生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きていたんだよなぁ。

 

 無職の戯言を書いているなかで、
頭の中で流れていた曲があった。



 シンガーソングライター、
あいみょんの、「生きていたんだよな」

だ。

 リンクにYouTube動画を掲載した。
(https://m.youtube.com/watch?v=EEMwA8KZAqg)(2020/3/23)


 これは、聴いたことのない人に
観ていただきたくて、聴いてほしくて
クレジットをつけて書いているが、
リンク張りに、何か起こったら、
記事を改編するので、動画を観る方も
扱い方には気をつけて頂きたい。




あいみょん


…シンガーソングライター、作曲家、作詞家。中学生の時から作詞作曲をはじめ、尾崎豊やスピッツをカバー。
高校1年の頃から歌を作り始め、同級生がYouTubeにアップしていた音楽番組に出演し曲を披露。同じ頃、友人が応募したオーディションで決勝まで進む。高校卒業後、Twitter経由で、事務所が連絡をとってきて、2014年から現在所属している事務所にいる、とのことだ。

(Wikipediaの情報は、信じない、
というのが前提のはずだが、
ここは、あいみょんさんに関して何も知らない私よりはまだ情報があるだろう。
誤情報だとわかったことがあれば、
いつか訂正したい。残念ながら、
私が撮ったあいみょんさんの写真、
というものはないので、
(https://www.pinterest.jp/pin/854558098025303800/?amp_client_id=amp-OzvnTG2l1SUAxd0nCpuX3Q&mweb_unauth_id=459256535ec645f28ea9b706806727a4&simplified=true
2020/3/23閲覧。 画像にリンク貼)




 さて、このあいみょんさん、
いや、わからないけれどきっと、
さん付けされるための名前ではないから
ここからは、失礼ながら、

あいみょん、

と呼ぶことにする。


 あいみょんの歌を
 何曲か聴いていた。


 どれも、飾らない、誰もがおそらく
どこかで思っていた、という
素朴な言葉を、思いを、
そのまま言葉に起こしている、
ように感じる。



あいみょんの歌には、
「そう、それが言いたかった」と
思いを言葉にしてくれたという
特別感と、
飾らない、率直な言葉の安心感、
ああ、この気持ちは、
そういう感情なんだ
と言語化されて胸がすっとする
そんな感覚と、
ちょっとした罪悪感や
心のモヤモヤが残る。



歌詞、音楽、伝え方、
そのどれもが気取っていないのに、
かっこいい、けれどどこか等身大の、
“そのままの”わたし、の
かっこ悪さを滲み出している
その絶妙なバランスが好きだ。
(個人の嗜好です。)



 いや、本当はこんな陳腐な言葉では
うまく表現できないのだが、

 わたしの中にある、日常の隅の方の、表現できないで苦しんでいる気持ちを、そのまま言語化している、
それに1番近い、と感じる。



その中でも

先に紹介した、
「生きていたんだよな」を、
私は2019年の3月頃に知ったのだが


この「生きていたんだよな」ほど、

自殺のニュースのどこにも描かれない
自殺のその場面を、
こんなにもすくいあげている、
これだ、と思った歌は、
少なくとも私にはこれまでなかった。
これが正しいとか、まさにこれが
ぴったりだ、などと押し付けたいのでは
ない。

 ただ、私が感じていた感覚に
最も近い言葉を発したのは、
彼女の歌だった。



前回、自殺について書いたが、
この、自殺について考えている間中、
この「生きていたんだよな」の
歌詞が、音楽が、
あいみょんさんの声が、
ずっと頭の中で鳴っていた。
叫んでいた。


無職の戯言


無職の戯言〜おまけ〜


 この歌を初めて聴いた時、
私は、やっと出会えた、とおもった。

 “自殺未経験者”である私たちは
誰も自殺について上手に語れない。

 

 それでも、自殺を考えたあの時の、
苦しかったあの時の、
楽になれると安堵したあの時の、
そして、
電車のホームに、電車が滑り込んでくるあの瞬間の、それらを想像している時の
あの感覚に1番しっくりきたのは、
彼女の歌だった。


 前回の投稿で、
自殺について考えていたが
それを言語化するきっかけとなった
彼女の歌について、
考察したい。考えたい。それで
私は、この記事を書くことにした。



当然、作詞家でも、
シンガーソングライターでも、
プロのライターでも、
批評家でもなければ、
または音楽評論家でもなく、
もっといえば音楽には門外漢で、
いつも視聴者であり続けているので、
これは個人の感想でしかない。




「生きていたんだよな」

 

 MV(Music Video)の最初は、
ピアノ音と同時に指が鍵盤を押すような動作をしている姿、その手の背景には空が映る。

 そしてその手が、カメラを撮ったようにあいみょんの顔が映り、足元が映る。

 そして歌詞のはじまりから、1回目の“綺麗で”までを、語る。


 “綺麗で、

綺麗で”



この2行目の、綺麗で、から歌になる。


 そしてこの歌の主人公は、
2日前自殺をしたというセーラー服の人のニュースをTVで観て、
その誰だか知らないはずの死んだ彼女を
想像して涙を流す。



 “血まみれセーラー

濡れ衣センコー

たちまちここらは

ネットの餌食”

 TVで自殺のニュースを観た
彼女のことを知らない“傍観者”のはず
だった主人公は、


 現場の血の、その赤の、
綺麗さを感じたことで、
ただの傍観者から、彼女の死へ
想いを馳せる“隣人”へとなってゆく。



 “生きて生きて生きて生きて生きて

生きて生きて生きていたんだよな

最後のサヨナラは

他の誰でもなく自分に

叫んだんだろう”

と想像して。


 そして2番に入ると、今度は

彼女が亡くなったその現場が
描き出される。

 亡くなってこの世から
居なくなった彼女、
その現場を見つめる“傍観者たち”は


「ドラマでしか

観たことなーい」

などという。

 彼女が亡くなった現場は、
ネットの餌食となり、傍観者たちは
どこか嬉々とした感じが
しているのが窺える。

歌詞の最初の方は


泣いてしまったんだ

泣いてしまったんだ

何も知らないブラウン管の外側で

とある。

 主人公は、彼女に想いを馳せたのか、
ネット民たち、傍観者たちの言葉に
虚しさを覚えたのか、テレビで流れる
彼女の自殺のニュースを観ながら
彼女の“隣人”となった
主人公は涙を浮かべる。



 “泣きたくなったんだ

 泣きたくなったんだ

長いはずの1日がもう暮れる”

 

 彼女を想像する主人公は、

今、亡くなった彼女は、
何を想っているだろう…と想像する。

 彼女にとっての長い最後だった日は、

もう、暮れかかっている。
 

 そして、この主人公は、

彼女が消えた理由に、


“新しい何かが始まる時、

消えたくなっちゃうのかなぁ”


と、考え込み、


傍観者として変わらない、

コメンテーター、教育者、
その他の人がいう

“今ある命を精一杯生きなさい”

なんて

“綺麗事だな”

と、吐き捨てる。



彼女が飛んだ時、

どんな気持ちだったかを、

どんな想いだったかを、

目をつぶって想像する。


“精一杯勇気を振り絞って

彼女は空を飛んだ。

鳥になって雲をつかんで、

風になってはるか遠くへ 

希望を抱いて飛んだ”



 彼女は、生きるのが辛かったのかも

しれない。彼女に何があったかは

この歌には書かれていない。


けれど、彼女は、

死んでしまうことで楽になれる、

もうここから脱出できる、

この苦しみから解放されるんだ、

そのどれなのか、

他なのかわからないが

そんな心を縛っていたものから

解放される喜びをどこかに

感じていたのではないか。




死んでしまえば、

やっと苦しみから抜け出せるんだ、

そう思って、どこか高いところから

地上を見下ろして、空を飛んだのだ、と。

 そして、亡くなって、消えてしまった
彼女が、ここに居たということを、

主張する様に、主人公はこう叫ぶ。



 “生きて生きて生きて生きて

生きて生きて生きて生きて

いたんだよな”

と。



 どんな苦しみを彼女がこれまでに
抱えていたのかを想像し、

 「今日もまた…」と
この苦しみの日々がまた新しく始まる
と、その状況に立たされた彼女を、
主人公が想像したのか、

 いや、はたまた、

ずっと生きようと
ここまで頑張ってきた彼女が、
またやってきたはずの、
「今日こそは」と想ってこれまで
頑張ってきた、その「今日こそは」
の希望を消してしまった、

と想像したのか、

はたまた、また別なのか。

とにかく主人公は何かを考えて、


 “新しい何かが始まる時

消えたくなっちゃうのかな”

という想いに至る。



 この1行で、自殺をした彼女が、

“死にたかった”
(“active suicid”)なのではなく、

“生きていたくなかった
(“passive suicid)だったのではないか

と私は思う。


 そして、この歌の主人公は、
この世を去った彼女の

最後の
気持ちに、
言葉に、
耳を傾けようとし、
想像を巡らせ、


“最後のサヨナラは他の誰でもなく

自分に叫んだんだろう”

と主人公は想いを馳せて終わる。


 さて、ここで、OK Music編集部
あいみょんへのインタビューから、
この歌の制作過程を見てみようと思う。
(https://www.google.co.jp/amp/s/okmusic.jp/news/amp/178909)(2020/3/24)

  この歌は、あいみょんが
実家で最後に書いた、
初めて語りから入る曲で、
歌詞にある通り、2日前に観た
自殺のニュースが、
頭に残っていたためそれを歌にした
という。


 そして、あいみょんは、
ー “気持ちが分かる”とも言えないー

命を題材にした曲だから、
わかったようなことは歌いたくなかった

と述べている。


 結局は、想いを馳せる主人公も、
他者であることには、かわりがない。


だから、きっと、
“わかった”とはいえない、し
言わないと思う。

 

 
 


 前回の投稿で、


ー 生きたいと思って生きている
(または特段死を見つめるほどの苦しさを感じず考えず生きているのか、)
生きているのが辛いけれど、
死へはむかえない未練や少しの希望に
すがって苦しみながら生きているのか
死にたくて死んでしまうのか
生きているのが辛いと思っていた果てに
死を選んでしまうのか
もっと生きたいと思っていたのに
生きられないのか、
死にたいのに全然死ねないのか、
死のうとして死ねたのか
死ねなかったのか、
はすべて異なる。
さらに、
結果として生きているのか、
死んでしまったのかは、
字義通り、"取り返しのつかない"
違いがある。 ー

と書いた。



私は、あいみょんの
「生きていたんだよな」に

この、生と死の、境目、いや
この4つの、差延のその、
ちょっとした違いの感覚を、
感じた。



 この歌に出てくる彼女の、
最後に彼女自身が、自分との決別に
呟いた

“さようなら”

 それに呼応するように重ねられた
2回目の

“さようなら”

 この2回目のさようならは、

自分との決別を強調しているのか、

亡くなった彼女に想いを馳せて
主人公がかけた言葉なのか、


 どちらにしても、
2回繰り返されたことで、
彼女は、もう亡くなってしまって、
取り返しのつかない死へ、
帰着したことを強く、残す。

 この、とてつもない寂しさや
空虚さ、さようなら、という言葉に
かかる想いを考えると、

やはり、
飛び降り自殺をした彼女は、

上から下を眺め、

生きているのが辛いから

亡くなったのではないか。

と私はおもった。


きっとそれは、

彼女が、死という選択肢を選ぶまでに

ここから飛び降りれば、と

飛び降り自殺をした、
その高い建物か何かを

見上げていた時とは異なる。


 この亡くなった彼女は歌詞の通り、
悩みに悩んだ末か、
苦しみに苦しんだ末か、

やっと、楽になれると
おもった方法を見つけて
しまったのかも、しれない。

そして、希望を抱いて飛んだ、

のかもしれない。


この記事は、

 全く、うまくまとめることは
できなかったが、前回までの、

自殺について

死について

考えたことを、

なるべく、言語化しておきたい、

と思って書き残した。


 生と死を考えることは、
死を見つめることは、誰もがどこかで
出会うことだ。

 自殺をする人が絶えない、
 なぜ死を選んでしまうのか、

それを、提示するのならば、

 一人一人が、こうしたことを含めて
考えなければならない。

そして、今もどこかで、

 ①こういう時やこういう時間は楽しいと思うのだけれど、なんらかの苦しみがそれを凌駕するために生きてはいられない、無理だ、死のう
という思考過程

②死にたいなぁ、
という積極的に死へ向かう思考過程

⑴本当は死にたくなるほど、本当に苦しいのだけれど、生きたい理由を捨てきれずに生きていること


つまり、

①消極的死(passive suicid: もう生きているのが辛いという思考)

 ② 積極的死(active suicid:
死のうと、死にたいなぁと、感じる人)

(1)消極的生(passive live:生きているのは辛いのだけれど、死ぬに至れない何かと繋がって頑張っている誰か)と

 の人々が、それぞれ別に、

ここに、この空の下に、
在るだということを、
考えなくては、自殺の話は、
始まらないのではないか、

と思った。


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