見出し画像

そぎ落とすほどに、際立つ美

執筆:ラボラトリオ研究員 小池沙輝

友人にとても素敵な花をいける華道家がいます。

そんな彼女が昔、

「いけばなの一番の楽しみは、引いていく作業をしている時」

と言っていて、

その時のことがとても印象に残っています。

数多ある花のなかから、四季折々を表現するにふさわしいその時の主役を選び、その花に寄り添わせるようにして、趣ある草花で一つ一つまわりに彩りを添えてゆく、まるで神業のような紡ぎ手。指先に至るまで、まっすぐと神経がゆき渡ったような美しい所作と佇まいは、それだけで多くのことを伝えてくれます。

花を選び足していく過程こそいけばなの醍醐味なのだろう、と思っていた当時の私にとって、彼女のその一言は静かな衝撃をもって迎えられました。

なぜなら、その頃の私は「足していくほどいい」と、心のどこかで思っていたからです。

だからこそ、それとはまったく逆の向き、ひととおりの花盛りの過程を終えたのち、そぎ落とすことにこそ喜びを感じ、その先に立ち現れてくるものに美の本質を見出し、花の宇宙を目の前にあらわしてくれる彼女の言葉には、とても説得力がありました。

だからそのたった一言のなかにも、生きていく上での大切な何かが詰まっている気がして、そのことを何一つ有してもいなければ体現してもいないと直感した私は、なんだかとても恥ずかしい気持ちになって、咄嗟に身を隠したくなってしまったのでした。

私がなぜこんなことを書いているかというと、

あれから何年も経った今も、足し算のくせが、未だ抜けていないからです。

「一事が万事」といいますが、それはとりわけ文章に顕著で、一つの概念が立ち上がった瞬間に、それに付随する言葉がどんどん集まってきて、そこからまた新たな展開が始まります。

ほうっておくと言葉はひとりでに連鎖反応を起こして際限なく広がっていくので、気づけば文章が長くなってしまった、ということは日常茶飯事です。

そんな私がここ最近魅せられているのは、古典文学のなかに見られる短文の形式や、古式ゆかしき言葉の数々。

なかでも平安中期に活躍した女流作家の清少納言は、歴史上の人物としてもっとも憧れる女性の一人。『枕草子』を読むたびに、どこまでも研ぎ澄まされた感性と名文の数々に、ハッとさせられます。

『枕草子』の冒頭は、有名な一文、

春はあけぼの。やうやう白くなり行く山ぎは、すこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。

(春は明け方がよい。だんだん空が白んできて、山際が少し明るくなり、紫を帯びた雲が細くたなびいているのは趣がある)

から始まります。

その後さらに、

「夏は夜」、「秋は夕暮れ」、「冬はつとめて」と続きますが、
私は、この清少納言のきらりと光る感性に、深く心を揺さぶられるのです。

なぜなら、四季折々の風景がありありと浮かぶような情景描写を、こんなにも短い言葉で的確に言い当て、さらに洗練された表現へと昇華させているから。

加えて、こんなにもはっきりと、ある種“言い切る”ようなかたちで季節の妙と自然の移ろいゆくさまを詠んでいるのに、押し付けがましさのようなものはなく、むしろ一切無駄のないすっきりとした文章特有の清々しさやある種の爽やかさを伴って、才気煥発な知性が一瞬にして浮かび上がってくるーー。そのことに驚嘆してしまうのです。

源氏物語絵帖

まさに「文は人なり」。

短い言葉のなかにも、清少納言の繊細な感性や鋭い観察力と知性のすべてが凝縮されているように思われます。

しかし『枕草子』の魅力には、さらにその奥がある。

そのように私は感じます。

では、その奥とは何かというと、

声を出して詠んでみてこそわかる、音の美しさです。

「春はあけぼの〜」と歌を詠み進めてゆくほどに、一音一音がたしかな生命をもって立ち上がり、はじまりの一音はまた次の音を連れだって、目の前に美しい情景が映し出されてゆくような陶酔感へと導かれていきます。

そう。それはおそらく、平安の頃に清少納言その人が目にし、心を震わせ、言葉や音へと託せずにはいられなかった情景。

千年の時を超えても、平安の世の情景が像を結び、目の前にふと立ち現れたような。あいは記憶の彼方とつながったようなような既視感と、懐かしさを覚えるのは、きっと一瞬にして時空を超越してしまった証。

それはむろん、言霊の力に他なりません。

音と言葉は、かつて一体であった。

書き記される文章、すなわち書き言葉と話し言葉とは、相思相愛であった。

そうはっきりと、確信する瞬間でもあります。

当時は、言葉と音が一致していることはごく当たり前のことで、だからこそとても大切に、丁寧に、また、ある種の畏れ(恐れ)をもって、言葉というものを扱っていたのでしょう。

ひとたび放たれた言葉と音は、美しい風景をも現に導き出す、”言霊”なのだから。

その意味で、『枕草子』は短文ながらも、敬意をもって一音一音が選び抜かれたとでもいうような、ある種の緊張感があります。

まるで、「ひとつの音にはふさわしい、あるべき場所がある」と思わせるような。たった一音が入れ替わってしまっただけでも、美の黄金律は一瞬にして崩れて去ってしまうとでもいいたげに。

ただ私は、その緊張感さえも美しいと感じるのです。

無作為に言葉を足したり引いたりするのでは決してなく、言葉というものに心から敬意をもって丁寧に、大切に扱おうとするからこそ立ちのぼってくる余韻と、その先にある洗練の極み。

私はそのことを、前述の友人の生ける花にも感じました。

いけばな(生花)は、花を生かすという字があてられているように、表情も個性も、色も異なる一つ一つの花の特性を瞬時にとらえ、声なき声を聞き分け、その奥に潜んだ美の結晶を生かすために、時に大胆に「引く」ことさえも厭わない。そのような道でもあるのでしょう。

そぎ落とすこと。

それは時にとても勇気を必要とするものなのかもしれません。

けれども、その間に颯爽と流れ込み、またそこから立ち上ってくる趣があるからこそ心に響き、胸に迫ってくるような表現に感動し、心が洗われるような気持ちになるのでしょう。

私の短文修行はまだ始まったばかりですが、困った時は愛しの我がバイブル『枕草子』に立ち返って、たゆまずに精進していきたいと思います。

・・・・・・・・・・

【小池沙輝 プロフィール】

Paroleの編集担当。
のろまの亀で生きてた人生ですが、Paroleスタートに伴い、最近は「瞬息」で思いを言葉にできるよう、日々修行中です。短文修行は始まったばかり。


この記事は素晴らしい!面白い!と感じましたら、サポートをいただけますと幸いです。いただいたサポートはParoleの活動費に充てさせていただきます。