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忘れられない人


余裕を持って家を出たはずだった。

それなのに電車で失敗した。
乗り換えなくてはならない駅を、そのまま通り越していた。
直通の電車もあったはずなのに。
それに乗るつもりだったのに。

間違いは誰にでもある。違う日なら構わない。
その日は大学受験の日だった。


ようやく大学の最寄りの駅に降りたったのは、集合時間の五分前だった。
マンモス校の広いキャンパス。
試験会場の教室にたどり着くには、十分以上かかるだろう。

受験の日に遅刻か……

感傷的になっている場合ではない。
急ぐべきなのはわかっている。だが、走り切るには長い距離だ。緩やかではあるが上り坂でもある。
マンガのように、顔に縦線が入っていたと思う。
仕方ないと顔を上げた時、どこからやって来たのか、若い男性が目の前に立っていた。

この大学の学生で入試のアルバイトをされている人だろう。受験票を見せてくれる?と私に言いつつ、前方へと誘導する。
受験票を差し出すと、確認するかのように頷いて、こう言った。

「大丈夫。今から一緒に走るから」

落ち着いた声だが、語尾は力強い。
私のカバンを持ち上げると、自分の方に引き寄せ、右肩にかけた。

え? カバン?

「大丈夫」

今度の「大丈夫」は、先程より早口で力強かった。

それからは、ひたすら走った。
二人で走った。

その大学の学生さんだろうということで、以下〝学生さん〟と呼ばせていただく。

学生さんは、前に行ったり、横に付いたり、私のペースを気遣って動いてくれる。
車が通る道では、車に頭を下げて横断させてくれた。

見上げるほどは背が高くはなかった。
細身で長めの黒髪。顔ははっきりとは覚えていないが、目は大きくはない。笑っていなくても穏やかな雰囲気で、どこか優しい動物みたいだった。

自分でも驚くくらい、私は走っていた。
軽くなった肩のおかげかもしれない。
申し訳ない気持ちで、学生さんが引き受けてくれた私のカバンに目を向けると、持ち手につけているゴールデンレトリバーのチャームが揺れている。
そのコが私以外の人のもとで揺れているのだから、かなりの非常事態なんだと今更ながら思う。

お礼を言うタイミングは今ではないだろう。とにかく急がなくてはならない。
学生さんと、時折目に入ってくる犬のチャーム。
その二つに励まされ、何とか私は走っていた。

ようやく大学の門だ。

学生さんが少し笑みを向けてくれた。
途端に緑豊かなキャンパス風景が広がった。

学生さんにお礼を告げようと思ったが、校舎は何棟もある。 まだ悠長なことは言ってられない。
少し前にいる学生さんが、振り返って手招きしてくれている。
どうやら試験会場まで連れて行ってくれるみたいだ。
有難いな。これで迷うことはない。最短ルートだ。


いよいよ建物の中に入った。
歴史を感じる匂いがする。
階段を上る。
キツイ。一歩ずつ歩くしかない。

前方を行く学生さんの足が止まった。

大きな扉の前だ。

学生さんは、私に上着を脱ぐようにと声をかけてくれた。
汗をかなりかいていることに気がついた。息も乱れているが、髪も乱れている。
落ち着かないと……そう思うと、急に焦ってきた。

学生さんは、その間に腕時計を見た。そのあと、扉に手をかけると少しだけ手前に引いて中の様子を覗いている。
そしてカバンを私に渡しながら、こう言った。

「ここはすごく広い教室だから、驚かないでね。もう説明が終わって、みんな座っている。席に着くまでも緊張すると思うけど、大丈夫。まだ試験は始まってはないから」

三回目の「大丈夫」が、ゆっくりと染み入ってきた。
この人の言葉は魔法のようだと思った。

確かに私は緊張している。
だが、その緊張は、扉の中ですでに席に座っている人と、さほど変わらないはずだ。
カバンの中から持参してきたお茶を探し、一口飲むと、力が抜けていくのがわかった。

頭を下げて、お礼を述べる。
「有り難うございました」以外の言葉が出てこない。自分でもがっかりだ。語彙力の不足を受験の日に痛感してしまった。
それでも学生さんは目を一層細めて、笑みを向けてくれたと思う。

私は深呼吸をした。
カバンを整えていたら、ゴールデンレトリバーと目が合った。いつもと変わらぬ涼しい顔をしている。さあ、そろそろ行こう。

大きな古い扉に手をかける。
学生さんも一緒に開けてくれた。

「頑張って」
と学生さんの小さな声が聞こえた。
急ぎ振り返ったが、扉の方が早く閉まってしまった。


結局、その大学に私が通うことはなかった。
有り難いことに、合格通知をもらうことができたのだが、悩んだ末に別の進路を選んだ。
直接もう一度お礼が言えるのであれば、この大学を選んでいたかもしれない。


あの日、私が出会っていたのが、あの学生さんではなく、他の人ならどうだっただろうか……

同じように一緒に走ってくれたかもしれない。
同じようにカバンを持ってくれたかもしれない。
けれども、扉の前での言葉は、あの学生さんだからこその言葉だった。誰でもが言えるものではなかった。

あの「大丈夫」という言葉があったから、シーンと静まり返った試験会場の中、落ち着いて席に着くことができた。
平常心で試験に臨むことができたのだ。

学生さんにお礼が言いたいと本気で思い、この大学に入ろうかとも考えた。
それくらい思い入れのある受験になったし、私には単純なところがある。
だが、名前も知らないし、マンモス校だ。
不可能だと思った。
積極的に探す方法もあったのだろうが、私の性格では無理だろうと早々に断念してしまった。



のちに、シナリオの勉強のためにこの出来事を書いたことがある。
話を面白くするために下記のように創作してしまった。

経営難に陥っている大学が、受験生に入学してもらうために〝おもてなし隊〟を結成した。
受験の日に〝おもてなし〟を受けた主人公は、まんまとその大学に入学し、学生さんを見つけ出す。
大学での再会を果たしてから、さらに物語は展開していくのだが、書き終わったあと、後味が悪かった。

学生さんのことを大学から雇われた〝おもてなし隊〟の隊員にしてしまった。
しかも、学生さんには足りない単位と、授業料の滞納があり、それらの便宜を図ることを条件にして大学側が目をつけたことしてしまった。
自分でもひどい話にしてしまったと思う。

誓ってもいい。
あの日のことは、ずっと大切に想ってきた。
あんな言葉をかけられるような人になりたいと思い続けてきた。

一方で、そんな自分に少し呆れているところもあったかもしれない。
もしかして、実はこんな顛末だったりなんかして……と一人漫才ではないが、ツッコミたくなってしまったのだ。

結果、罪悪感のようなものが残り、一層、自分に呆れることになってしまった。



たった一度しか会っていない。
顔も覚えていない。
それでも、その人のことを忘れることはない。

どうか今この瞬間も楽しい時を過ごされていますように。あの遠い日を思い出しながら願っている。