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子どもの気持ちが分かった日

ドイツに渡航して、わたしは語学学校へ
通いました。
前回の記事にも書いたとおり、

午前中はドイツ語、午後は英語の授業を
とっていました。
最初の1ヶ月間は先生のいうことがBGMかのように流れていきました。まるで、外を歩いてるときにイヤホンから流れる歌詞が入ってこない曲かのように。

じゃあはじめて!と、何か言われてるんだろが、なにをするのかわからない。だから、周りがしていることを真似っこしてみる。
もちろん、『先生!いまなにをするの?』
なんて聞けれない。

午後の授業も同じ。レベル別にクラスが
分けられて、基礎クラス(A1.A2) コミニュケーションクラス(B1.B2)ビジネスクラス(C1)
ざっとわけてB1に入ってしまって、なにがなんだかわからない。早速ヴィーガンの話をして、
"このことについてどう思う?将来はどうなると思う?自分の意見を教えて!"

わからない。わからないんじゃなくて、
考えてないんだ。でも、考えてないのは、
考えよう、自分の意見を考えて人に伝えよう
として生きてきてないからだと気がついた。

日本の教育は、みんなで足並み揃えて
同じことを同時進行で学んでいく。
多数決が好きで、他の人と違う意見を
言うと、"空気が読めない変なやつ"という
レッテルを貼られてしまう。できるだけ
悪い方に目立たないように、できるだけ
失敗しないように、合わせていれば
勝手に授業は終わるのだ。

賢い人たちが手を挙げて発表してるのを
黙って見てればそれでおわり。
正しいことを言ってれば、同調すれば
全てが丸くおさまる。
そんな教育だから、考える力がついてない
教育のせいにしたいわけではない、ただ
自分が周りに合わせて生きてきたんだなと、痛感して、考えず生きてきたことに後悔した。

自分が先生だったときのことを思い出す。

国語の時間、お話を読んで、好きなところを見つけて理由をつけて発表するために文章を書く作業の時間。自分のクラスの子の(1年生)手が止まっていた。わたしは気がついて向かっていって『どこが好きなところみつけた?』と聞くと、そのこは『ううん。ない。』と答えた。
あの時は、たくさんヒントをだして、考えを引き出そうとしたけど、その子は考えることをしていないので、思いつくこともなく 意見がなかった。

それを思い出して、自分もそうだなと、つくづく感じた。だから大人数のクラスで当てられてもないのにわざわざ発言しない、当てられたら答える。でもちゃんと言える自信がないから、できるだけ当てられたくない。

自分がすごく日本人だなと感じた。
でも、自分だけじゃなく、自分も含めた日本人がたまたまみんなそうだった。きっと、間違えることに少し抵抗がある。そして、いつも正解を求めてしまいがちなのだ。

月日が経っていくにつれて、言っていることがなんとなくわかるようになってきた。
でも、覚える単語の数も文法もたくさんあってついていけない。他の国の人たちはどんどん話していくから、もうペラペラじゃん!と思ってしまい、自分のできなさに落ち込む。

そうすると、授業が楽しくなくなる。
なんなら、学校にも行きたくなくなる。

正直言うと、小学校の先生になる人たちって多分昔からだいたい"できる"人たちだと思う。
わたしも、賢くはないが、ある程度はこなすことのできる子どもだった。だから、勉強がわからなくて落ちこぼれる子どもの気持ちをわかってあげられる人ばかりじゃない気がする。

でもわたしは、実際に生徒に戻ったときにそれを経験した。わたし今、落ちこぼれてるわ。だから楽しくないや。でも、授業の途中に先生に聞くのもなあ。わからんから聞いてても無駄じゃん。

それでようやく、子どもも同じなんだ。
こんな気持ちになってたんだって気がついた。


もう一度、先生に戻ったら、
今度は自分のクラスのこどもたちが
どれだけ自分で考えて意見を言える、間違えたって大丈夫!って雰囲気をつくれるか、試して見たいなってすごく思う。


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