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「奇跡」(ヨハネ4:43~54)

「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」ところがいざイエス様がガリラヤに着くと、人々はイエス様を歓迎するのです。というのも過越祭の間、彼らもガリラヤにいてイエス様のなされた業をみていたからです。「ぜひそういう奇跡のわざを、おらが町でもひとつ!」とばかりに歓迎したということでしょう。しかし当のイエス様はその群集の熱狂・期待を冷ややかに見つめておられます。イエス様は奇跡を単に奇跡としては行いません。それは福音を示すためのものであって、自分に人々の目をひきつけるためではないのです。実際、悪魔に誘惑を受ける場面では3つの誘惑を全て退けます。奇跡の業を起こす必要などなかったからです。
 
イエス様は奇跡をなさった後「このことを誰にも話さないように気をつけなさい」と言われたり(マタイ8:4等)、みんなの興奮が最高潮に達しているところで「さあ今こそ神のもとへ立ち帰りなさい」とむしろ人を避けて退いて行かれたりしました(マタイ8:18)。奇跡は何かしら魔力のように人を惹きつけるのです。Youtubeでなんかおススメで教会の動画が出てくるんですけど…中にはそういう奇跡だとか癒しの業みたいなものばかり上げて「これがキリストの奇跡だ!」みたいな教会もあるんですよね。それとか「自分はこんなにやさぐれていたが、キリストに出会い変えられました!」みたいな牧師だとか…。
 
内村鑑三氏はかつて「余は福音書のうちでヨハネ福音書を一番愛する。なぜならば、奇跡が一番少なく、言葉が多いからだ」と書いたそうです。考えてみますとその書き出しから「はじめにことばがあった」とあるように、「言葉を聞いて信じる」ことを第一義としているのです。

 でもこれは逆に難しいことでもあります「なぜ牧師にとって説教は難しいのか?」というと、人は自分が知ってること、身につけたことをすべて言葉で説明するのは困難なのです。うちの子が小学生の時にプールに連れていった時に妻が「泳ぎを教えてあげて」というのですが。実は私は小学生の頃水泳選手でして、大会でメダルを獲得したこともありまして(バタフライと平泳ぎが得意でしてね…)。でも子どもにどう教えていいのかわからない。どういう言葉や教え方がいいのか、わからないんです。
だから同じように(同じかよ?笑)。金子敏明という人間の中にあるキリスト教信仰というものを、どう人に伝えるのか…牧師をしつつも悩み続けています。まして私は物心ついた時には教会に来ていた。牧師の説教を聴いて信じたというよりも「教会に大事にされていたから、まあここにずっと来るだろうから、洗礼受けちゃおうかな」みたいなノリだったんですよ。
で、ガリラヤの人々の反応はこの直前に記されたサマリア人たちの反応と相反するものでした。39節には「その町の多くのサマリア人は、……女の言葉によって、イエスを信じた」。ユダヤの人々は自分たちの信仰こそが本物だと思っています。ところがその本家本元のはずのユダヤ人が、奇跡を見て信じる信仰に陥っていて「偽者」のはずのサマリア人たちが、聞いて信じる信仰をもっていた。

ヨハネ福音書は「奇跡を見て信じる信仰とは本物なのだろうか?」と問いかけているように思います。だけど「では、言葉だけで信仰が生まれるのか?」という疑問も生まれますよね。そこで大事なことは、奇跡の中に「キリストによる受容」があったことなのだと思います。サマリアの女性はたしかにイエス様の愛に、福音に包まれたのです。
 ここでイエス様が出会ったのはカファルナウムの王の役人でした。カファルナウムからカナまでは直線距離で約30kmあります。一日かけて藁をもすがる思いで歩いてきたのでしょう。しかしイエス様は「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)と、たいへん冷たい反応(塩対応)をされました。しかししつこく食い下がる役人に「帰りなさい。あなたの息子は生きる」とそれだけ言われます。彼はイエス様に自宅まで同行してもらってそこでいやして欲しかったのです。でも自分の言葉を信じるか否かのみを問うたのです。もう信じるしかない!とかけたのです。さらに言うならば、彼は自分の権力を行使しようと思えば出来たはずです。しかしそれをしなかった。自分の力に頼ることをあきらめた時にキリストの愛が迫ってきます。
癒された彼はこの時は元気になった。でも、当然いつかはこの世を去る。命には等しく終わりがあるのです。もしも目に見える「癒し」のみが全てなのだとすれば、彼は死ぬことのない身体にならなければいけない。でもそれは信仰でしょうか。強烈な信仰体験をして入信するという人もいる。そのこと自体は良いとしても、いつまでもそこに留まっているのは違うでしょう。
大切なことは生かされてある日々にどう証しをして生きるかであり、目に見えるものではなく、見えない主の言葉、主の愛に立って歩み続けることです。彼らは奇跡を通して家族ごとイエス様を救い主として信じることを決意しました。でもその後も多くの人生の試練があったでしょう。地元の名士である役人がイエスを信じたことで、色々な軋轢も生まれたのではないでしょうか。社会的地位だって失ったかもしれません。この後の人生は簡単なものではなかったはずです。棘々しい人生の厳しさ満載の中での信仰です。しかしやがてくる死の時にも、彼ら家族は本当の幸いに包まれていたのではないでしょうか。
 
終わりになりますが、先週私はアシュラムセンターの旅行で沖縄へ行きました。色々お伝えしたいことはあるのですが…今日は首里教会のことをお話したいと思います。沖縄戦の米軍による攻撃で首里の街も焼け野原と化しました。その中で建物として残ったのは、首里高校と首里教会だけだったそうです。残ったといっても、砲弾や銃弾の後だらけのボロボロの姿なんですよ。この教会は近年になって会堂を建て替えたのですが、その際、戦争の時に爆撃を受けた十字架を模して新たな十字架を設置したのです。そして、実際に銃弾を戦時中に受けた十字架はいま礼拝堂の講壇に置かれています。いやすごいインパクトでした。
 
沖縄という土地では、県民みんなが一致団結して戦争反対、基地反対なのかというとそういうわけではない。むしろそのようなことはあまり表に出さない風潮も強くなっているのかもしれません。ですが
「自分たちの過去の傷や過ち、キリストの十字架さえもボロボロにしてしまう人間の愚かな罪をも露わにしていく宣教だってここにたしかにあるんだよ」
「そんな人間のどす黒い罪のただ中に、武器や銃が飛び交う中にキリストっておられるんだよ」
という真実を教えられたのでした。首里教会の歩みそのものが「奇跡」だったといえないでしょうか。

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