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【殺し屋1】漫画で学ぶサディズムとマゾヒズム【ゴールデンカムイ】

お通しの垣原組長をどうぞ!!(お通し料金4万円!!)
©1998 - 2001殺し屋1/山本英夫

殺し屋1の時間だーーーーッッッ!!!!

大変長らくお待たせしました!!!『殺し屋1』のお時間です!!!!!


◆垣原 雅雄(かきはら まさお)という男

皆さんはマゾのキャラクターと聞いて誰を思い浮かべるでしょうか。そうですね。垣原 雅雄 (かきはら まさお)ですね。
床屋に置いてあったら踵を返せでおなじみの漫画『殺し屋1』の登場人物です。元安生組若頭、後に垣原組の組長として新宿に波乱を巻き起こす最狂のマゾとして漫画史上に名を刻んだキャラクターですが、今回はこの垣原というキャラクターを通じてマゾヒズム、ひいてはサディズムへの理解を深める趣旨のもとやっていきたいと思います。
まずは殺し屋1の大まかなストーリーをWikipedia先生に説明していただきましょう。

▽『殺し屋1』とは

概要
『殺し屋1』(ころしやイチ、Ichi the Killer)は、山本英夫による日本の漫画作品。または、それを原作に制作された映画、OVA作品のタイトルであり、シリーズの主人公の名称である。

ストーリー
殺害対象を残虐に殺すサディストの殺し屋「イチ」を擁する歌舞伎町の「はぐれ者グループ」と、マゾヒストのヤクザ「垣原」が率いる暴力団・垣原組との攻防、そしてイチと垣原の「異常性愛者」同士の邂逅を描く。

Wikipediaより引用

うーん、大まかすぎる……。
物語の主人公である殺し屋の「イチ」は過去に受けたイジメのトラウマを利用され、ターゲットをイジメの加害者であると錯覚するようマインドコントールが施されています。そして裏に秘めた極度の性的サディズムによってモノを怒張させながらターゲットをバラバラに切り刻み、その血を潤滑油代わりにして自慰行為に及ぶのが彼の仕事ぶりです。その際、イジメの記憶を回想し泣きながら陰部をしごくという、もう滅茶苦茶という言葉を擬人化したような人物なのですが、それに匹敵する滅茶苦茶界の王様みたいなヤツが今回の主題であるもう一人の主人公ヒロイン、垣原 雅雄(35歳)です。

35でこの風貌は嘘だろ……
©1998 - 2001殺し屋1/山本英夫

暴力団安生組の若頭であった垣原ですが、イチによって組長の安生が殺されると仇討ちのため自らを組長に据えた垣原組を立ち上げ独自に行動を始めます。
当初は安生組長のカタキを討つべく勇んでいた垣原ですがイチの関わった現場の凄惨っぷりを目の当たりにし、マゾヒストの魂をぐわんぐわんに揺さぶられてしまいます。

恋する乙女になるヤ〇ザ
©1998 - 2001殺し屋1/山本英夫

▽垣原の語る必然性

自分がターゲットにされている事を知ると、垣原はまるで恋人を待ち焦がれる乙女のようなセリフを漏らすようになります。究極のサディストであるイチに絶望を与えてもらいたいと切望するようになりますが、じゃあ手っ取り早くイチに会って切り刻んでもらえばいいのかというと、思春期の女の子ばりに気難しい垣原は以下のように述べます。

SMってのはオレにとってプレイじゃねェ、生活だ……
必然性が全てだ。

オレはあくまでもイチに殺されたくない、という前提があって、初めて絶望感が生まれてくるんだ。
イチに狙われてんのが分かった以上、オレはイチに殺されない努力をしなきゃならねェってことだよ。

垣原はSMを語る際に“必然性”、またはそれに類する言葉を多用します。正直、この“必然性”について当時の僕はあまり理解できていませんでした。環境を整えてからでないと十分な快楽を得られないという話なのかな、とふんわりとした感覚で読み進めており、その後も理解が進むことはありませんでした。「なんか性癖拗らせた人のメンドクサイこだわり」というのが僕の率直な感想です。
しかし時は流れ2023年。食パンの上に菌類の森ができちゃうくらい旬が過ぎてから『ゴールデンカムイ』を読んだ僕は作中のある人物の描写によって急速に“必然性”を理解してしまうのです。

……だって漫画アプリで全話無料キャンペーンやってたから、読むでしょ、そりゃ。全話無料ですよ?

◆辺見 和雄(へんみ かずお)という男


TVアニメ「ゴールデンカムイ」公式サイトより引用

ゴールデンカムイは1900年初頭、アイヌ民族が密かに貯めたとされる莫大な量の金塊を巡って政府の人間や元軍人、脱獄囚、新選組の生き残り、アイヌの少女等々、様々な人間が入り乱れる群像劇です。
その中で金塊の在り処を示す暗号の入れ墨を掘られた囚人達がいるのですが、彼らは脱獄して散り散りになって逃げてしまいます。この脱獄囚達を追って探す旅が物語の大きな流れとなっています。そしてその脱獄囚の一人に辺見和雄という男がいます。上記画像の説明にもあるように辺見は生粋の殺人狂であり、同時に自らも無残に殺されたいというサディストとマゾヒスト両方の性質を持ち合わせたキャラクターです。
彼がそのような性質を獲得するエピソードとして幼少期の原体験が語られるシーンがあります。

©2014 - 2022ゴールデンカムイ/野田サトル

必死の抵抗も空しく、弟がイノシシによって無残に殺される様子を見て幼い辺見は強い破壊衝動と同時に性的興奮を覚えます。そしていつの日か、弟と同じように力の限り抵抗したうえで蹂躙されむごたらしく殺されたいと願うようになります。

▽辺見の求める必然性

辺見は日常的に殺人を行い、性的欲求を満たすサドではありますが彼が求める究極の快楽及び最終目的は上述したように「力の限り抵抗したうえで蹂躙されむごたらしく殺されたい」というマゾ側の欲求です。そしてこの“力の限り抵抗したうえで”というのが垣原が語る必然性を紐解くうえで最も重要な要素となります。

誰かに殺されたいという欲求はオートアサシノフィリアという名の性的倒錯として知られていますが辺見の場合、ただ殺してくださいと受動的に死を迎えるのではなく、己の全身全霊を叩き潰されたいというある意味積極的なマゾヒズムを帯びた倒錯です。抵抗が本気であればあるほど、それに比例して叩き潰された時に否定されるものの度合い、つまりマゾとしての快楽も大きくなります。そして暴力を遂行する側にも、他者の苦痛など全く意に介さない獣のような純度を求めています。
これは互いが、混じり気のない本気の欲求をぶつけ合う事でしか生じえない快楽であり、尚且つ自然発生的に行われなければなりません。「こういう設定でこのようにしてください」とお願いしてもそれはイメクラのような代替的に欲を満たすものでしかありません。
辺見が求めているのはたまたま出会った二人が互いに一目惚れし、言葉を交わすまでもなくそのまま激しく交わってしまうような究極のラブロマンスであって、どちらかが気を使って忖度したり誰かに用意されたのでは成しえないものです。

この辺見の行動原理は、垣原の語る必然性とピッタリ符号します。
もう一度垣原のセリフを見てみましょう。

オレはあくまでもイチに殺されたくない、という前提があって、初めて絶望感が生まれてくるんだ。
イチに狙われてんのが分かった以上、オレはイチに殺されない努力をしなきゃならねェってことだよ。

辺見の欲求を掘り下げてから読むと途端に解像度が上がった気がしませんか?

▽純粋を求める青臭さといじらしさ

垣原の宿敵もとい待ち人のイチはマインドコントール下にあるため、ターゲットを自分をイジメた加害者だと思い込み、妄想の中で殺しにかかります。ですからイチには本来のターゲットは見えているようで見えておらず、この状態のイチはコミュニケーションが全く取れない獣のような状態にあると言えます。

絶対に話が通じないと分かる表情
©1998 - 2001殺し屋1/山本英夫

他者に共感する事無く妄想の中で自らの欲求だけをぶつけるイチの暴力は、幼少期の辺見が心を奪われたイノシシのソレと同質のものです。
このように暴力を振るう側もそれを受ける側も、互いに100%に近い純度を保ったコミュニケーション(SM)を行いたいと垣原も辺見も考えています。

こういった高純度の交流に対する憧れは実に思春期的です。100%純粋なコミュニケーションなどありえない事は大人になるにつれて徐々に学んでいく事ですが、多感な思春期にはそれを求める瞬間が誰しもあったのではないでしょうか。少なくとも僕にはありました。
純度100%の水があったとして、そこに一滴でも泥が混じればその水はもう純水ではありません。コミュニケーションに100%を求めるのであれば自分自身も泥の一滴もない100%でなければ成立しない空論ですが、垣原や辺見はそれを求め続けて生きてきました。だからこそ理想の暴力に相対した時、彼らはまるで初恋を経験した少年少女のように狼狽えたり、顔を赤らめたり、時には恍惚の表情を見せます。
そして純粋な暴力に答えるために、垣原は必然性という言葉を使って自らの純度も高めようと努めますし、辺見は相手の純度を損なわぬよう本気で殺しにかかるわけです。それはもう、憧れの想い人に会うため一生懸命自分を良く見せようとするいじらしさのようなものすら感じます。
そこには『花とゆめ』も裸足で逃げだす青色の恋愛物語がぬらりとした粘度を伴い横たわっているのです。

©2014 - 2022ゴールデンカムイ/野田サトル
©1998 - 2001殺し屋1/山本英夫

◆快楽は共感から

垣原も辺見もマゾヒストでありながら、同時に暴力に振るう事にも快楽を見出すサディストの傾向も見られます。垣原は組員のミスに対して“オトシマエ”と称してペニスにピアス(韻を踏みました)をつける等の拷問を日常的に行うためにピアスのマーボーという二つ名で呼ばれています。特に辺見は顕著で破壊される物に対して自らを重ね合わせて恍惚の表情を浮かべる様子が描かれており、これは自らの破壊行為、つまり殺人行為においても同様です。
辺見は殺されるモノの痛みを想像して性的快感を得ているのです。

©2014 - 2022ゴールデンカムイ/野田サトル

皆さんはアダルト業界のおけるマグロという言葉をご存じでしょうか。

冷凍され死んだ目で動かないマグロに冷め切った態度で性行為を受け入れる女性を喩えた隠語表現。
性交時に仰向けになって正常位で男性を受け入れるのみの女性や、仰向けになり騎乗位の女性が動くに任せるだけの男性などを指す。風俗店では楽な客として扱われるが、実生活上では相手が張り合いをなくし愛情をなくすことが多々あるので、好ましい態度とはいえない。

Wikipediaより引用

上記のようにあまり良い意味では使われません。一般的に性行為において反応がないまたは薄い相手は嫌われる傾向にあると言いますが、そもそも何故性行為中に相手に反応を求めるのか皆さんは考えたことがありますでしょうか。身体的な快楽を求めるだけならば反応がなくても問題ないはずですが、多くの人が快楽に顔をゆがめる様子を楽しんだり、漏れる嬌声に喜びを感じたりします。何故でしょうか。

答えは人が共感する生き物だからです。人が喜んでいる時、悲しんでいる時、その感情に引っ張られて自分も同じ気持ちになった事はありませんか?テレビで痛々しい場面が映った時、自分が傷ついたわけでもないのにその痛みを想像して顔をしかめた経験は?人は他者の感覚を共有しようとします。性的快感も同様です。他者の快感に共感してより大きな快感を得ようとするからこそ反応のないマグロは嫌われるわけです。
そして性的快楽と共感の話を痛みに置き換えた時、浮き上がってくるのがマゾヒストの本質です。他人の快楽(痛み)を想像し自らに置き換えて快感を得るわけですから、自らの手によって死にゆく者の痛みにも共感して性的興奮へと変換します。垣原や辺見がマゾでありながら同時にサドであるのは、他人の痛みすらも自らの快楽の糧としてしまう共感性の高さゆえと言えるでしょう。

◆終わりに

理解しきれなかったキャラクターや作品の意図が、別作品に触れる事によって理解できるようになる体験というのは珍しくありませんが、極度のマゾヒストという非常に珍しいキャラクターの心情をここまでピンポイントに描く作品に出会う事は稀でしょう。

辺見和雄のモデルはアメリカの殺人鬼ヘンリー・リー・ルーカスと言われていますが、マントルがチラ見えするレベルでマゾヒズムに対する掘り下げが深いうえに両キャラクターの心情に共通点が多すぎる事から、ひょっとすると辺見はヘンリーの他に垣原もモデルにしてるのではないかと睨んでいるのですがこれは考えすぎでしょうか。
マゾヒズムの行く末を恋愛物語として描いているところまで共通しているのは何かしらの意図を感じてしまうのですが、こういう公式発表にない作者の意図を勝手に考察するのってファンからは嫌がられるんですよね。まあ、書きたい事を好き勝手書く目的で始めたnoteなのでご容赦を。

殺し屋1、ゴールデンカムイ。作品の性質は異なるものの両方とも名作なので未読であれば是非読んでみてください。
ご清覧いただきありがとうございました。

©2014 - 2022ゴールデンカムイ/野田サトル
©1998 - 2001殺し屋1/山本英夫

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