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2021年東京のゼッケン 連載第5回(最終回)

 最後尾の選手がゴールラインを通過した。選手は漕ぐ動作を止めたが、レーサーは余力でゆるゆると前に進んでいく。肩で息をした選手の背中は少しずつ遠くなっていった。

 フォトグラファー用の撮影エリアで、私は構えていたカメラを降ろした。誰もいない観客席を、改めてぐるりと見渡した。地鳴りがするような大歓声は聞こえてこない。場内の空気を波立たせるような拍手もない。
 私は撮影エリアを後にした。メディア控室のある地下へ向かうため、2階の観客席に移動して、そこからエレベーターに乗った。同乗する人は誰もいなかった。瞼を閉じると、耳元に自分の鼓動がせり上がってきた。

 ゴールラインを通過した鈴木は7着。タイムは2分56秒34。予選1組目はスローペースのレースが展開し、1着の選手でもタイムは3分台だった。それに比べると予選2組目は相当なハイペースで、出場した10選手すべてが3分を切った。鈴木はタイム順で拾われて、決勝進出を決めた。

 メディア控室へ向かう通路を歩いていると、テレビなど映像の取材を終えた選手たちの動線と、記者やカメラマンがメディア用の控室へ戻る動線が交差する地点に差し掛かった。 トラックがある方向から光が差し込み、私が歩いている通路側から見ると逆光になっている。眩しさに目を細めると、5mほど先に、レーサーに乗った選手が黒いシルエットで浮かびあがった。
すっと伸びた背筋に見覚えがあった。私は、手を頭上に高く挙げて大きく振った。鈴木がこちらに気が付いた。
 伝えたいことがあるはずだが、それが言葉で出てこない。私は、頭上に挙げた両手で大きなサインをつくった。左右の手を付けて、離し、再び付けた。
〇!〇!(丸、丸!)
私は無言のまま、2度、サインを繰り返した。その挙動は少し滑稽に見えたかもしれない。鈴木の表情が緩み、マスクの下で口を開いた。
 「・・・ギリギリでした」
 私は、静かに、一つ頷いた。
 レースの結果を手放しで喜んでいる様子はなかった。ただ、彼の声には明るい響きがあった。
 タイムで決勝進出が決まるのは、予選に出場した選手の中で計4人。鈴木のタイムは、その4人のうち4番目だった。結果から見れば、確かに「ギリギリ」の決勝進出と言える。
 しかし、決勝で競いあうのは、1500mの世界トップ10選手だ。その10人に入ることは、簡単ではないはずだ。
 

 ただ、私が鈴木に出した「〇」は、決勝進出を祝うためだけのものではなかった。決勝に進出できなかったとしても、私は鈴木に「〇」を出したに違いない。
 鈴木は、これまでに積み重ねてきたもの、準備してきたものを、このレースで出すことができた。私の目には、そう映った。
 そのことに「〇」を出したかった。
 自分が感じていることを鈴木に伝えようと思ったが、それを表す言葉が見つからなかった。
 「・・・いやぁ」
 私は閉じたままの唇をこじ開けた。自分の中にある言葉をなんとか外に出した。
 「・・・良かった」
 それ以上、言葉が出てこなかった。選手に掛けるための言葉ではなく、自分の思いがそのまま出た。
 今、終わったばかりのレースの余韻がまだ、私の中に残っている。それを噛みしめるように、私は鈴木の顔を見ながら、もう一度、ゆっくり頷いた。
鈴木の口角が少し上がった。
 「ありがとうございます」
 背筋が、まっすぐに伸びていた。
「TOKYO2020」のゼッケンは、鈴木の背にしっかり馴染んでいるように見えた。

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 2021年の東京パラリンピック。
 新型コロナウイルス感染拡大のニュースや、大会の中止や延期を求める声を見聞きして、私の気持ちは揺れ動いた。写真を撮りに行く計画を立てていたものの、競技や選手に関する情報発信に取り組むことを心のどこかで躊躇していた。
 国立競技場の写真撮影エリアに入り、大型モニターに映し出された鈴木の姿を見た。スタートラインに並び、映像のカメラに向かって手を振る鈴木を見て、気が付いた。
 鈴木は、目の前にあるレースに集中していた。自分の持っている力をすべて出し切ろうとしていた。その姿は、これまで国内外の大会で観てきた鈴木と変わらなかった。
 大会を取り巻く環境がいかなるものであっても、自分自身がどのような状態であっても、鈴木はその時、その場で、自分が為すべきことを為そうとする選手だ。コロナ禍で開催されたパラリンピックであっても、それは変わらなかった。


 私の中で、自分の思いと自分の行動の回路が繋がった。私は、パラリンピックの競技や選手について知ってほしいと思い、パラスポーツ専門のウェブサイトを作ってきた。パラリンピックの競技場で自分が捉えたもの、感じたものを、誰かと共有したいと思って情報発信してきた。そのために、今、ここで、私自身にできることを、精一杯、為せばいいのではないか。

 一眼レフのカメラを構えなおした。1500mを走っている鈴木に焦点をあわせ、何度もシャッターを切った。
 私の鼓動は速くなり、首の周りが汗ばんできた。硬くなっていた両肩がほぐれて、軽く感じた。
 私が羽織っているベストは、この大会で写真を撮る者が着用を義務づけられているものだ。このベストを着ていることで、撮影エリアに入ることを許される。胸ポケットと背中に記されている4桁の番号は、着用している者が誰かを特定するものだ。
 このベストを身に着けることができるのは、2021年夏の東京パラリンピックのフォトグラファーだけだ。これは、フォトグラファー一人一人に与えられたゼッケンと言えるだろう。
 私はようやく、このゼッケンを身に着けられた気がした。(了)

(文・写真:河原レイカ)

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