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広告マスク

執筆:ラボラトリオ研究員 畑野 慶


「女性の目元はフェイクニュースだよ」

鼻や口、輪郭などと比べて、目元は化粧で誤魔化しやすいというわけです。同僚の話を聞いて、蒼介はそうかもしれないと思いつつ、通勤の際に良く見掛けるマスク美人の、隠れた顔の下半分を想像しました。朝八時十分頃、市役所前の歩道を逆方向に歩いて来るのです。一目惚れではありません。いいな、と思う程度です。折り目正しい身なりで、すらっと清潔感のある人です。髪は仄かに茶色く染まっています。マスクには決まってファッションブランドのロゴです。すれ違うと、女性らしい良い香りがしました。


これは遠い未来のお話。いや、もしかすると近いのかもしれませんし、実は過ぎ去っているのかもしれませんが、使い捨ての広告マスクが流行しました。大抵は白地に企業のロゴがでかでかプリントされていて、その分値段が安いのです。まっさらな無地のものが安く手に入った頃には信じがたいことです。道行く人の大半が口元に広告を貼り付けるようになって、それは斬新なイラストや大胆に漢字一文字というものもあって、顔を合わせれば否応なく目に入ります。当初はあまり受け入れられませんでしたが、安さは正義とばかりに、じわじわ世に広まりました。付けている人が増えると恥ずかしさはありません。当たり前になると気にもなりません。ですが、QRコードを添えた広告は、スマートフォンを向けられるなどのトラブルがあって禁止になりました。あとはアダルトな広告もだめです。詳細は言うまでもありません。


蒼介がマスク美人を見掛けるようになったのは春のことで、その年の秋頃、スケルトンマスクという透ける素材のマスクが登場します。目元に例えればコンタクトレンズ・・・は言い過ぎですが、縁なしの眼鏡くらいに、付けている感がありません。広告マスクとは逆路線の、値が張る商品です。互いの表情が分かって良いと大きな話題になり、富裕層を中心に良く売れます。マスメディアも頻繁に取り上げて、発売から僅か三か月足らずでその年一番のヒット商品になります。それはフォーマル用に、広告マスクはカジュアル用にと、使い分ける人も現れます。国民総マスク時代、ならではの光景です。口元が隠れているとコミュニケーションに不安感が生じるのは、古今東西変わりません。真っ白は前時代的なマスクになりました。


翌年の春先、蒼介は前方から歩いてくるマスク美人を見てはっとします。それは月曜の朝でした。彼女は先週までのロゴ付きのマスクではありません。巻いた白いマフラーの上、まさに想像していた通りの口元です。鼻も輪郭もすっきりしています。穏やかに微笑んでいました。三つくらい年上に見えました。少し離れて行き違った後、蒼介は思わず振り返ります。あまりの美しさに、声を掛けるのは躊躇われました。フェンスを挟んだ市役所の庭では梅の花が咲いていて、どちらの香りか分からなくなりました。


その日を境に、彼女のマスクは変わりました。情緒の安定を示すように、いつも口角が少し上がっています。妖艶さはなく、気品があります。蒼介は見れば見るほど理想的に感じて、ますます声を掛けることなど出来ません。やはり淡い恋の対象というより高嶺の花です。自分の顔立ちには自信がない為、スケルトンマスクを背伸びして買うことはありません。それでも通勤時の広告の種類には身なりと合わせて気を使いました。あわよくば・・・というか、万が一に備える思いもありました。


しかし、男性から動かなければ、不戦敗は明らかです。通勤の朝、香りが手元に届くばかりです。彼にとっての春は来ないまま、若葉の季節になりました。道端の紫陽花が瑞々しい小さな蕾を付け始めていました。日はなかなか落ちません。

そんな或る日の仕事帰り、絶好のチャンスが訪れます。珍しくコンビニに立ち寄ると、ドリンクコーナーの前にあのマスク美人がいました。冷蔵のショーケースの中から青いペットボトルを取り出すところでした。蒼介は不自然に立ち尽くして、彼女と目が合いました。微笑み掛けられた気がしました。何も言わないと逆におかしく思われそうです。ついに声を掛けました。朝お見掛けする方ですよね?と。

「ああ、そうです。ここで会うのは初めてですね」

蒼介は異変に気付きました。彼女の口は動かなかったのです。戸惑いが伝わったようで、けらけらと笑われました。

「スケルトンマスクに似せてありますけど、これは私が勤めている美容形成外科の、最近作った広告マスクですね」

彼女は開けっぴろげにマスクを取りました。蒼介はぎょっとして悲鳴に似た声を上げました。あまりにも失礼な反応とはいえ、頭をひっぱたかれました。内面も理想とは異なったようです。

過激な広告にご注意を。


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【畑野 慶 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。そこでの経験が、表現することの探求に発展し、言葉の美について考えるようになる。言霊学の第一人者である七沢代表との出会いは、運命的に前述の劇団を通じてのものであり、自然と代表から教えを受けるようになる。現在、neten株式会社所属。

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