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②パトリック・ピアース最愛の弟「ウィリー・ピアースの足跡」

前回に引き続き、パトリック・ピアースの弟ウィリー・ピアースの人生を紐解いていこう。

ゲール語以外の学問はてんで駄目なウィリーだったが、彼の関心は芸術に向いていた。ウィリーは彫刻家の父ジェームズと、ジェームズの手伝いをしていた異母兄ヴィンセントの影響を受け、彫刻芸術に興味を持つようになった。

そして1897年、15歳の時、ウィリーは近所のメトロポリタン美術学校に入学。日中は父の経営する建築会社の見習いとして働き、夕方は学校で美術を学んだ。

こうして彼は、芸術家としての第一歩を踏み出した。

メトロポリタン美術学校は知識だけでなく、家族以外の人間と交流する機会も与えてくれた…つまり、友達ができたのだ!

兄と違って、人当たりのよいウィリーは多くの女性たちに可愛がられた。「彼は芸術的で素敵な人だった。人助けが好きで、私の絵を描くのも手伝ってくれた」との証言も残されている。

反面、男性たちはウィリーの引っ込み思案な性格と甲高い声をよく思わなかった。が、気にしない者もいた…アルバート・パワーという男性だ。

同じく彫刻に興味があったアルバートは、ウィリーの生涯の友人になったという。現存する写真からも、二人がとても親密であったことが伺える(奥左から、Kathleen Fox、Una Duncan、ウィリー、手前にいるのがアルバート――『Willie Pearse: 16 Lives』より)。

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さらにもう一人、オリバー・シェパードとも交流があった。のちにGPOダブリン中央郵便局のクー・フリン像を制作する、アイルランドを代表する彫刻家だ。1902年からウィリーは彼に師事し、ゲール文学と芸術への愛を共有したらしい。

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そんなわけで、ウィリーはクリスチャン・ブラザーズ・スクールに通っていた頃からは考えられないほどの、社交的かつ文化的な世界を手に入れた。

芸術家の卵として精力的な活動を続け、メトロポリタン美術学校だけでなく、ロンドンのケンジントン芸術学校にも通った。

学校の仲間と共に、何度かパリへも留学している。この時のパトリックの寂しがりようときたら笑えるレベルで、ウィリーに「慣れ親しんだ場所を時々でいいから思い出してくれ」と訴えたこともあったらしい。

1905年にウィリーが再びパリへ行ってしまった時には、パトリックは自身が編集するゲール語連盟の機関紙「クラウ・ソラス」にて、こんな詩を発表している。

ここはアイルランド
僕は兄弟の片割れ
君は僕から遠く離れ
堂々輝くパリにいる 

僕は見つめる
丘を港を
ハウスの浜を
スリーブルーのその先を

偉大なるパリで
勝利を手にする君を
ライムホワイトの宮殿で
大群衆が波打つさまを…

『Willie Pearse: 16Lives』P68より

ちなみに、ハウスやスリーブルーはピアース兄弟がよく一緒に訪れた場所。仮にも光の剣の名を冠する雑誌にブラコンポエムを投稿するなと思うが、二人は四六時中一緒にいたのだから仕方がない。

それに、パトリックはウィリーをアイルランドに縛りつけようとしたわけではない。何を隠そう、誰よりもウィリーの背中を押していたのはパトリックなのだ。

気の弱いウィリーは、芸術家として成功する自信がなかった。彼が芸術を愛していたのは確かだが、なかなか賞などの目に見える成果を得られず、こう漏らすこともあった。

そもそも僕の気質からして、そういうことを楽にやったり、成功させたりすることはできないんだ。なぜ自分で自分を傷つけなければいけないのか、十分な理由を見出せないよ。

『Patrick Pearse: The Making of a Revolutionary』P30より

実際、ウィリーに彫刻の才能があったかは疑問視する声が多い。手を掘るのが苦手だったとか、掘るのが遅いとか、彫刻家としてはおセンチすぎるとか、ネガティブな証言もいくつか残されている(筆者はウィリーの彫刻わりと好き)。

そんなウィリーを、パトリックは根気よく励まし続けた。ウィリーは愛する兄の期待に応えようと、自分の才能を疑いながらも活動を続けた。

美術学校に通い、友達ができ、さまざまな活動をしていても、結局のところウィリーは兄離れができなかったのだ。

兄の背中を追って…「ゲール語連盟」への加入


ウィリーには、芸術以外にも興味を持ち続けているものがあった。それは「ゲール語」だ。

1898年の秋、ウィリーは急速に存在感を増していた団体「ゲール語連盟」へと加入した(ピアース兄弟がゲール語を愛した理由は「アイルランド建国の父の夢のあと――「ピアース・ミュージアム」訪問記」で軽く触れたので割愛)。

「ゲール語連盟」とは、イギリス支配により失われつつあったゲール語(アイルランド語)を復興するため、1893年に設立された団体。ゲール語話者は年々減少していたものの、連盟はアイルランド中に支部を持つ主要な文化的勢力にまで成長していた。

ウィリーより2年早くゲール語連盟に加入していたパトリックは、すでに連盟の「ライジングスター」。役員に抜擢されるまで出世していた。そんな兄の背中を追いかけるように、ウィリーも団体に加わった。

このころ、公の場でゲール語を使うことは政治的な問題になっていた。兄パトリック同様にゲール文化を愛していたウィリーも、ゲール語への迫害を看過できないひとりだった。

美術学校でゲール語での署名が禁止された際は、ウィリーは学校に激しく抗議し、最終的に決定を覆させている。普段のおとなしいウィリーからは想像できないハッスルぶりだ。

こうしてゲール語連盟に加入したウィリーは、勉強や展覧会の合間にメトロポリタン美術学校でゲール語を教えたり、時々ハッスルしたり、忙しい日々を送った。

この平和的、文化的、ちょっと民族主義的な活動がやがて蜂起にまで発展するのだが…それはもう少し先の話になる。

つづく 

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<参考文献>


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