「地球上で天文観測できないなら宇宙に行けばいいじゃない」:月面天文台の話
人工衛星や様々な光害・人工電波が天文観測の影響を受けるという話題になるとこのようにおっしゃる方もいらっしゃいますが(念のため、宇宙開発業界の方から言われたことはありません)、残念ながらそう簡単ではありません。もちろん宇宙望遠鏡を打ち上げるのが大変とか地上のほうが望遠鏡を大きくできるといった理由もありますが、望遠鏡を宇宙に気軽に設置できるような時代には、宇宙でも天文観測が難しくなっている可能性もあるだろうと思うのです。
というわけで、今回は月面電波天文台の話を。
月は常に地球に同じ面を向けています。つまり、地球から見た月の裏側には地球からの電波が届きません。地球からの電波が遮蔽されていることから、Shielded Zone of the Moon(SZM、月の遮蔽領域)と呼びます。(現時点では)月面の人工電波は非常にわずかしかないうえに、地球では電離層で反射されてしまうとても低い周波数の電波も電離層がない月面なら観測することができます。漫画『宇宙兄弟』では、月の南極にあるシャクルトンクレーター内に低周波電波望遠鏡が設置されていましたね。
SZMは、将来の電波天文学にとって重要な場所です。このため、電波を使うさまざまな業務の調整を行う国際電気通信連合(ITU)では、SZMをできるだけ(電波的に)静かな環境のまま維持するような取り決めをしています。国際的な周波数利用の規制を行う「無線通信規則」(リンクは現時点で最新の2020年版)の第22条には、"Radio astronomy in the shielded zone of the Moon"という項目があります。
「月の遮蔽領域では、電波天文観測及び他の受動的業務の利用者に有害な障害をもたらす放射は、次の帯域を除く全周波数帯域で禁止する。」
例外とする周波数帯域はあるものの、電波天文等を守るために「放射を禁止する」という厳しい規則になっています。これはITU加盟各国が批准した国際条約ですので、法的拘束力があります。ではSZMでの天文学が安泰かというとそういうわけではなくて、こういう場合の常として、例外を注意深く見る必要があります。
例外的に電波を出してよい周波数帯域として挙げられているのは以下です。
アクティブセンサーを使った宇宙研究業務に割り当てられている周波数帯
宇宙運用業務、アクティブセンサーを使った地球探査衛星業務、宇宙研究を支援するための宇宙機搭載局を使った無線測位、SZM内での無線通信と宇宙研究のための通信に割り当てられている周波数帯。
もちろん月面に電波天文台を作ったとして、そこからのデータを地球に送るなど望遠鏡運用には何らかの通信が必要です。地球と違って悪天候に見舞われることがないので光通信でもいいかもしれませんが、電波通信が採用される可能性もあるでしょう。また、月面天文台の近く(SZM内)で作業する宇宙飛行士と月面基地が通信する必要もあるでしょう。ですので、まったく電波を使わないというわけにはいきません。これは仕方ない。宇宙兄弟でも、電波望遠鏡の横で地球と通信するムッタが出てきます。
では電波発射が禁止されていない周波数帯での電波天文の立場はというと、
関係する当局間の合意に基づいて"may be protected"とだいぶトーンが弱くなっています。ですので、電波的に静かな環境を守るにはこの例外となっている周波数帯での通信を最小限に抑える必要があります。
では、どこが最小限か。これは難しい問題です。月面天文台からのデータ通信に適した周波数帯がどこか、SZM内での宇宙飛行士の活動に必要な通信がどれくらいか、まだまだ決まっていないことが多いからです。
そんな中、2020年にNASAは月面での携帯電話ネットワーク(4G/LTE)の設置試験を行う会社としてNokiaを選定しました。
Wireless Innovation Forumでのセミナーで、Nokia Bell LabsのThierry Klein氏(President of Bell Labs Solutions Research)が"Take My Network to the Moon"というタイトルで講演しています。月の南極、まさに宇宙兄弟で天文台が建設されたシャクルトンクレーター内に2023年に着陸機Nova-Cを降ろし、そこで携帯電話ネットワークの実験をするそうです。
月面での携帯電話ネットワークの使い道としては、天体(月、火星、小惑星)表面にいる飛行士どうし/飛行士と着陸機、表面に設置する多様な装置、ローバー、軌道上の周回船どうしなどが想定されています。使う周波数は2GHz以下の携帯電話バンドを想定しているとのこと。
電波天文業界とも連絡を取っていて、電波天文学者側も現時点では懸念は持っていないとも紹介されていました。これは12日間(月の昼間1回分)だけの一時的な実験ですのでこれがそのまま天文学の脅威になるとは考えにくいですが、永続的な展開になるとまた話は変わってくるとKlein氏も言及しています。
NASAの新しい月探査プログラムが動き出し、民間企業による月着陸も現実味を帯びていることを考えると、今後月面での有人活動が活発になることは十分に想定されます。その時に真っ先に電波天文台が建設されるとはやはり考えにくく、ある程度インフラが整ったうえでの天文台建設になると想像します。このインフラにはもちろん通信インフラも含まれますので、月面天文台が建設される頃にはやはり月面にも電波が飛び交っているはず。というわけで、
「地球上で天文観測できないなら宇宙に行けばいいじゃない」
というわけにはいかないだろうと思うのです。天文業界としては、どのような電波天文観測を月面で展開するか、そのために必要な無線通信はどんなものか、どの周波数帯を死守したいか、などを詰めていく必要があるのでしょう。例えばコロラド大学は、FARSIDEと呼ばれる月面電波望遠鏡のコンセプトスタディを公開しています。
月面での天文台を考えるなんて夢物語、という時代ではもうないのですね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?