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アギラールからみた景色(Never Say Goodbye配信視聴して)

現世の事象とエンタメは切り離してみようと言い聞かせていたけれど、いざふたを開けてみれば民衆が立ち上がり、国のため…いや生まれ育った愛する街のために銃をとるバルセロナがあまりにも現情勢と重なりすぎていた。
宝塚歌劇団宙組公演、Never Say Goodbye のライブ配信を見ての感想をアギラール中心に書き留める。

✸思い切りネタバレしてます!ご注意を〜✸

アギラールは悪なのか

政府の方針を拒む民衆との隔たり。ファシズムの侵略阻止という同じ目標を掲げながら政治的圧力で民衆をまとめようとするアギラール。
自分たちの意思で選択するんだという民衆を前に亀裂が生まれる。

ーーーーーしかしこの情報だけでアギラールを悪に位置付けるのは乱暴すぎる。

政府&国益=悪、民衆&自由=善という構図に充ててしまえば、物語は単純に理解できたとしても、ネバセイは善と悪に仕分けする物語ではない。私は一体フライングサパの総統の訴えやBADDYの示唆する善と悪の線引きで何を学んだんだと言われそうだ。

ずんさんもナウオンなどでたびたび言われているけれど、アギラールは一幕の終わりくらいからあれおかしいぞ、うまくいかないぞと思うようになると。2幕になるとさらに様子がおかしくなっていく。

無理やり拷問にかけた民衆をスパイだと断定し見せしめのように粛清。権力が手に入るのだぞと権力への執着にうっとり。挙句に”俺はこの女が欲しい”と欲望、いや欲情を隠そうともしない。

1幕のアギラールも権力で身を固めた圧制者だ。
けれど2幕での自己欲の加速ぶりは、”あれおかしいぞ、うまくいかないぞ”という焦りが燃料となり、民衆の組織化をめざしたアギラールがいつしか自己欲の衝動を加速させていったように感じた。

うっぷんをはらすのか、ある意味ヤケなのか適切な言葉がみつからないけれど、そんなアギラールの姿もまた人間の真実の姿に思える。

おそらくあえて登場させていないアギラールの側近たち。アギラールのいう”民衆の組織化”の方針は戦下においてきっと正解であるだけに、後押しをしてくれる仲間の影が一つもみえないのはアギラールの孤独を連想させる。

そんなアギラールがもてはやされるようにドラゴンの舞台へ引っ張り出され、まんざらでもなく演じてみせる姿。その間ジョルジュヒーローがさっそうと現れてキャサリンプリンセスを取り戻していく。
ドラゴンを成敗し嬉々として振り返った時にはプリンセスの姿はなく。
今更怒鳴りちらしても、むなしく図られた間抜けなリーダーに成り下がった姿をさらしているだけのアギラール。

1幕の登場からどんな小さな反意も見逃さないという冷徹とギラギラを両立させた瞳のアギラールをずんさんが容赦なく演じきる。

前々作でキキちゃん扮するシャーロックホームズのモリアーティは他人を慮る気などさらさらない悪役だが、今作のアギラールの方針は強引で圧制的ではあるものの、その胸の内は民衆と目指すゴールは同じという思いを持ってバルセロナにいたはずだ。

それがいつしか狂いだした歯車。

いやいやながら引っ張り出されたドラゴン祭り、まんざらでもなさそうな表情からつい気分良くラストまで演じきってしまうアギラールの浮かれた隙。

ずんさんが仕込んだアギラールの巧妙な煩悩と孤高ぶりに、卑怯な悪党だとわかっていてもついあぁと心を寄せてしまう私もいる。

画面越しに見たアギラーずんは独善的な独りよがりの悪に成り下がっているのに、元々掲げていた反ファシズムの強い目的を見ているだけに、一体どうしてこうなったと思わされてしまう。

絵本の中のアギラールではない、人間の煩悩にまみれたアギラール。ずんさんのアギラールはそんな事を見てる側に投げつけてくる。

ヴィンセントの田舎まで追いかけてきた頃にはもうただひたすらアギラールのプライドと執念の戦に近い。

それ故にこれだけの舞台でド悪役を担うアギラールの最後としては大変地味なコマロフによる射殺が、逆にぴったりはまっているのだと思う。目的を見失った権力者のあっけない最期。

やはりアギラールは悪だったのだと思う。しかし、それは劇中どんどん加速していった悪。決して最初から悪党を引き受けていた人物ではないのだ。

コマロフがさっさと裏口から行け、とジョルジュ達を行かせるあたり、アギラールもまた、目に見えていない更なる権力者のコマだったんだとかんじさせられる。

ネバセイはでも、アギラールが死んだところで物語が終わるわけではなかった


悪役が世を去ってもなお、スペインは内部で分裂し戦況はひっ迫しているという事態がまた重たかった。

ジョルジュがキャサリンに本の出版を託し、これはさよならじゃないと歌う。けれどジョルジュの全身からはさようならの想いがあふれ出ている。見ているのがつらいほどに。

二人が出会えた奇跡は確かにさようならじゃない。でも物理的にはさようならだと分かっている二人。そんな野暮なことは口に出さないけれど。

キャサリンはジョルジュのメッセージを正しく受け止め出版を実現させた。キャサリンにとっては愛の形として完結しているのだろう。
けれど、そこらへんのしがない民衆の私にはやっぱりつらいお別れだった。

”カメラが仕事だ””報道が仕事だ”と銃を持つ選択肢をもっていなかったジョルジュ達が、最後にはそれぞれの大切なものを置き、信念のもと戦火へ進んでいく描写はどうしても現況にぴったりとはまる。

現世とエンタメは切り離して観ようと言い聞かせていたけれど、想像以上のパワーで投げられた宙組からの直球ボールを何とか受け止めた。

このタイミングでこの演目が上演されたことに意義を感じていいんだな、いや、感じなきゃいけない。

そんなことを考えた。

4月からは東京宝塚劇場。
いよいよ観劇だ。
個人的には往生際の悪い私がずんさん完堕ちを自認してから初めての演目。

こんなキチンとあぎらーずん語りをしておいて、いざ観劇したらひたすら萌散らかしてアギラールの背中を守る会やっていたらどうしよう。防弾チョッキの差し入れしてたらどうしよう。

……いや、私が法律だーーー!

ーーー好きにやります(笑) とっても楽しみだ!

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