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多数者の専制?

ミルの支配構造論

19世紀のイギリスの哲学者で経済学者のジョン・スチュアート・ミル、はその著書「自由論」の中で、

「昔の為政者はしばしば暴力的でもあり得る支配者で、その支配の根拠と継承は征服や血統、世襲に由来した」

とし、支配者の権力が絶大である一方でその権威に被支配者の意思が直接かかわることはなかった、と指摘します。

やがて支配者の権力に被支配者が制限を付けるシステムが確立するようになったのだが、その具体策の一つが憲法。

それにより支配者の行動に制約を課すことが一般的になった、と。

民主主義にとっての選挙の限界

さらに時代が進むと、権力が乱用され被支配者の不利とならないよう、為政者は被支配者から委託された者、あるいはその代表者である方が良いという思想が広まり、期限付き権力の支配者を選挙で立てるシステムが一般的になった、と。

日本で言えばこれは明治維新の頃に相当しますね。
良く知られているように、この頃の選挙制度では投票権が高額納税の男性に限られていたので、今日的な感覚では民主的とはおよそ呼べない代物でした。

それでもそれよりちょっと前までの、一握りの人間が人斬り包丁を腰に下げて威圧しながら歩いていた時期に比べれば相当ましとは言えますが。

ミルは、例え選挙が制度上も運用上も民主的に行われたとしても、それで民主的な自治社会が実現し、被支配層は自由になったと言えるのかと問いかけ、そして明確に”No”と答えます。

なぜなら「多数者による専制」が横行するようになったから。
つまり、「自分たちの都合で権力を行使する民衆」と「その権力を行使される側の民衆」は、実際には同じ人々ではない、と言うのです。

現代日本に生きるミルの哲学

時代も国も違う現代日本でこの言葉をどう受け止めるかは、受け止める人の立場や思想により異なるでしょう。
 
例えば選挙と一口で言ってもその運用方法(投票権、投票方法、選挙区の区割りなど)でも全然違った結果になります。
 
でもここでミルが言わんとしていることは、そういう細かいハンドリングの部分ではありません。
 
「自分の意思が社会で行使できるのは、圧倒的多数者、もしくは『自分たちを多数者として認めさせることに成功した者たちだけ』で、彼らの意志だけが社会政治において反映される。
 
そしてその『多数者』が自分たちの意見を広めることによって残りの人々の意見を圧迫する」と。
 
 SNSが広まり始めたころ、「声の大きい人に世論が動かされる」と言われていたのを思い出します。
 
自分の意志は本当にどこまで自分の自由意思なのか、は難しいところ。

自由に考えているつもりでもそこには、今日までの半生で見聞きした情報が多分に作用しているのであり、そこには選り好みもあったでしょう。

ミルはこのような、「多数者」による個人への干渉について、「刑罰などよりもはるかに深く個々人の生活の細部に食い込んで魂までも従えさせる」と、最大限の警鐘を鳴らしています。

今でこそ「同調圧力」という言葉は市民権を得ていますが、常識や習慣、迷信、当り前にやっていた行動や当たり前と思っていた規範など、今こそ改めて問い直す時なのかもしれません。

悪意で伝達されていないそれらの背後には、偏見、嫉妬、羨望、特定の利害、優越感、傲慢、侮蔑などがあるかも知れないのです。

人為的に囲われた社会の構成員の、利己心をベースに社会倫理が形成され、法すらも「多数者」の好き嫌いや憎悪によって偏向させられる。

現代日本にあっても、ミルの指摘は一考に値すると思います。

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