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猫背で小声 season2 | 第20話 | 紆余職職

働く人
働かない人
働きたくても働けない人
働くことに対して無な人
いろんな人がいるだろう。

ご存知の通り20年間引きこもってきたぼくだけれど、最初に「働く」という経験をしたのは、地元の郵便局の年賀状の仕分けのバイトだった。はっきりとした時期は覚えていないが、たしか成人式を迎え「社会に出てやる」と思ったその年末のバイトだったと思う。

このバイトの業務は年末から年始までで、毎日てのひらから溢れ出てしまうほどの年賀状を箱から取り、ひたすら住所の書いてある BOX に入れていくバイトだった。いつの時代から行われている作業かはわからないが、この単純作業はたぶんぼくのような性格の人がはじめてやるバイトとして定着しているのかもしれない。いにしえの時代から、この「仕分け」という業務を経て、数年後には想像できないような仕事へ就くという人もいるのではないだろうか。

つまり、とにかくこのバイトはぼくに合っていた。

黙々と年賀状を住所通りに仕分け、再度年賀状を手にして、それをまた住所 BOX へ入れていく。

「初めての体験」という疲れこそあったが、慣れてしまえば自分でも驚くほど年賀状が多くかったとしても苦ではないし、6時間勤務というのもあっという間だった。

バージンワークは意外とツイていた。

次にした仕事。

姉が習っていた地元のお囃子の先生が経営している鉄板焼き屋のバイト。この鉄板焼き屋の店主はぼくのオトンの友達でもある。ぼくが「引きこもり」ということは、おそらく知っていたような気もする。

この鉄板焼き屋は以前「駄菓子屋」だった。

ぼくが引きこもる前、まだ元気で活発な小学だった時に、元気かつ陽気に浪費をしていたのがこの場所だった。それから10年後に、店は鉄板焼き屋になり、ぼくは押しも押されもせぬ見事な引きこもりになるのだが、その引きこもりから「抜け出す」という決意を元に、かんたんな調理の補助とホールでの接客を担うことになった。

抜け出したてホヤホヤの引きこもりには少々荷が重すぎる仕事だとは思っていたけれど、やっぱりこれは荷が重かった。

まず調理補助。店で出されるお好み焼きや、もんじゃなどの材料を器に入れたり、ビールサーバーからビールをジョッキに注ぐのだが、これが難しかった。まず、器に入れる材料がなかなか覚えられない。次に、サーバーからジョッキにうまくビールを入れられない。泡が多くなる。あわあわ泡わ。
焦る。

いわゆるキャパオーバー。ビールも溢れ、お好み焼きも真っ黒に焦げ。そんな気持ちで辞めることを決意した。

潔く。キレイにお好み焼きをヒョイっとコテで返すように。

辞めると決意した日、読売ジャイアンツが3連発のホームランで優勝を決定した。その瞬間を店内のテレビで虚(うつ)ろな気持ちで眺めていたので、たしか2000年のことだったと思う。年賀状とお好み焼き。つまりこれが二十歳の時からはじまるぼくの「働きの年表」である。

これらの体験は、働くことに対し希望を持たせたが、一方でトラウマを抱えることにもなった。そうなるとなかなか前に踏み出せないのがぼくである。

そうなると次に「仕事をする」という行動を起こしたのは2年後、となる。

専門学校に通い出した頃。22歳の時である。

働くということにトラウマを持っていたが、決して気持ちをオフにしていたわけではない。その決意の表れか、生意気にもアルバイト雑誌を買っていたし、街の店頭に貼ってある「アルバイト募集」という張り紙にも目を光らせていた。

その当時のぼくにとって働くということはまだまだ「光」だし、まだ見ていない「輝き」だったのかもしれない。

そんな想い、を抱え街のこじんまりとしたスーパーにいくと、レジや品出し募集という張り紙が貼ってある。「レジは無理っしょ!」という気持ちもあったし、品出しはやりたいけれど、商品の置いた場所とか、お客さんから話を聞かれたらどうしよう、と想像してしまうぼくがいた。そうなると頭はパンパンで結局「やっぱりどっちも無理!」と決断を下してしまう。せっかくの張り紙も意味がないのである。

専門学校に通うことでせっかく社会に出だしたのに、働かないという決断は早かった。

次のバイトは焼肉屋。

専門学生ということもあって時間に余裕があったし、アルバイト情報誌にはうまい謳い文句が書かれていたので、それに引っかかってしまったのが当時のぼくだった。無論、採用されたのはいいけれど、他の優秀な学生バイトくんたちと対峙することになるわけで、彼らと比べると全く何も覚えられないのだ。鉄板焼き屋の経験から、いろいろなことが覚えられないことは予想できただろ思うかもしれないけれど予想できないのが、やっぱり当時のぼくだった。

結局ホールと調理補助、ドリンク担当はクビになり、最終的にまわされた仕事が炭の管理。黒い炭をオレンジ色になるまで厨房で焼き、それをお客さんのいるテーブルまで持っていくのがぼくの仕事となった。毎日炭火と仲良くしていたので、顔がいつしか真っ赤になり、あまり話すことのなかったオトンからも

「炭火重くないか?」
「肩凝ってないか?」

と心配をされた。オトンとは接点はなかったけど、心配してくれたことが、なんだか照れ臭かったし、働くことの先輩として心配してくれていたんだなと、少し心が熱くなった。炭火担当だけに。

炭火を運ぶようになって数日後、逃げるように焼肉屋を辞めた。

ここまできてアルバイトは1勝2敗。勝ち越すか、負け続けるのか、どうな
るか。生きていく以上「働くということ」は続くのだ。

次のバイトはコンビニ。今までのバイトがすべて地元だったので、今度逃げたら街さえ歩けねえなと学んだので、コンビニのバイトは家から自転車で20分位のところにした。

コンビニは普段 ATM でお金をおろすくらいでしか使わないということもあっていざコンビニで働くとなると、やることがいっぱいあることに気づく。
レジ打ち、品出し、配達業者へのハンコ押し、切手の販売、店内の清掃、商品を買うお客さんの年齢を予想し性別と年齢ボタンを押すこと。いろんな仕事があった。

担当する時間帯が日曜の昼という、平日と比べるとヒマな時間帯ではあったけれど、お客さんが入ってくると「ヤバイ!レジに人がたくさん並んでる!」と焦り出すぼくがいた。

「焦りだしたら焦りだす」というのがぼくで、レジ前にお客さんが並ぼうもんなら、せっかく覚えたレジもできなくなり、店内の冷蔵庫奥から品出し中の店長が出てきて交代してもらうというのがお約束となった。

レジはできる。でも人が来ると、できない。

店長に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。そうなると毎週日曜日に自宅から自転車を漕ぐことすらも億劫になる。辞めるというか「辞めてしまえ!」という自責の念と自分の声。

結局、辞めた。

数ヶ月しかいなかったけれどのちに店長から聞いた話がある。

「近藤くんは仕事もマジメに取り組み、特に店前のホウキでの掃除などはしっかりやってくれている」

これを聞いた時に「仕事はできない」けど、仕事に取り組む姿勢は評価されていたんだなと思った。けれど自分で仕事を辞める判断をしてしまったショックの方が大きかった。

当時から猫背。背中と気持ちが前屈みなのがが想像できる。

働くことに対して苦手意識というか「逃げて意識」を持つとどうにもならない。バイト先にも専門学校にも居場所がない。失敗というか苦行だらけだった。

同級生のみんなが就職内定をもらう中、ぼくは働くこと、社会に出ることが急に怖くなり、真面目に取り組んでいたはずの就活すらも止めてしまった。

こんな職歴じゃなにもできない。そんな現実がそこにはあった。

専門学校を卒業しても特にバイトなどはせず、再び引きこもり生活がはじまる。はじまったというわけではない。社会生活が終わったのである。

なにもしない毎日。たぶんテレビばかり見ていたと思う。

小学生の頃と同じく「笑っていいとも!」を見ながら、引きこもりって楽だし、仕事しなくてもいいよなあと、涼しい顔でも懸命に働くタモリさんを眺めて思っていたのかもしれない。

26歳の時、そんな「現実」を変えたいと思い、ハローワークへ通い出した。「若年者サポート」という制度を利用して、採用の専門家のもとで求人票の見方、履歴書の書き方、模擬面接などの指導を受けたりもした。

なぜか人当たりの良さはあったようで、その男性担当者と仲良くなり毎週木曜日に面談を受けることが楽しみになっていた。仲良くなると話は自然と展開するのか、ある求人票を見せてもらったことがきっかけで、実際に履歴書を送ることになった。

「近藤さん、この求人いいですよ!」

純粋で無垢だったぼくながらも、もしかしたら働いたことがあまりないぼくを盛り上げてくれているのかなと思ったけれど、あの時の彼の、目をひん剥いたまっすぐな表情を忘れられない。

「純粋無垢就活」は功を奏し、生涯初めての「正社員」として働くことになった。しかし半年で辞めることになる。

その業務内容はアパレルの商品管理という仕事で、注文表を元に倉庫から商品をピックアップし、それを発送するという業務だった。単純作業ということもあって業務的には合っていた。けれど業務を重ねるにつれて仕事の内容も少しずつハードになってゆく。

それだけではない。正社員として働くために、会社には引きこもりやのメンタルの病気の事実は明かしていなかった。いつバレるかもしれないという不安な気持ちが募って勤務中に具合が悪くなることも増えた。我慢の方法はあったと思う。でもいい我慢の方法がわからなかった。

我慢して続けていれば仕事の内容だけを評価してくれる人は出てくるかもしれなかったのに、当時のぼくにそんな未来のことはわからなかった。また逃げ出すように職を辞した。

せっかく築いた近藤政権は崩壊。あの時ハローワークでお世話になった担当者、彼に指導してもらって書いた履歴書、受けた模擬面接、温かい言葉もすべてムダになり、近藤内閣は総辞職においやられた。

今となってはおもしろおかしく書いてるけれど、そんな生優しい問題ではなかった。いい加減、未来に直結する「働く」という行為に向き合わなくてはならない。だから3ヶ月後。またハローワークへ通い出す。あの時お世話になった担当者と再度顔を合わせると、もちろん驚いた顔をしている。

これが結果だ。そしてあの驚きの表情こそが担当者の想いだ。とても失礼なことをした。ただ今度の就職先もこの担当者のおかげで早急に決まった。
新たな就職先はリサーチ会社。

もう辞めないぞ、と思いながらも「もう辞めちゃおうぜ」とささやく、ぼくには制御できないもうひとりの自分の気持ちがいつ現れてくるかが怖かった。

勤め始めると、そこは社員が数名ほどしかいない家族経営の会社だった。肌感覚だが、関係性がキュッとしていて、なんだか過ごしづらかった。結局この会社も1ヶ月で辞めることになる。チャンスはもらえど活かせぬ男。活かすより、殺すことの方が得意な男になってしまったのである。

こうなってくるとどういう就職先でどういう業務をするかというよりも、どうやったら長く仕事を続けられるかという自分の性分との戦いになってくる。

つまり自信喪失。つまり堪え性がない。果てまで来たきがする。続けて当たり前、続けなきゃダメなことを放棄してきた。これが実家暮らしの引きこもりの当たり前なのだろうか。さて、はて、どうなることやら。

家族経営のリサーチ会社を辞めてから数年が経ってしまった。その間も仕事に対して放棄ということはしたつもりはなくて、ネットで求人情報は見ていた。時々「これだ!」という職はあったが、働く自信もなく、頭の中で仕事でミスしたらどうしようとか、仕事を覚えられなかったらどうしようとか、頭だけがデッカチになり行動が起こせずにいた。これが数年続くと、働くことはできなくなるのである。

仕事ができないどころか、見つからず、生きづらく。

そのことをオカンがジイさんに話したようで、ジイさんはとても心配してくれた。ぼくがジイさんの家に遊びに行くと普段接点もないバアさんが
「まなぶ職はあるのかい。職はあるのかい」と立て続けに聞いてきた。70歳後半のバアさんの心配事を増やしてしまった。そんなバアさんの心配を、鬱陶しいと思うことなく、心配してくれているんだなと素直に感じた。恵まれた環境の中にぼくは居る。

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ある日、いつものように求人サイトを見ていると、家の最寄駅から数駅先のスポーツショップのオープンに伴う品出し作業という求人を見つけた。しかも3日で終わる単発の仕事。

何年も仕事をしていなかったが、この求人には目が開いた。
これをやらなければ何も始まらない。そう思った。

募集の報せを受けすぐにこの求人の登録をしに秋葉原まで電車に乗った。秋葉原駅から数分歩いたが、それでも働きたいという熱は冷めなかった。登録したら採用された。働くという気流がぼくに傾いている。

いざ勤務初日。家から田舎方面へと電車に乗る。目の前にはオープンを控えたスポーツショップがドスンと構えている。「社会」という筋肉を身につけた建物のように、大きく感じる建物だ。

店内に入る。だだっ広い。これがぼくの働く場所。

ここでの仕事はスポーツグッズの品番を伝え、納品された数通りあるか照合する作業。ぼくが品番を言うと、声がかなり小さく、周りから「えっ?」と言われる。ここでも長い間引きこもりだったと言うことは伝えていない。そんな闇を抱えた闇バイト初日である。

5時に初日が終わった。帰り道、仕事が終わった達成感と、ぼくにもできる仕事があるんだと安堵感でいっぱいだった。

家に着くとオカンも久しぶりの仕事を終えたぼくを心配そうに見ていた。ひとことふたことだけ思いを交わし自分の部屋に戻り部屋のテレビを点けると J-WALK のボーカルが薬物事件で逮捕されていた。

朝から働くとは、長い時間テレビを見ないということ。こんな出来事、こんな日もあるんだと。心が火照るのを感じたまま、隅から隅まで働き、無事3日間の仕事を終えた。

はっきり言って、この3日間はぼくにとって有益だった。

この経験をバネに単発の仕事の派遣会社に登録した。働けない自分から抜け出したいという気持ちで単発の仕事を週4で入れた。

その時の仕事は商品の検品や引越し、重い荷物をひたすらトラックに詰める肉体労働もあった。週に4日も仕事をするとリズムが生じ、派遣会社から正社員で仕事をしてみないか?という話もいただけた。しかし条件があまり良くない。

これも派遣生活の現状なのだ。条件も気になるが正社員で働きたい気持ちもある。そんな思いで求人サイトにも登録していた。しかし大した職歴もなく、仕事も長続きしていない30過ぎの男。どんなに時代に恵まれようともこんな男に働くことの選択肢はないのだ。

しばらくは体調がいい時は単発のバイトをできるだけ多く入れるようにして、少しずつ社会に順応することを選んだ。その数年後に、このエッセイでも書いてきたような就活のエピソードを経て、今の会社に入社という流れになる。

あれだけ「働く」ということに恐怖心を持っていたのに、今では会社で障害者雇用の人たちの将来を一緒に考える会議にも参加させてもらえる立場にもなった。

今でも仕事はつらいし、弱音を吐きながら会社へ向かっていることには変わらない。しかし気づけば、続かなかったどの職場でも、真面目に仕事はしてきたと思う。自分の真面目さに気づけず、評価を受ける前に逃げていたので、次のステージまで進めなかった。

スーパーマリオのステージ2なら難なくクリアできるかもしれなかったのに、ぼくはいつもステージ1がクリアできないからと言ってゲームをやめてきた。

今は仕事でつまずいても弱音を吐ける場所があって、そこを大切にしている。いわゆるコミュニティというやつだろうか。

ただ、そこで愚痴を吐いたとしても月曜は来てしまい、またストレスはやってきてしまうのだが、それでも仲間というか同じ悩みを持った人間を大事にしてきているつもりだ。

病気、障害、性分、いろんな壁はあるけれど、やっぱり働くということはとても苦しいのだ。自分で苦しくしているのかもしれない。

生涯を通せば、いつか喜びを感じることがあると思うけど、いまだに違和感が抜けないのが月曜日の朝だ。

また働くのかぁと。

いまだに後悔が沁みる。働くということ。
なぜもっと早く働かなかったんだろう。失敗ばっかり。

でも、なんとかやっている。
なんか、びっしりだ。

文 : 近藤 学 |  MANABU KONDO
1980年生まれ。会社員。
キャッチコピーコンペ「宣伝会議賞」2次審査通過者。
オトナシクモノシズカ だが頭の中で考えていることは雄弁である。
雄弁、多弁、早弁、こんな人になりたい。
https://twitter.com/manyabuchan00

絵 : 村田遼太郎 | RYOTARO MURATA
北海道東川町出身。 奈良県の短大を卒業後、地元北海道で本格的に制作活動を開始。これまでに様々な展示に出展。生活にそっと寄り添うような絵を描いていきたいです。
https://www.instagram.com/ryoutaromurata_one


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