見出し画像

『戦争は女の顔をしていない』を読んで

どうも白湯です。
実はつい先日「戦争は女の顔をしていない」(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著/三浦みどり訳、2022年第14刷、岩波書店)という本を読みました。今日はその感想を書きます。

もうすでに知っている方はたくさんいると思いますが、一応本の簡単な説明をしておきます。いらない方は飛ばしてください。

この本は、第2次世界大戦時のロシアで、戦争に参戦した女性に焦点を当てた作品です。今も昔も戦争は男のモノであり、女性が戦争に参加することはありませんでした。しかし、支配階級によって縛られない社会という建前の社会主義国ロシアは女性の参戦が認められていました。それでも女性が実際に戦うことは珍しかったのです。女性兵士である一方、母親でもあり一人の女性でもあるジェンダーのしての女性の役割を完全に分離することはできない社会なのです。そのため、女性は戦時中には命を賭す兵士として、そして戦後には心身共に負傷しながらジェンダーとしての「女性」でなければならい、2つの戦争を抱えていました。

作者のアレクシエーヴィチさんは、1978年から500人を超える女性を取材し、戦争中の出来事を誰かに話したり、共有したりすることを抑圧されてきた女性の声を集め続ました。執筆後2年間、出版できずにいましたが、1984年についに発表され、その後ノーベル文学賞を得たのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この本を読んでいると正直、様々な感情の渦に飲み込まれて、息ができなくなるような気分になります。

「この本を独創的な着眼点で読みたい」や「感想文を読んでもらって頭が良いと思って欲しい」という思いもありながら初めは読んでいまいた。

でも読み進めていくと、大量の複雑な感情や考えが頭の中に流れ込んでくるのに、それを1つとして言葉で掴むことが出来なかったのです。何も言葉を紡げないもどかしさがありました。

そこでやっと、本当に自分が感じな素直な感情を読み取り、言葉にするには、承認欲求は邪魔なのだと気づきました。

そういった邪魔な考えを排除して、感情の渦の中のもっと中心を進んでいった先に会った素直な感情を見つけたんです。

それは「戦争は嫌だ」、という感情でした。

「あれだけ沢山の感情がうごめいていたのに、こんな単純だったのか...」と、自分の感受性の乏しさに虚しさを覚えます。

この本が、戦争とナショナリズム(愛国心)という景色を、ジェンダーの窓から見ることが斬新であることはもちろん分かります。しかしそれ以上に私は、著者のアレクシエーヴィチさんが取材した女性一人ひとりの「心の中」について考えざるを得ないのです。

アウシュビッツに捕らわれていた、ユダヤ人で心理学者のヴィクトール・E・フランクルが書いた「夜と霧(1946)」という作品があります。これは強制収容所内で人が非人間的になっていく様や、その中で死ぬ人間/生きる人間の違いを描いたりなど、人の心理に焦点を当てた有名な作品です。

「戦争は女の顔をしていない」は、ロシア人女性兵士の心を、
「夜と霧」では、強制収容所内のユダヤ人男性の心を、

それぞれ対照的な状況に見えて、「生きるか死ぬかの状況の人の心理」は、結局同じであることを感じます。

そしてやっぱり、この本を読んで一番思ったのは、

戦争は嫌だ、怖い」。

これは当たり前の感情、でも実際日々生きていく中でこんなことを想いながら生活している日本人は少ないと思います。

なぜなら身近に「死」が無いから。

国家安全保障、戦争の危機、自然災害という概念は空気のようなものなのです。敢えて空気を意識しなければ何も感じない。でも空気が汚染されていると知れば人々はパニックになる。安全保障や危機感とはそういうもの。

この本は、女性兵士たちが経験し、感じた戦争を、読者が鮮明に想像できるような文章で書かれています。嫌でも頭に自然に頭に入ってくる情景です。

文字で読み取る情報は、読む人の想像力に託される。だから私は流れてくるイメージを大切な人に置き換えてしまいます。そして1ページ読むたびに息を呑み、鳥肌が立ち、心が重くなり、パタンと本を閉じてしまう。実は本を読み始めて、途中で3か月くらい本棚に戻していたこともありました。その後、やっとの思いで読み切りました。

第二次世界大戦後も世界のどこかでは、今でもずっと紛争が続いて、
ロシア・ウクライナ戦争もあと2週間で1年が経とうとしていて、
中国も台湾を巡り、アメリカとの緊張関係が絶えない、
そんな今の世界。

過去は死なない(テッサ・モーリ=スズキ『過去は死なない』、2004)という考え方があります。

実際に戦争を経験した人がいなくなっても、本、映画、ドラマ、博物館など、様々な媒体を通して、その経験は私たちの心の中で生き続ける。

78年前に私たちの世界は大きな戦争を終わらしました。けれどもその悪影響は様々な形で現在の世界にも息がかかっている。

だから世代が変わったとしても、我々人類はその罪を一生背負って生きていかないといけないのです。二度と同じ悲劇を繰り返さないという十字架を背負って。なぜなら過去は死んでなどいないから。

でも戦争終結から時間が経ち、世界から戦争の記憶は日々薄れていく。それにつれて人々の戦争への危機感は薄れていく。

誰かは、「戦争なんて意識する必要がない世界が本当に幸せな世界」と言っていた気がします。それは本当にそうだと思います。でも戦争の記憶を忘れてはいけないはず。そうしないと私たちはもう一度繰り返してしまうから。

人類の戦争の過去は死んではいけない。

そうでなければ何のために戦争の博物館は存在し、終戦記念日にはニュースや特番が流れるのでしょう。

一体何のために、著者のアレクシエーヴィチさんは500人ものロシア人女性兵士を取材したのでしょう。

後世に戦争の悲劇を残すため以外に何でもないはずです。

同じ人間なのに、互いに互いを人間以下だと思い込み、相手国を破壊し、燃やし、一人の女性を何十人もの男で蹂躙し、子供を母親の前で一人ずつゲームの様に頭を撃っていき、生き延びるために牛糞を食い、戦後も人の死が当たり前の感覚が抜けない。

そんな悲劇を鮮明に頭の中に思い描き、人の経験の一部とできるのはもはや本だけだけかもしれない。

にもかかわらずまた世界は同じ悲劇を繰り返そうとしている。

そう感じる私の心の中は、憤った火で溢れています。

だから私はこの心の火を、文字にしてnoteへ静かに、そして永遠に燃やしていきたいと思います。

この文章を読んでくれる私の知らない誰かにも、この消えない静かな火を、共に燃やしてくれる人がいることを祈ります。















この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?