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『コロナ危機の社会学 感染したのはウイルスか、不安か』を読んでみた

 安倍晋三首相の辞任会見があった中で、いささか遅きに失したようにも感じるけれど、西田亮介先生の『コロナ危機の社会学 感染したのはウイルスか、不安か』を拝読した感想を簡単に記しておきたい。

 本書では、当初厚生省主導で新型インフルエンザ特措法に基づき新型コロナウイルスに対応し、その後の安倍総理の会見による学校一斉休校、さらに緊急事態宣言を巡る混乱などを概観して、政府と国民、そしてメディアとの間の「初動」の認識のズレを詳らかにしている。さらに、メディアが2009年の新型インフルエンザの対策について「すっかり忘れていた」としており、緊急事態宣言をめぐる国民の意識も私権の制限の懸念が強かったものが、日が経つにつれて、「不安」から宣言を早く出すように動いていったことを指摘している。そして、その「世論」に対応しようとする政府が「遅い」という印象を与えて、政権への支持率が低下し、「耳を傾けすぎる政府」へと化したとしている。

 この「耳を傾けすぎる政府」という言葉は、まんま「衆愚政治」と呼んでいい事象であるというのが、私自身の考え。西田先生はかねてから自民党をはじめとする政党とネットの関係性を研究なさっているが、これまでは「選挙」での支持を得るためのSNS・動画活用といったところに焦点を当ててきた。それが、今回の危機において、「可視化できる世論」としてのネットを意識し、当初は世帯30万円給付とされたものが数日のうちに一人当たり10万円の給付金支給になったことなど、「政治の機能不全」の要因になっているという説を展開している。これに関しては、自分の認識もほぼ一緒で、「合理的で好ましい政策変更」が都度なされていくのか、不安を覚える。

 いちおう自分もネットメディア中心とはいえ売文業なので、西田先生のメディア分析は耳が痛いところもあった。例えばBazzfeedは厚労省クラスター対策班、特に西浦博北海道大学教授へフォーカスした取材などを出していて、読者にエビデンスに基づいた情報を発信しようと努力した形跡があるが、やはりテレビの影響力に(今のところは)敵わなかったし、それが世論の「自国政府の対応が小規模で後手だと信じ込んでしまっている」状態に繋がり、はっきり言ってしまえば混乱を助長させる結果となっているように感じる。

 本書では、最後に「新しい冗長性の時代」という章を設けて、有事の際にリソース対応ができるだけの余剰と余力が必要だと論じている。バブル経済崩壊後の日本では、企業はひたすらコストカットに邁進していたし、省庁再編といったこともその流れで捉えられる。「改革の反動で冗長性が毀損されているのではないかという検証が必要」という主張は傾聴に値するだろう。

 メディアも「機能のジャーナリズム」を展開できる余力がないことが今回の危機で詳らかになったとも言える。多くのメディア、そして国民の関心は早くも安倍総理後の見通しに向いているが、ここは過去の事例を踏まえて、その延長線上にどのような選択肢が提示できるのか、そしてそれが多くの人に課題意識が共有できるのか、といったコンテンツないしはプラットフォームが求められているように感じた。


 

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