【 神様のキャスティング 】
中学生時代を振り返ると、全体にモヤがかかるような感覚になる。
いつもそうだなと舞衣は思った。
引きこもっていたわけではない。
だが、暗い部屋の中に一人、何故か古い椅子に座り、考え込む姿が浮かんでくる。
周りはよく見えない。
ぼんやりとした部屋の中で唯一、ランプなのかロウソクなのか、小さなオレンジの光がふわっと揺らいでいる。
その光に少なからず助けられてきた。
その光が誰から届けられたものなのか、それだけは、はっきりしている。
舞衣はもともとは、消極的な性格ではない。
小学生のころは、自分から前に出るタイプではないものの、正義感が強く、何事も見過ごすことのできない性分だった。
教室の中で孤立しているコがいないように常に気を配っていた。
先生からの頼まれごとも次第に多くなり、手を挙げたわけではないが、いつの間にかクラスをまとめる役を任されていた。
職員室は顔パスだった。
周りのあらゆる人と上手く関わっていたと思う。
何の時だったか、文明開化をテーマにした音楽劇を作り、クラスメートに演じてもらったことがあった。
創作している時から楽しかったが、発表の際にもらった拍手は、今も忘れることができない。想像以上に高く評価してもらった。
そのせいもあると思うのだが、会ったこともない、他の学校のコから手紙が届いた。
舞衣のことを噂で聞いている、と書いてあった。
……当時の私を知る人は、今の私を見て、がっかりするに違いない
今までに何度も舞衣は思った。
いつかは、そんなことを思わずにすむ日がくるのだろうか……。
中学に入って初めての夏休み、急に転校することになった。
幼少のころから、母親の体調が良くなかった。
父親の仕事も上手くいかなくなり、それもきっかけになったのだろう、引っ越しは母親が望んだことだった。
舞衣は落胆していた。
さらに追い討ちをかけるようなことがあった。
引っ越しの翌日、舞衣の留守中に、飼っていた猫がいなくなっていたのだ。
二年前、小学校近くの草むらで見つけて以来、大切に育ててきた猫だった。舞衣だけに懐いていた。
母親に聞いても、父親に聞いてもはっきりした説明はなかった。
馴染みの全くない場所。
夏休みの間、朝から夕方まで猫を探し回った。
あの時のことを思い出すと、舞衣は今でも息ができなくなる。
宝物の猫だった。守らなければいけない存在だった。自分の無力さを知った。
新しい中学校での生活が始まった。
以前の新興住宅地の学校とは異なり、大人びた印象の生徒が多かった。深夜の町をたむろしているグループもいた。
新しい制服が間に合わず、舞衣はどこから見ても転入生丸出しだった。
ひたすら目立たぬように過ごしていたと思う。
国語の授業で、徒然草を暗記して発表する時も、「この転入生、どうせ、最後まで覚えてきてる」みたいに囁かれると、わざと途中で辞めたりした。
深刻なイジメに遭ったわけではない。
それでも放課後、数人に囲まれてからかわれることはあった。
大きな額ではないが、金銭を要求されることもあった。
誰にも何も言わなかった。言う人が誰もいなかった。
学校に行くのが苦痛だったが、家にいたいわけでもなかった。
一度だけ、どうしても学校に行く気になれず、朝、広い公園に向かった。
昼過ぎまでベンチにただ座っていた。
運が良かったのか、悪かったのか、補導員に声をかけられてしまい、その足で学校に行くことになった。
大きな決断をした朝だったのに、その日一日さえも逃げきることができなかった。
そのあとは、学校に通い続けた。
滅多なことでは休まなかった。一日休むと次の日からずっと通えなくなってしまう、そんな気がしたからだ。
新しい友人はなかなかできない。いつも一人だった。そんな毎日が卒業まで続くのかと思っていた。
だが、三年生になったとき、これまでと違う景色を見せてくれる人が現れた。
それがKくんだった。
Kくんは、バレー部のキャプテンだ。
なのに、小柄な体格で、メガネが良く似合い、どこか文化系の雰囲気だった。
目立ちたがりでもない。Kくんの大きな声を舞衣は聞いたことがなかった。
ただ、人が集まる中心には、いつもKくんの穏やかな笑顔があった。
早めに言っておくが、二人の間にドラマになるほどの出来事があったわけではない。
週に一回ほんの一瞬だけ接する時間があっただけだ。
昼休み、ほとんどの男子は運動場でドッヂボールなどの球技をして遊ぶのが日課になっていた。
午後一番の授業が、音楽室で行われる日は、昼食のあと、女子の誰かに頼んで、教科書やリコーダーを音楽室まで運んでもらう男子がいた。
昼休みギリギリまで運動場で遊んでから、直接、手ぶらで音楽室に行くためだった。
ある日、昼食を食べ終えていない舞衣の目の前にKくんが現れた。
「これ、頼んでもいい?」
申し訳なさそうに、音楽の教科書とリコーダーを見せる。
え? 私?
舞衣は驚いた。
緊張して顔が強張り、無表情に見えたかもしれない。
周りの視線を感じた。
Kくんの持ち物だったら、自分が運びたいという女子は多かったと思う。
いいよ、と言えたのかは自信がないが、頷くぐらいはできたのだろう、舞衣がKくんの勉強道具を音楽室に運んだことは確かだった。
大事に運んだ。
丁寧に机に置いた。
授業が始まる直前、バタバタと音楽室に入ってくる集団。その中にKくんの姿があった。慌てた様子で椅子に座ると、Kくんは後ろを振り返り、舞衣を見た。小さく頭を下げる。
さらに、「ありがとう」の言葉の代わりを、Kくんの手と目が担ってくれた。
不思議だった。
いつもは完全アウェイの音楽室だったのが、その時は柔らかな心地良さを感じることができた。
周囲がなんとなくキラキラして見えた。
飾られていたベートーヴェンの肖像画さえ、いつもより優しかった。
Kくんの勉強の道具を運ぶ。
そのささやかな役目が卒業まで続いた。
ただそれだけのことだった。
毎回、Kくんは「悪いね」といった短い言葉と共に、教科書を舞衣に預けた。
そして毎回、頭を小さく下げてから、右手を少し上げて、「ありがとう」を表す仕草を欠かさなかった。
卒業が近づくころには、こちらも慣れて笑顔を向けられたかな。そうだったら良いなあと舞衣は思う。
Kくんが舞衣に頼んだことは、ちょっとしたことだ。
だが、そんなことでも、Kくんの役に立っていると思わせてくれた。
それは何かをしてもらうよりずっと嬉しいことだったんだなと今になってわかる。
クラスの中心人物だったKくんは、クラスに馴染んでいない舞衣を気遣ってくれたのだろう。舞衣に頼んだ理由はそういうところにあるに違いない。
気がつくと、少しだけ学校の中に自分の居場所ができていた。
完全アウェイがホームになったというような劇的な変化ではないが、教室の片隅に力を抜いて座っていられるぐらいにはなった。
それはKくんのおかげだと舞衣は思っている。
大人になるにつれ、Kくんとの出会いは神様のキャスティングによるものではないかと舞衣は思うようになった。
特別な宗教に入っているわけではない。でも神様の存在はどんな時も信じてきた。
神様は、人の成長のために、やすやすとは手助けしないと読んだことがある。
Kくんとの関わりは傍からみると、なんて事ないものだ。運命の出会いと呼ぶような、ドラマティックな展開もない。だから、なおさら神様がキャスティングしてくれたのではないかと思うのだ。
当時の舞衣のために、神様は、たくさんある絵の具の中から綺麗な一色を選んで、その一滴だけを垂らしてくれた。
その色が、舞衣の心の片隅で溶けるように広がっていった。
神様が手を差し伸べてくれるとしたら、ちょうどこのくらいだと思えるのだ。
卒業した後、Kくんとは会っていない。
一度、同窓会の知らせをもらったが、足が向かなかった。
その折だったか、Kくんは結婚されて、お子さんがいると聞いた。
良き夫、良き父になられていることだろう。
あの頃と変わらず、家族や周りを優しいエネルギーで包みこんでいるに違いない。
おそらくこの先もKくんに会うことはない。
いつも頭を下げてくれたのは、Kくんの方だった。
ありがとうの仕草をしてくれたのも、Kくんの方だ。
お礼を言うことも、お返しすることも、舞衣には何一つできなかった。
あの時、Kくんが灯してくれた光は何とも言えない綺麗な色をしていた。
それは舞衣にしか見ることのできない色だ。
その色はずっと褪せることがない。
その変わらない光が、今もまだ舞衣の心の隅を照らしてくれている。