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エスくん



台風が去ったあと、突然秋になった。
秋になった途端、エスくんのことを思い出した。

「エスくん」とは、匿名の「Sくん」ではなく、本当の名前そのものが、「エスくん」である。私が中学生の時に10ヶ月ほど住んでいた家のお隣に住む犬の名前だ。

当時、私は中学1年生。短期間に2度の転居を経て移り住んだ借家は、お隣と引っ付いている2階建ての建物だった。

失礼な話だが、エスくんの飼い主さまのことは、ほとんど覚えていない。
顔も名字も家族構成も思い出せないのだが、なんとなく中年のご夫婦だけで住んでいらしたように思う。

エスくんは、お腹の方に白毛が混じった、淡い茶色の中型の雑種犬だ。
幼犬ではなかったが、澄んだ瞳は、常に光りを放っていたし、見た目より柔らかな毛は、艶もとても良かったから、おそらく年齢は2、3才くらいだったのだろう。
気質はとても穏やかで、人に吠えたところを一度も見たことがない。撫でられることにも慣れていて、ご近所の老若男女によく囲まれていた。

疑いを知らない瞳。
まっすぐに見つめられて以来、私はすっかりエスくんに魅了されてしまった。


学校から帰ってくると、1週間に2、3日の確率で、家の前にエスくんがいた。
いつものことながら飼い主さまは、そばにはいない。
今ならレッドカードが出されるが、エスくんはノーリードで放し飼い状態だった。

エスくん!

目が合った途端、エスくんは勢いよく、しっぽを振る。飛び跳ねながら私に近づくと、撫でてとばかりにからだを寄せてくる。

可愛いなあ。
自然と顔が緩んでしまう。
そう。たとえその日がどんな日であったとしても。

私は転入生で、学校にも地域にも慣れていなかった。おとなしくしていても何かと目立ってしまい、毎日緊張することばかりだった。

当時、父は職で苦労していた。
職がなかなか決まらなかったのだろう、数ヶ月家にいることもあった。
母は私が幼い頃から体調が悪く、私は常に母の具合を気にしていた。

私は誰にも自分の悩みを話せなかった。
それでも、以前通っていた学校には仲の良い友人が数人はいたし、楽しいと思える時間が確かにあった。
だが、この引っ越しをきっかけに、自分の居場所はもうどこにもないように感じていた。
せめて、前の学校の友人に会いたいと毎日願ってはいたが、その願いは熱のあるものではなく、冷え切ったものだった。寂しいとか悲しいとか、思ったところで何一つ好転はしない。感情を失くしたかのように、日々を過ごしていたように思う。

ただ、エスくんに触れているときだけは、違っていた。
胸の奥の方にある少しだけ柔らかい部分が、静かに、本当に静かに温まってくるのだ。
その温まっていく感覚は、逆にその部分がどれだけ冷え切っているのかを否応なしに教えてくれる。
温かくて、冷たい。その不思議さを、そのころの私ははっきり感じ取っていた。


その日もいつものように家の前でエスくんの歓迎を受けた。
しゃがみ込んで、エスくんの頭、背中、胸へと、順に撫でていく。
エスくんの満足げな表情。
撫でる手を止めると、もっと、もっとのアピールだろう、私の手に黒く光る冷たい鼻を押しつける。

可愛い。エスくんはいつも可愛すぎるのだ。

それでも学生カバンの重さと、母の様子が気になり出して、ようやく立ち上がる。家の中に入ろうとドアを開けた。

あ、エスくん!

いつもは行儀良く見送ってくれるのに、その日のエスくんは違った。
するりと先に玄関の中に入ってしまったのだ。
そして冷たいタイルの上でお座りの姿勢をとり、ニヤリと笑ったかのような表情を見せた。

母に怒られるのではないかと思ったが、意外にも大丈夫だったのだろう、その日から毎回エスくんは玄関に入り込むようになった。

2階に私の部屋があったので、玄関にエスくんを残し、急ぎ階段を上がり、カバンを置く。慌てて制服から普段の洋服に着替える。そして、バタバタと階段を降り、玄関に戻る。

嬉しそうなエスくんの顔。
まずはブラッシング。
右手にエスくん専用のブラシ。
引っ張らないように、丁寧に優しく。
左手は撫で放題だ。
こそっとオヤツをあげたりした。


それから1か月は経っただろうか、ある日、エスくんは、また違う行動をとった。
一緒に玄関に入ったあと、2階に上がる私を追って、狭い階段をとても器用に上がってきてしまったのだ。

エスくん!

今度も驚いて声を出したと思う。

でも本当のところは少し期待していた。
「2階においで」と誘わないまでも、エスくんを自分の部屋に招きたいと思っていたのだ。
我が家のワンコのように、いや、私だけのワンコのようにエスくんを扱ってみたかった。
そんな私の気持ちがエスくんに届いたのかもしれない。

その日以来、エスくんは躊躇することなく、2階に上がってくるようになった。
けれども私の部屋までは入ろうとしない。
エスくんは、階段を上ってすぐの細い廊下を自分の居場所に決めたようで、この場所で私はエスくんのことをさらに知ることとなる。

お気に入りは私の上着のポケット。
鼻を突っ込むのが好きで、そのまま眠ってしまうこともあった。

ボール遊びの途中から、急に私の手を甘噛みすることに夢中になる。その時ばかりはまるで幼犬のようだった。

救急車のサイレンを聞くと、野生に戻ったかのように遠吠えをする。
その声は、異国のどこかの民族の歌を初めて聞いた時のような高揚感を感じさせてくれた。

エスくんとの時間は、かけがえのないものだった。見えない誰かからの贈り物だったのかもしれない。今になって強くそう思う。


やがて学校の近くでもエスくんの姿を見かけるようになった。

家からは5分ほど離れている場所なのだが、小さな川にかかる橋があり、その上にエスくんはたびたび現れた。

そこでのエスくんは、学校から帰ってくる生徒たちに囲まれているのだが、私の姿を見つけるやいなや、一目散に駆け寄ってきてくれた。
そして一緒に帰ろうと誘うようなしぐさを見せる。
まるで優しい家人が、帰り道に待っていてくれたような、そんな感じだった。

一方、エスくんと遊んでいた子たちは、急に置き去りにされ、不満そうにこちらを見ている。
私は自慢したい気持ちを抑えてはいたものの、顔は緩んでしまっていたと思う。
そして、その瞬間も胸の奥の深い部分がだんだんと暖かくなるのだった。


確かに私とエスくんは特別な間柄だったのだろう。
それでも結局、エスくんの居場所は、2階の狭い廊下から変わることはなかった。
部屋に入っていいよと声をかけても、廊下と私の部屋に見えない壁があるかのように、エスくんが私の部屋に入ってくることは一度もなかった。
エスくんの滞在時間はいつも1時間ほど。
門限があるのかと思うくらい、急に〝お帰りモード〟のスイッチが入り、振り返ることもなく自分の家へと帰っていく。
そんなところにエスくんの〝飼い主さま〟への忠義みたいなものが見えてくる。

当たり前だが、私と〝飼い主さま〟には大きな格差があった。
私はエスくんを可愛がってはいたが、責任を負わない、言わばいいとこ取りの可愛がりようだった。
病気のエスくんを看病することもなければ、老いていくエスくんを見ることもなかった。
そして一年も経たないうちに、私はまた別の場所に転居した。
それ以来、エスくんに会うことはなかった。

初恋の相手がキラキラとした印象のまま変わらず心に残っているのと変わらず、私の記憶の中には艶々とした若いエスくんの姿しかない。
さわやかで、賢くて、ふざけるところはあるが、律儀で真面目で、非の打ち所がない、そんな姿のままだ。

かなり大人になってから、私はようやく自分のワンコと言える存在を得ることとなった。
ずっと熱望してきたわけだが、それはワンコとの時間が素晴らしいものになるだろうと想像できたからだ。
それはつまり、エスくんのおかげなのだ。


長い間思い出さずにいてごめんね。
一度もきちんとお礼を言ってなかったね。
エスくん、出会ってくれてありがとう。
誰かが出会わせてくれたのなら、その存在にもありがとうと伝えたい。

エスくんは惚れ惚れする最高のワンコだったよ。


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