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二本松訓練所、卒業🎓

ベトナム語との死闘の末、二本松訓練所を卒業した。

訓練所から見る最後の朝日

2ヶ月半の間、世間では、斉藤兵庫県知事が辞職し、石破内閣が発足し、奄美大島の外来種・マングースが根絶していた。

私はずっと悶絶しながらベトナム語を勉強していた。悶絶しながら勉強。悶勉である。ベトナム語を悶勉していた。


私の生活はいかのようであったか、振り返りを行いたい。


良き友に出会えた

齢30近くになり、ボランティアというかたちで開発途上国に派遣される私は世間一般では変わり者に分類される。が、訓練所には日本全国からそのような「変わり者」が196名集結しており、非常に心地よかった。全員、JICA海外協力隊になった動機は「国際協力がしたい」であり(たぶん)、こうして二本松訓練所に収容されているという圧倒的にハイコンテクストな状態なので瞬時に仲良くなれる。変人は意外と少なく、実直で真面目な人が多かったように思う。

飲み友にも出会えた

私には6人の飲み仲間がいた。二本松訓練所随一の酒好きな集団であった。娯楽皆無の二本松訓練所生にとって、楽しみといえばお昼に時々出される麺類か週末の飲み会くらいである。「飲み会」は訓練生同士で親睦を深めるという目的の他、語学のストレスを発散させるという重要な役割を果たしていた。平日はひたすら語学学習や集団生活によるストレスが蓄積し、金曜日にそのストレスは最高潮を迎え、勢いそのまま、岳温泉に飲みに繰り出すのである。メンバーの1人であるIとはかなり頻繁に飲んだ。協力隊らしい熱い話は0。毒にも薬にもならないどうでもいい話をただ熱っぽく話していただけだった。


話は脱線するが、訓練所から岳温泉に行くまでには、熊が出ると言われる鬱蒼とした森を抜ける必要があった。この森が怖かった。外灯もゼロ。岳温泉で晩飯にありつけるか、または、熊の晩飯になるか、毎回スリリングであり、もう2度と体験したくない。ちなみに、Iとは仮に熊に出会したらどう対応するかを入念にシミュレーションしていた。私が熊を背後から取り押さえて、Iがガラ空きになった熊の脇腹に強烈な蹴りをお見舞いし撃退するというものだった。ともに修士号を取得している私とIのインテリジェンスが光る妙案と言える。

酔って訓練所に戻ってきたら音楽室で三線を弾きまくるというルーティン


リーダーになった

訓練所の196名は12の班に分けられて生活をしていた。私は進んで立候補し班長をしていた。

正直、私は班長をするような人間ではない。どちらかというと、班長とかリーダーに素行不良等の理由で目をつけられる側の人間である。

しかし、せっかくの訓練所生活である。この機会を活用し、堕落しきった自分を脱し、自己革新を起こすべく班長になった。たとえ班でいざこざが起こっても、可及的かつ速やかに問題解決をし、班員から信頼され愛される班長になるという野望があった。


結果としては、班では特段問題は起こらなかった。班員全員、「大人」であり、問題を起こすのはもっぱら私であった。班員から「愛される」だけに特化してしまった凡夫、と自己評価している。

班のメンバー&スタッフさんと修了書を持ってパシャリ。


二本松文化祭

班長に加えて、なんか知らんが文化祭のリーダーにもなった。訓練所では「自主講座」と呼ばれる訓練生主体で開催する講座やイベントが推奨されていた。その一環で文化祭を開催する運びとなった。


文化祭のタイトルは「二本松文化祭~歌え!踊れ!彩れ世界!~」。


スタート当初は、数組の楽器が弾けるメンバーで演奏するだけのシンプルな「音楽祭」の予定だった。ぶっちゃけ趣味の三線を披露したい、三線を弾いてチヤホヤされたい、それだけだった。

しかし、ダンスができる人、大道芸ができる人、音響スタッフを仕事としていた人、パフォーマンスやステージ演出が得意な人々が集まり、最終的には、ダンスをやったことがない人でも楽器を触ったことがない人でも、誰でも希望者は出演できる会となった。二本松訓練所にいる過半数が演者として登場する非常に多様でユニークな「文化祭」となった。大掛かり、かつ内容もハイレベルで、誰もが楽しめる文化祭であったと言える。


発起人である私からすると、まるで雪山の頂上から投げた小さな雪玉がどんどん坂をころげ巨大化し、しまいには手をつけられなくなるような感覚であった。


私はリーダーというポジションではあったが、このような音楽祭や文化祭を開催した経験は皆無。舞台スタッフや音楽会を開催した経験のある人たちに死ぬほどお世話になった。振り返れば、私はもっぱら、演奏のドタキャンやスタッフ脱退など、自由すぎるオヤジ訓練生たちに振り回され続けていた。私が振り回されている間に他のスタッフ達が素晴らしい文化祭を作ってくれていた。


自分にできないことは素直に認め、できる人にお願いする。1番の学びである。


文化祭〆の合唱。感動のフィナーレ。


老後について考えた

訓練所では語学や国際協力関連の講座以外にも、二本松市内の事業者のお手伝いをする「所外活動」なるものがあった。市内の農園、スーパー、幼稚園、寺院、など様々な受け入れ先が準備されており、私は老人ホームに派遣された。

老人ホームでは、入居者の方々の散歩をお手伝いしたり、お話ししたり、ご飯やおやつの配膳を手伝ったりした。職員さんは献身的かつ親身でそれぞれの入居者さんの性格、趣味嗜好、食事の傾向などを細かく把握しており、プロフェッショナルを感じた。


衝撃だったのは、ある女性の入居者さんのこんな言葉だった。

あのね、私、すごく働いたの。嫁ぎ先が豆腐屋でね。朝は2時から仕込みをしてさ、冬は水が冷たくってさ。40年間ずっと働いたんだよ。でも、ある日、おバカちゃんになっちゃった。なんだか頭がこんがらがっちゃって、何にもわかんなくなっちゃったの。ある日息子がちょっと散歩行こうというから外に出たら、ここ(老人ホーム)に来ちゃった。家に帰りたいんだけどね。

そうか、入居者全員が老人ホームに入所するのを納得したわけではないんだな、と。納得して老人ホームに入所するのがベストなのではあるが、会話が困難な人もおり、福祉施設に預ける側の家族もそれなりに葛藤するらしい。


私の祖父母が近い将来介護が必要になったらどうするか、施設に預けるのか。そして遠い将来、私が歳をとり施設に入居することになったら、その事実を受け止めることができるのか…。考えずにはいられなかった。

こうした福祉施設は、大多数が人生後半にお世話になる(かくいう私も多分そう)。いわば、人生の最後を飾る施設である。

と考えると、福祉施設がいかに社会的に重要なのかを改めて痛感する。かつ、人材不足が叫ばれて久しい介護士や社会福祉士をはじめとするプロフェッショナルの存在の重要性も強く感じる。私も将来、介護の仕事をしてもいいかもしれないと思ってしまうくらいに、貴重な経験をさせていただいた。


ちなみにここでも三線を披露させてもらった。普段は全く身体を動かさない方が三線のリズムに合わせて覚えたてのカチャーシーを踊っており、職員さんがかなり驚いていた。音楽の力って偉大。


修了式で泣きたかった

訓練最後の夜。修了式があった。二本松にゆかりのある国会議員、二本松市長も参加する大々的なものであった。2ヶ月半にも渡る訓練生活、酸いも甘いも様々な感情が込み上げてくる。泣いている人も多かった。


かくいう私は泣かなかった。というか、泣けなかった。


事件はその日の昼のこと。私に職員さんから1本の電話があった。「修了式が終わったらスタッフルームに来なさい」。この「スタッフルームへの呼び出し」は訓練生が最も怯えるものである。呼び出しは、大抵、何かしらルール違反等のやらかしに対してであり、こっぴどく叱られるからである。最悪クビになるケースもあるらしい。


一体私が何をしたのだろうか、修了式の後で何を怒られるのであろうか、ひょっとしてクビってこともあるのだろうか、修了式の後でクビってあまりに無慈悲すぎやしないだろうか。

様々な思いが渦巻く。胸がざわつく。

修了式中も終始脳内は「スタッフルーム呼び出し」で占拠されており、呑気に「卒業おめでとう㊗️」などと言われると、殺意が芽生えた。いや、卒業できないかもしれないのだよ、私は。ただベトナム語が堪能な体毛の濃いアラサーニートが爆誕しかけているんだよ、マジで。


あと会場が寒くてずっと尿意を堪えていた。本当に漏らしかけた。


ニートになった挙句にお漏らしでもしたらもう、生きていけない。お嫁にもいけない。

結局、スタッフ呼び出しの内容は、その日の朝の「IDカードの不携行」であった(訓練生は常に首からIDカードをさげておく必要がある)。もちろんクビにはなっていない。


頼む。もう一度修了式をしてくれ、暖房をいれた状態で。次はちゃんと泣くから。


最後に

二本松訓練所は縛りが多く、「世界一自由な刑務所」と私は呼んでいた。結果としては、その縛りのおかげで生活改善ができたし、ベトナム語の学習に集中することができた。そして、(予想だにしてなかったことであるが)青春できた。長めの修学旅行とでも言おうか。まさか、齢28になり高校生ばりの青春が送れるとは思ってもみなかった。二本松訓練所さまさまである。


2年後、かつてバカした訓練生活の思い出話を肴に岳温泉でお酒を飲みたいものである。


最後に一言。ありがとう、二本松!



空っぽになった自室。訓練所は山の中にあるので、カメムシとかデカイ蛾とかご来賓が多かった。


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