聖なるズーを人外好きの観点から読む

話題になっていたからいつか読みたいと思っていた「聖なるズー」を読み終えた。
著者に倣ってちょいちょい自己開示をしつつとりあえずの感想を書こうと思う。というかこの本は自己開示なしに語りにくい。あと、一度通読しただけだから思い違いがあるかもしれないので見つけたら後に訂正する。

自分の人外に対するセクシュアリティ

私は人間以外のキャラクターに人間よりも萌えることがあり、人外の脳内恋人にガチ恋していたこともあるので、おそらく常人よりもこの本に書かれていることを理解出来ると思う。
幼稚園の頃、服を着た動物キャラクターはどのくらい人間化したところで自分が裸であることに羞恥し始めるのか?という想像をしては股を熱くしトイレに行きたくなったし、高校生の頃にプロフィールの項目に「実はひっそりと興味があること」を答える欄があり、よく分からないうちに「獣姦」と書いていた黒歴史がある。ミクシィで「ケモノ」(フィクションにおける擬人化された動物キャラクター)という概念を知れて本当に良かった。でもケモナーを自称するほどケモノに傾倒してもいないから「人外好き」である。

コミュニケーションについて

さて、「聖なるズー」では実際の動物に対して獣姦と動物性愛を違うものとしていたので、その違いは何かと読み進めると、つまりズー(動物性愛者)達は動物とは「非言語コミュニケーションから性的合意を得ている」ということだった。

ここでまず私の趣味とは外れると思った。私は「言語」に重きを置いているから喋らないケモノにはそこまで興味がない。実在の動物に対しての擬人化はその動物に対して失礼ではないかと思ったのでやらなかった。ぬいぐるみやモノに対してはしまくっていたと思うが。幼少期の自分に場面緘黙があったから、人間以外と会話したいという願望が人一倍強かったかもしれない。
ペットの性器をつついて少しどぎまぎしたことはあるが、たぶん好奇心でしかなかった。ペットに対しては、たぶん私より家族の方が家族視していたと思う。私はどこか冷めていた。

対等さについて

「聖なるズー」のゼータでは動物と人間の対等さをまず第一に考えていることが度々語られる。様々なエピソードを読むと、それは少なくともそれを語る本人にとっては真実なのだろうと思う。

一方、私は人間と動物は対等でないからこそ良いと思っている。人間は相手を下に見たいという願望を持っており、それを叶えるために動物を飼うのだという思想がある。動物を虐待してはいけない理由はあくまで「動物を好きな人間のためである」と思っているし、動物虐待のニュースを見ると可哀想ではあるが「この嗜虐心が人に向かわなくてよかった、この動物がストッパーになっていたのでは」と考える。
それはフィクションの存在である「ケモノ」に対しても思うことがあり、それが私が「ケモナー」を自称しない理由の一つでもある。ケモナーはケモノ>人間の思想を持ってる人が結構いるし…

小児性愛との違いについての疑問

動物性愛について違和感があるのは「小児性愛」とは違う、と言い切ってしまっていることだろうか。
たとえば知能が大人並みに高くて意思疎通が可能な小児が存在したならば動物と同じように性的合意を得られたりはしないか?(フィクションにしか存在し得ないからもしもの話でしかないが…)
性徴に依存するものだとしたらそれはそれで新しい差別に繋がらないか?
たとえばゼータに動物と実際に性交した経験のない人も所属しているように、実際に小児に手を出していない人物を小児性愛者として認めることは出来ないのか?……と思わなくもない。
幼児にも性欲の萌芽自体は存在する、という自身の経験からの疑問である。

多少感じた物足りなさ

ゼータから抜けた男性のズー観についてもう少し読みたかった気がする。後に再登場するのかと思いきや出てこなかった。
それから、恋人からズーをカミングアウトされた女性が、日本のアニメを見ていたから受け入れやすかったという話題があったのだが、これぞ「ケモナー」だな。人外好きとしては個人的にここをもうちょい深掘りして欲しかったな、と思う。

まとめ

どっちかというと批判的に書いてしまった気がするが(その方が文章化しやすいから…)、個人のエピソードやドイツ滞在期はとても興味深かった。ゼータの皆さん真面目だなぁと思った。著者のロードムービー的な面白さもあったと思う。(家庭料理のクヌーデルだけじゃなくて美味しいものも食べてほしい)

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