらずこの著作は20世紀哲学が生んだ最も衝撃的な作品として大きな影響力を今も持っています。
 苦:不協和音の天才ストラヴィンスキーというか、跳躍と憑依のニジンスキーというか。
 微:そこで成し遂げられた「現存在」についての緊張感溢れる緻密な分析と解釈は、それ以降の哲学の潮流の多くがそれを「読み直す」ことで思想的源泉としています。
 苦:まあ、要するに○○精読とか、○○再解釈とか、○○脱構築という、テクストを「読み直す」ことが、学問的営為になっている思想家や業界の人たちのことと理解していいんだろ?
 微:まあ、そうですね、身も蓋もないけど。実存主義、構造主義、ポスト構造主義など、その影響の及んだ範囲の広さは測り知れません。
 微:ハイデガーの弟子には哲学者のレーヴィット、「地平の融合」のガダマーがいます。
 苦:直接の弟子は大したことないというか、知らなくてもいいようなザコだな。
 微:ですが、サルトルのみならず、フランスのポストモダニストたち、ポスト構造主義思想家、現代思想家らに影響を与えことは彼らの著作・叙述スタイルが「読み直し」であることに端的に表れています。
 苦:対象は違えど、ラカンもアルチュセールもデリダも「読み直し」だよな。特にデリダなんて「脱構築」だけでなく、ハイデガーのニーチェ解釈批判を通してガダマーと間接的論争までしてるしな。
 微:カント以来、ただでさえ難しかった哲学用語業界ですが、ホントにハイデガー以降は無意味に独特というか意味不明なカタカナ概念になっちゃいました。特に80年代の「ニュー・アカ」ブームから。
 苦:きちんとニュー・アカデミズムと呼んであげなよ。失礼だぞ、浅田彰大先生に。本家ハイデガーの書いたものは難しいし、「ニュー・アカ」本も、無知で論理的でないけど知的でありたいというか知的なふりをしたいと思う読者を睡魔に引き渡してしまうんだよな、これが。
 微:まあ、その辺のいい加減さはソーカルの『知の欺瞞』で証明されましたから大丈夫です。
 苦:あれな。買ったけどソーカルの文章もバカなオレにはわからなかったけど。
 微:先ほどのサルトルの「ハイデガー=実存主義」という理解は、決断という問題も含めて、やはり第2次世界大戦でのドイツに対する、ごく少数の人間から始まったレジスタンスが背景にありますね。
 苦:それより時間論や存在論の中身はどうなっているんだよ?
 微:ううっ、それは延長戦に回します。逃げるというか放棄するとハイデガーになっちゃうしね。

作者の補足と言い訳
 若い頃=不勉強な頃(今でもそうですが)、扱いたくない哲学者の第一位がこのハイデガーでした。「さいでっかぁ、ほうでっかぁ」という大阪弁ダジャレや「犯罪と痴漢」という言葉遊びで逃げていました。ですが見たくない事実から目を背ける姿勢こそ現存在なのだと気づいた時に、ハイデガーに関する本を読むようになりました。その頃(20世紀末でした)、ハンナ・アーレントとの関係なども明るみになり、大学時代の友人がフライブルク大学に留学したりと、徐々に筆者に対するハイデガー包囲網は張り巡らされていきました。また教員に採用されての10年研修で、辺鄙なところにある教育研修所に行かされ、退屈な講話や講義を聴かされ、時計を見ては「こんな気が遠くなるような時間が経ったはずなのに、まだ5分しか進んでいないのか・・・」と、呪いの言葉が頭に浮かびましたが、「これが呪うべき現在という時間意識だ!」との閃きも出ました。この一点においては教育委員会には感謝しております。
 ついでに自分が教員だったころの志向性を忘れないで欲しいとも要望しておきます。「呪うべき時間意識としての現在」と書きましたが、筆者も「呪うべき時間としての現在」を、これまで多くの高校生に実感させてきた・いるのだなあと、ここで自覚しましたので、反省していることも平気、いや併記しておきます。
 さて、漫才でも書いたことですが、重要な本というのは難しいというか多義的なもので、何度も読み返さないといけないし、そこから新しいものが生まれるのですが、そういうことが難しい時代(年齢)に入ったことを実感しています。精読でも再読でもいいので、その時間をください!

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