【最終回】『サイスの弟子たち』ノヴァーリス著
昨年6月より約1年近くにも渡って
開催して参りましたこの本の読書会も
いよいよ今回で最後となります。
5回目の読書会にて「師」とは誰かについて
一応は読書会としての結論がでました。
また前回の【番外編】では
メンバー他、皆様それぞれにとっての
師というものに触れる貴重な機会を得ました。
この本の内容については私の読書感想文で!!
【ノヴァーリスの「サイスの弟子たち」
哲学的なあまりに哲学的なー小説】
MAGUDARA|note
それではメンバーの御紹介を
🍋リモーネさん、🌸sakuragaさん、私✞MAGUDARA(vingt-sann)の3人
それに有志代表の🐥shionさんです。(今後のやり取りは絵文字にて)
さて残す考察はコチラです。
👇
イシス神のヴェールをかかげる意味と
ヴェールの中にみたものは
ある男がなしとげた―彼はサイスの女神のヴェールをかかげた―
だが、かれはなにを見たか。彼は見たのだ―奇跡の奇跡ー○○○○を。
「この○○○○に入る言葉は何か?」
ずっと皆さまに答を求めるべく引っ張って参りました
こちらの命題ですが、すでに答えは出ているようですね。
答は『自己自身』
なのですが……(P108の補遺2の部分参照)
🍀 🍀 🍀
✞ヴァーリスがどうしてそう結論づけたのか、また皆様がそれについてどう思うのかについてお聞かせ下さい。
トップバッターは有志代表の🐥Shionさん。
🐥いよいよ「自己自身の発見」についての話に入りましたね。
探していたものは身近にあった=自分自身だ、という結論は(ソクラテスの「汝自身を知れ」みたいで)実に哲学的だと感じたのを覚えています。
それが「ヒヤシンス~」の挿話で恋人の花薔薇に変わっているのは確かに疑問。そう言えばプラトンの『饗宴』にも、かつて完全体だった人間はゼウスによって分断され、それ以来失われた半身を求めて恋をするようになった…という話が出てきました。ヒヤシンスにとっての花薔薇やノヴァーリスにとってのゾフィーが、求めていた「アニマ」で「半身」であるならば、それは正に「自己自身」ということになりますよね。納得です。
✞おっしゃるように、アニマとアニムスの問題で触れたように、一人の人間の中には男性性と女性性が対になっていて、自分の中を掘っていきもう一方の性に巡り会うことで完全な自己自身に近づくことができるのかもしれません。それだけではなく芸術家、詩人であるノヴァーリスは、半身であるゾフィーに対してアニマとしてだけではなくミューズとして崇める気持ちも強かったように思います。
(私見ですが、芸術家と言える人々(主に男性)の多くが常に女性(配偶者以外)の存在なしではいられないというか、次々に恋愛遍歴をする理由もそこにあるような気がしているんです。元々ミューズとはギリシャ神話のMuse<ムーサ>から来ていて、芸術を司る女神を指すものですし)
sakuragaさんはいかがでしょうか。
🌸実は私もずっと、ヒヤシンスがイシスのヴェールを上げた際に見たのは「花薔薇」とあるのに、最後の補遺では「自己自身」となっている点がいま一つ理解できないというかわからなかったのですが、ここに来て少しわかったように思います。
最初の頃は「花薔薇」=「自分」? ということはそこにあったのは、もしかしたら「心の鏡」だったのだろうか?そんな事を思ったりもしたんですけど。
✞なるほど、私も最初は補遺の文章から「ヴェールの向こうには実は鏡✨があって、そこに映っている人物は自己自身だった」というようなイメージを受けました。池に映った自分の姿に見とれるナルシスのように。
でもsakuragaさんの言われる「心の鏡」とは、もっと精神性に近いものだったかもしれませんね。
さてここで🍋リモーネさんが前回に挙げられた『真珠の歌』の話の結論を踏まえながら、「自己自身」という導かれたワードについて語って頂きましょう。
🍋は~い、待っておりました。
イラン型グノーシス主義の流れを汲んだこの物語は、物質世界の象徴の下界で苦しみ悩む自己と光輝く本来の自己の統合=分裂した自我の<光と闇との統合>ということになるのですが、私の結論を出す前にまず『サイスの弟子たち』の本文P105-9行目のこの部分に注目頂けますか。
「真の探究者は決して老いることはない。永遠なる衝動というのは、みな寿命の埒外にある(中略)自然によって寵児に選ばれ内的懐胎という幸運に恵まれた人間は……」
そうです。この<内的懐胎>というものが西洋的な意味で言う悟りではないかと、また先ほどの、分裂した自我の<光と闇との統合>というものもやはり悟りではないでしょうか。私はそう思います。
そしてその本質は、読書会の毎回の問い?の答○○○○であるヴェールをかかげて「自己自身」を見ることにも繋がります。
✞リモーネさん、独自の切り口による考察をありがとうございます
これを『ヒヤシンスと花薔薇のメルヒェン』に当てはめれば、ヒヤシンスにとっての花薔薇とはアニマ的な半身というだけでなく、ノヴァーリスにとってのゾフィー、つまり恋人によりインスピレーションを与えられ成長した自己ともいえるのでしょう。
真理=悟り=自己自身(高められた自己)
「さて、ヴェールの中に見たものはわかっても
果たしてイシス神のヴェールをかかげる意味は?」
※最終回の為ここから先は解説します
👇
「真理の教えに抗って」
―啓蒙主義以降のヴェールの象徴について―
神尾達之 (※こちらを参考資料とさせて頂きました)
彫刻家ベルニーニ(伊)よって17世紀半ばに造られた
「時によって露わにされる真実の像」
●この絵図では真理は女性像として表現され、ヴェールを剥がしているのは誰かはわからない。(創世記第3章-21で裸体のエヴァが神により着衣させられた)。これ以降、真理は隠蔽されるようになる。聖人たちだけが特権的に「覆い」を取り除き主と対面ができる。➡真理はめったに裸にならないのだ。
およそ百年後に百科全書第一巻の扉絵で、ヴェールを剥がすものについてが明らかされる。それは啓蒙主義の精神である「理性」と「哲学」である。またその十年ほど前にラフォンテーヌの寓話集の扉絵にも、真実の女神が、詩の女神が手にするヴェールを我が身にまとおうとする姿が描かれる。
ゲーテもこの扉絵に触発され「献詞」という詩を書いた。
「一人の男が真理の認識に伴う傲慢さを女神から叱責され己の高慢さを反省すると、女神は手にしていたこの上もなく清らかなヴェールをなびかせ、男はこの詩のヴェールを真理の女神から賜物として受け取る」
このことから真理そのものは剥き出しの形で所有してはいけない。真理にはヴェールをかけていた方が良いとゲーテは言う。
これはヴェールによって隠蔽されている限りにおいて真理性は保持されるということを表わす。
●ノヴァーリスが師と仰いでいたシラーにとっての「真理をみたいという欲望」
サイスのピラミッドには太古の不思議な銘文➡「私は現にあり、かつてあり、いつかあるであろうところのすべてであって、死すべき定めにある人間で、私のヴェールを持ち上げた者は一人もいなかった」と共に、隠された知恵を象徴する棺があった。
開けられるのは秘儀に通じた導師だけ。聖別されていない罪深い手でヴェールを捲り上げることは許されない。だが一人の青年が禁忌を破ってまでも真理をみたいという欲望に突き動かされるとき覚えるのは、道徳意識よりも自己の内面の良心に対する葛藤なのだ。そしてヴェールを捲り真理を見た彼はどうなったか?➡ヴェールを脱いだ真理の女神は光に包まれていて結果、青年は永遠に晴れやかさである光を失ってしまうのだ。
これはどういうことか。
真理(光)に対して倫理(個人の内面)が対決を挑むという形であり、また「欲望とは対象を見ることで充足されるものである」という心理とも大いに関係するように私(MAGUDARA)には思える。
●サイスの女神のヴェールに込められたノヴァーリスの思いとは。
そして私たちが今考察している『サイスの弟子たち』のあの箇所をもう一度見てほしい。
この中で注目すべきところは、「不死となるよう努めなければならない」という箇所ではないだろうか。
ここにはシラーの物語における青年の禁忌を破ることに対する内面の葛藤はみられない。不死であることは努力によってもはや乗り越えられるべきものとも、しかし現実には死は越えられないことは事実である。私はこの「努めなければならない」という箇所に、ロマン主義や啓蒙主義の括りだけに囚われないノヴァーリスの並みならぬ宗教や哲学を感じる。それはプロテスタントの敬虔な信者である父親の影響もあるだろうが、グノーシス派的な神秘主義や新プラトン主義的なものの影響も強くみる。
そして「あのヴェールを掲げようと願わぬ者は、真のサイスの弟子ではない」とは如何に?
そこにはどんなに不可能に見えようとも真理を求めずにはいられないし、その志を決して忘れてはならないというノヴァーリスの並みならぬ決意が感じられるのである。
最後にもう一度ゲーテの言葉を引用させて頂くと
真理は神的なものと同一であって、
我々は決してこれを直接認識することができない。
しかし把握が不可能でも把握したいという願いを
あきらめることができない。
(ゲーテ)
そ
し
て
真理=悟り=神的なものであるなら
悟ろうとすることは無理なのかもしれない
但し、それを求めようとする心は忘れてはいけない
真のサイスの弟子であろうとするならば
(MAGUDARA)
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