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#2 お前って無表情だよなあ。お前見てると親に愛されなかったんだなと思うわ

フジイさんのエッセイ連載「どう生きたいかなんて考えたことがなかった」(全8回)。フジイさんは子ども時代に母から虐待を受け、一方ではアルコールに溺れる母をケアするヤングケアラーでもありました。母とは共依存の関係になり、いつも顔色を窺うように。「私がどう生きたいか」を考えられなかった、と振り返ります。

第2回は、子ども時代に受けていた虐待についてです。「女の子らしさ」を押し付けられ、やりたかったサッカーをやらせてもらえなかった体験を第1回で記したフジイさん。従わざるを得なかった背景には、虐待がありました。

※本作品には、一部虐待描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。


「お前って無表情だよなあ。お前見てると親に愛されなかったんだなと思うわ」

新卒で勤めた会社の上司が、憐憫を含んだような薄い笑みを浮かべながら私に言った。忘年会での出来事だ。

笑って適当に受け流すことも、「なんでそんなこと言うんですか」と反論することもできなかった。不躾な言葉を浴びせられたことに対する腹立たしさよりも、「普通」じゃないと思われたことへのショックで、胃のあたりがヒンヤリと冷たくなった。

酒に飲まれ、自分を制御できなくなる母

幼い頃、ポテトサラダが大嫌いだった。

だが、父と母と兄の好物だったポテトサラダはよく食卓に並んでいたし、その日も大皿にこんもりと盛り付けられていた。

取り分けられたポテトサラダにいつまでも箸をつけない私を見て、母は「食べ終わるまで席を立つな」と吐き捨てた。

自分の食器だけを片した母は、まだ幼稚園生だった私を残し、2階の部屋に行ってしまった。父と兄に縋るように目を向けたが、2人はバツが悪そうに母について行った。

「置いていかないで」と泣きながら階段をのぼってドアノブに手をかける。開かない、鍵をかけられた。

広くて薄暗いリビングに降りると、急に心細くなった。涙を流しながらポテトサラダをかき込んだけど、嗚咽とともに皿に戻した。

リビングに取り残されて何十分たっただろうか。どうしても食べられない。

早く家族のもとへ行きたいがあまり、私は台所の排水溝にポテトサラダを捨てた。見つかったらどうしよう、なんて考える余裕もなく、泣きながら2階への階段をのぼった。

扉をノックすると「よく頑張ったね」と出てきた母が、私を抱きしめた。私はわんわん泣きながら母にしがみついたが、その温かさはすぐに終わってしまった。

母が台所へ降り、捨てられたポテトサラダを見つけたのだ。「こっちへ来い!」と大声で怒鳴りながら、私を睨みつける。髪の毛をつかみ、ひきずりまわされた。うずくまって頭を庇う私のお腹を蹴り上げ、背中を踏みつけた。

母が「お前は犯罪者だ」といって警察に電話するふりを始めた。冗談を言っているのかと、涙でびしょびしょの顔でにやにや必死に笑うと、「何笑ってるんだ」と余計に激昂した。

どれだけ大きな声で泣いても、父と兄は助けにはこなかった。殴られたまま、そこからどうなったのか記憶がない。

母は酒に酔ってないときは無気力なことが多かったが、酒に酔うと感情と物理的な力をコントロールできなくなる。自分の気分が落ち着くまで相手を罵り、暴れるのが常だった。怒りのスイッチはいつ入るかわからない。

そんな母が恐ろしくて仕方なかったけど、母を嫌いにはなれなかった。どんなにひどいことをされても、子どもは親を嫌いになれない。手垢のついた言葉だけれど、これは本当なのである。

機嫌の良いときに見せる母の優しさに希望を持っては裏切られた。限定的で身勝手な優しさに私と兄は縛られ続け、母を長年見捨てることができずに苦しんだのだった。

子どもと恒常的な信頼関係を築けないのは母の人間性なのだと、ようやく理解して距離を置けたのは、28歳のときだった。

男らしく「しつけ」された兄

兄は大人になってから、「今までごめんね」と何度も私に謝った。いまだに顔を合わせれば緊張するものの、私は兄を恨んでない。殴られている兄のことを助けず、見て見ぬふりしたことは私もあったし、私以上に厳しく「しつけ」されてたことを知っているから。

母は「男の子だから厳しく育てないといけない」とよく言っていた。兄は、ちょっとしたことですぐ殴られ、泣けば口をガムテープでふさがれ、布団でぐるぐる巻きにされ、押し入れに閉じ込められた。

ひらがなの「ひ」が書けないからと、包丁を持った母に追いかけ回された。

こんなことが日常茶飯事だった。こんな環境で、子どもはどう育つだろうか。

ストレスを溜め込んだ兄は、あまり笑わなくなった。笑うと弓の形になって可愛らしかった兄の目は、いつもつり上がっていた。兄は学校で頻繁にトラブルを起こすようになり、家では私に暴力を振るうようになった。

私は、母と兄からいつ殴られるかわからない環境で、顔色を窺いながら毎日を過ごさなければいけなくなった。

夜22時過ぎにやっとご飯が並ぶ食卓では、茶碗の持ち方が悪かったり、おかずをこぼしたりすると容赦なく手が飛んでくる。箸を口に運ぶたびに、右隣に座る母の顔色を盗み見た。「人の顔色ばっかり見るな!うっとうしい!」と頭を殴られて気付いた無意識の癖だった。

私はいまだに、自分の発言が相手の気分を害すのではないかと思ったことを口に出せない。相手を怒らせないよう下手に出てしまう。社会に出て年上の人と接する機会が増えると、この性質が如実にあらわれた。必要以上に空気を読みすぎるせいで精神的に疲弊するし、情けない自分に辟易する。それでもこれらの性質は、そう簡単に体から抜けないのである。

「無表情」だと言われるようになったわけ


不機嫌なことが多かった母だが、24時間365日怒っていたわけではない。少ないけれど、機嫌が良かったり、楽しそうに笑ったりしているときもあったのだ。

小学生のとき、4人でテレビを囲んで、笑いながらバラエティ番組を見ていたときのこと。母と一緒に笑っている、たったそれだけのことが非日常で、私たち家族にとって特別なことだった。

この時間がずっと続けばいいのに、と心から願ったあの気持ちを今でも覚えている。もっと盛り上げようと、私は遊園地にいるかのようにはしゃぎ、大きな声で、お腹を抱えた大袈裟なジェスチャーで笑ってみせた。小学校低学年の子どもが考える「盛り上げ方」なんて、大袈裟に笑うくらいしか術がない。

それを見た母が言った。

馬鹿みたいな笑い方するな!みっともない!大きな口を開けて笑うな!

ビクッとして体が固まった。怒られたことよりも、母の笑顔が消えてしまったことがつらかった。それからしばらく、口を開けて笑えなくなった。小学校の遠足などで撮られた写真を見返すとどれも、私は口を閉じてカメラを見つめている。

こんなことが多々あったため、私は母の機嫌を損ねないよう感情を抑圧せざるを得なかった。

「無表情」「全然笑わない」「何を考えてるのかわからない」「やる気がない」。大人になってからも言われ続けていた言葉だ。

友人や職場の同僚、上司から「やる気あんの?」などといじられることも多々あった。「ありますよ〜」なんてヘラヘラ笑ってやり過ごしていたけれど、内心は「なんでそう見えてしまうんだろう。人間性に欠陥があるのかもしれない」と生きづらさを感じていた。

だが数年前、ネットで機能不全家族に関する記事を読んで腑に落ちた。その記事では「機能不全家族のもとで育った人」の特徴の一つとして、「感情を表に出すのが苦手」であることを挙げていたのだ。そのとき初めて生きづらさの根底には家庭環境が影響しているのかもしれないと気づき、自分の抑圧された感情を認識できたのだった。

「普通」への執着を手放す

これまで、こんな家庭で育ったことを悟られまいとして生きてきた。周りから「普通」だと思われたかったのだ。

臨床心理士の信田さよ子氏は、『現代思想』(2022年11月号)への奇稿「ヤングケアラーとアダルトチルドレン」で、次のように記している。

親がアルコール依存症であった(ある)人(成人)たちにはそれくらい独特の共通点があったということだ。その人たちは反社会的でもなく何か問題行動を起こすわけでもない。むしろ模範的な人生を送っているにもかかわらず、どこか名状しがたい生きづらさを抱えていることが伝わってくる......。

私にも当てはまるかもしれない、と思いながらページをめくった。私は普段の言動も行動も、たとえば進学や就職も、意識的に普通だと思われるような選択をしてきた。「ちゃんとしている」ことを証明するための選択を。

「親に愛されなかったんだな」と上司に言われたとき、いくら「普通の家庭で育った」風を演じても、意図せぬ表情や振る舞いから普通ではないことが滲み出てしまうんだと、ひどく落ち込んだ。

さして大切ではない人の受け止めなくてもよい言葉を真正面から受け止めてしまうほどに、私は周囲の評価を軸に生きていたのだ。「さぞ生きづらかっただろう」と今なら思う。

「普通」への執着を少しずつ手放せるようになってきた今、その上司には「20も年の離れた若者にそんなことが言えるあんたの方が心配だよ」と声を大にして言ってやりたい。


フジイ
フリーライター。30歳を過ぎて脱サラ、文章を書き始めました。
Twitter: @fuji19900211

編集:遠藤光太

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