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心の欧米とタコとデビルフィッシュ

最近ね、タコを買ったんですよね。イギリス人はあまり食べないのでどうしても高くなるから、イギリスでタコを買うっていうのはちょっと「えいや!」って感じなんですけれど、良い魚屋さんと出会ったおかげで割と入手しやすくなりまして。タコ焼きも、スペイン料理のプルポ・ア・ラ・ガジェガも好きなだけ作れる!という幸福な状態に今あります。

それで大体食べたいものは作り尽くして、日本語で料理法を色々探していたら、いやあ、出てくること出てくること「欧米ではタコはデビルフィッシュと呼ばれるくらい嫌われていて」という文面。

そこで「はてな?」と思ったわけです。私、タコのことを「デビルフィッシュ」なんて呼ぶイギリス人にもアメリカ人にもオーストラリア人にも会ったこと、ないんですよね。


本当にタコってデビルフィッシュなんて呼ばれてるんでしょーか?

イギリスに来てから南部で8年ぐらい。北部に引っ越して9年近く。途中で日本でも暮らしてますけど、その間も仕事は基本的には英語を使うものだったからそこそこいろんな英語を使う人と出会ってるはずなんです。でもタコをデビルフィッシュと呼ぶ人にはただの一度も、会ったことがない。

一度も。ええ。いっちども!

とはいえ、自分の個人的な体験を過度に一般化するのはよくありません。ですからとりあえず仮説を立ててみます。

仮説1 タコをデビルフィッシュと呼ぶのは一般的であるが、私がたまたま今まで出会ったことがなかった。

そこそこ英語で文章を読む生活をしてきましたし、これは、あまり考えられないなと思うのですが、とりあえず、常にその可能性は頭の中に置いておかなくてはなりません。

仮説2 タコをデビルフィッシュと呼ぶのはイギリスでは一般的ではないが、英語圏の他地域(アメリカ、南ア、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど)では一般的である。

私がたまたま地理的にデビルフィッシュ文化圏にいなかった可能性ですね。これは仮説1よりも可能性があるように思われます。

仮説3 タコは確かにかつてデビルフィッシュと呼ばれたことがあるが、今はそのような呼び方は英語圏では廃れている。

デビルフィッシュは死語説ですね。個人的にはこれは一番推したい仮説です。というのも、日本の欧米知識ってしばしばフリーズドライ的にすごい古いものや一時期だけ特殊な状況下で使われたものが残っていることがあるからです。ということで、仮説3を一番最初に検証してみることにしました。


まずは英語版ウィキペディアでDevil Fishを調べてみます。

https://en.wikipedia.org/wiki/Devil_fish


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ウィキペディアで出てきた画像はのっけからこれ。

ちがうじゃん。

ぜんぜん、タコじゃないじゃないですか!!!

Googleで画像検索してもdevil fishでタコって必ずしも多くないんですよね。

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ということで、ウィキペディアにもう一度戻ります。と、曖昧さ回避ページにこうあります。

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「デビルフィッシュ 現在ではおそらくすたれているタコの別名。」

やはり。仮説3そこそこ良い線行っていそうです。とはいえ、ある地域ではすたれた単語がバリバリ他の地域では現役なんて、英語の世界では良くある話です。地域性も完全に頭から追い出すことなく、調べていきたいと思います。

日本語のサイトはもう、判で押したように同じことを言います。ユダヤ教やイスラム教の戒律では食べてはいけないことになっているからデビルフィッシュと呼ばれているのである云々。

で、これは、もっともらしいんですけれど、あまり説得力はありません。ヨーロッパでタコを食べる文化圏って、地中海近辺の割とムスリムやユダヤ教徒との行き来が多い(改宗者も多い)地域圏です。タコを食べちゃいけないはずの人が多く住んでいる地域にタコ料理がいっぱいあるんですよね。

まあ、宗教的に複雑な地域の料理は、一つの宗教で禁忌とされる食べ物が逆に取り入れられる傾向があったりします。スペイン料理とか、魚とラードや魚とチョリソーソーセージの組み合わせが多かったりするわけですけど、イスラム教やユダヤ教から改宗した人々にとってはもとの文化で禁忌とされている食べ物を「食べてみせること」が同化の象徴になったりするんですよね。

そういえば、イギリスでも2014年に当時の労働党党首のエド・ミリバンドがベーコンサンドイッチを食べている写真がやたらコメントを集めたという話がありましたっけ。彼がポーランド系ユダヤ人移民の息子だということを知っていると、こう、色々と意味がわかるわけですけど。あのあたりのコメントは結構えげつないものもあって、うんざりしたりしたわけですけど。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Ed_Miliband_bacon_sandwich_photograph

ま、話がずれましたけど、何をどう食べるかって、結構政治性がある話なので、ユダヤ系、イスラム系の禁忌がまっすぐに英語圏に入っていってデビルフィッシュという言葉になるというのは微妙に——びみょーに——違和感があるんですよね。いや、ユダヤ系の影響力が強いアメリカであればまた話は違うのかもしれません。この時点では地域性を排除せずに調べたいと思います。

さらに調べていくとこちらにぶつかりました。

ヴィクトリア朝の人々にとってタコがどのように見世物になっていたのか。かなりかっちり文化史の系譜をたどっている記事です。英語圏、時々こういう記事があるから読み応えがあって嬉しい。

ヴィクトル・ユーゴーの1866年の小説『海の労働者』(原題 Les Travailleurs de la Mer)に巨大なタコと水夫達の戦いが描かれており、それが結構センセーショナルに売れたので、5年後、クリスタルパレスの展示会にdevil fishとして生きたタコを展示して見せた、とあります。その時点で一般的なイギリス人はタコなんて見たこともなくて、ユーゴーの小説に出てくる人間を捕まえて生き血をすするタコがものすごいインパクトだったと——っていうか、生き血をすするタコなんて、タコをパクパク食べる私にとってだって、ものすごいインパクトです。ありえない。

ということで、これは納得いきます。水夫や漁師さんは知っていたけれど、一般人にとってはみたこともない生き物が、小説で、なんか恐ろしい生き物として描かれてその前評判が先行した形ですね。Devil Fishという言葉はそこから生まれた、と。

この記事、その後のタコ的なものの西洋での受容のされ方について大まかにたどっていて面白いんですけど、まあ、それは横に置いておいて、ここで仮説3の改訂版が浮上します。

仮説 3’  タコをデビルフィッシュと呼ぶのは、ユダヤ教やイスラム教の食の禁忌などとは全く関係なく、一人の小説家が自分の文化圏ではあまり知られていない生き物をモチーフに作り上げた想像上の怪物による。1866年が小説の出版年であったこと、現在ではほとんど使われないことを鑑みると、この語が主に使われたのは大体20世紀中盤ぐらいまでと推測できる。

大体ここまで仮説の範囲を狭めたところでどうしてもチェックしなくてはならないソースがあります。そう。OEDです。

OEDすなわち、Oxford English Dictionaryは英語の単語がいつ初めて使われたのかを調べるためには最も頼りになるリソースです。全20巻。女の子が「わたし、辞書より重いものを持ったことなくって……」と恥じらったら、すかさず「その辞書、OEDじゃないよね」と確認を入れるのが英語系の仕事をしている男子の基礎教養です。(嘘です)

ということで見てみましょう。OED。っていうか、なんでここに至るまでOEDを調べることを思いつかなかったのか、自分のポンコツぶりが嫌になります。

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一番古いデビルフィッシュの使用例は17世紀。とはいえ、これは鮟鱇の類であって、タコではありません。

その次にデビルフィッシュと呼ばれたのはエイ。これは18世紀が初めての使用例。

1855年になって——まだまだタコは出てきません——コククジラがデビルフィッシュと呼ばれたようです。

1860年にピラニア。

1866年になって、ようやくタコをデビルフィッシュと呼ぶ例が英語で散見されるようになります。1866年? そう。ビクトル・ユーゴーです。引かれている初出例文はこれ。

Les matelots anglais l'appellent Devil-fish, le Poisson-Diable.
「イギリス人の水夫達はこれをデビルフィッシュと呼ぶ」。

しかも定義としては「巨大なイカや大きなタコその他頭足類」——小さなタコはデビルフィッシュとは呼ばれなかったわけですね。

OEDは、初出を見つけたらそれだけでほっぽりっぱなしの辞書ではなく、時代を超えてどんな使われ方をしているのか教えてくれます。が、あげられている例文は1866, 1895, 1903, 1960, 1999, 2014という分布で、主に使われていたのは世紀の転換期だったのかしらね、という印象を与えてくれます。ちなみに2014年の例文はダイオウイカの説明で「かつてはクラーケンであるとかデビルフィッシュであるとか呼ばれたこともあった」というようなものですから、基本的に死語扱いです。

つまり、ここから二つのことが言えそうです。

1 英語圏の人間でタコを「デビルフィッシュ」などと現在呼ぶ人間は、おそらくほとんどいない。
2 北ヨーロッパの人間はタコをデビルフィッシュとして忌避しているから食べなかったのではなく、そもそも見たことさえない人がほとんどだった。それ故に小説の描いた怪物タコがものすごいインパクトを持った。

こう、欧米(欧と米だってものすごく違うわけですけど)をのっぺりと一色のものとして想像して語る文章って多くて、そこで描かれる欧米は「一部地域」の話だったり「一部階層」の話だったり、「一時代」の話だったりするわけですけど、私はそういうのを「心の欧米」と呼んでます。どこにもない、わたしたちの心の中にだけある、「欧米」。変わることのない欧米。

自分が所属しない文化って常にそんな風にのっぺりと見えるものなんで、ある程度はしかたがないんですが、デビルフィッシュよ、君も「心の欧米」の住民だったんだね、としみじみしました。

そして、発端は忘れられてるみたいだけれど、小説、やっぱり影響力半端ない……と思います。


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