デモする高齢者と無関心若者
数か月前に、バスの中から見た光景。
60人近くのお年寄りの方たちが、列を作ってデモ行進をしている光景を見た。各々旗を持ったり、拡声器を持ちながら、警察官に誘導されながらゆっくり歩いている。
「デモ」と言って思い浮かぶのは、2014年の台湾の「ひまわり学生運動」と、香港の「雨傘運動」だろうか。
どちらのデモも、「主権」について一貫したデモだった。
しかし、バスの窓から見えるデモには違和感があった。
なぜなら彼らの持っている旗には、
「核兵器反対!」とか
「保育園を増やせ!」とか
「消費税増税反対!」とか
メッセージに一貫性がなかった。
とにかく色んな不安をまとめて、煮詰めたような、そんなデモだった。
その光景を見て、「なんかやってるなぁ」と少し冷めて見る私。
私にはデモをしたりする理由が分からない。
だったけど、最近その理由が、本当になんとなくだけど、わかった気がした。
そのきっかけは、たまにの周期で来る、「自分って本当に世間知らずだな~」って思う瞬間の時だった。
まずは一週間前にしたアパートの引っ越し。
引っ越しの作業はかなり面倒くさいことが多い。
荷物をまとめるのはもちろん。
でも、その前の手続きに、全くの意味の分からない契約書が多すぎる。
ひたすら名前と生年月日を書き、
ポンポンポンポンとハンコを押していく作業。
「何かあった時に必要な書類」とは分かっていながらも、「こんな書類いちいち覚えてらんないよ」と吐き捨てたくなる。
選挙の時も、選挙に行くべきっていう意識はあるけど、「この人は良くて、この人はだめ」とかよく分からない。
マイナンバーカードも、何のために必要かは分からない。
でもマイナポイントが2万円入るから発行したり。
最近は「インボイス制度」とかもよくニュースで聞く。
何かはよくわかっていないけど、自分には多分関係無いと思って分からないままにしたり。
「よく分からない事がある」タイミングが一回だけだと、すぐ忘れてしまう。
でもそんな感覚が、同じタイミングでいくつも現れる時がある。
これを読んでくれている人の中にはいるだろうか。
例えば、不幸なことが続くと、なんだか自分は今そういうターンになんだか陥っているという感覚。
さらには、何かが裏で自分をそうさせているんじゃないかなって疑ってみたりする感覚。
私は、「よく分からない事」が同時にいくつか発生して、それが政府に関係していることだったりすると、まるで政府が何か背景で別の目的があるように一瞬思ったりする。
そういう妄想を、風船のように膨らまして、表に出てしまったもの。
それがきっと陰謀論と呼ばれるものになったりするのだろうか。
政治が関係している、世の中に溢れるネガティブなニュース。
そういうのが同時多発すると、きっと頭で整理ができなくなる。
それらが一つの大きな黒いモヤモヤになって、到底自分の力では何もできないような感覚に侵されてしまいそうになる。
そうするともう藁にもすがる思いで、頭の中で叫びたくなる。
「どうしていいか分からない」
「この不安をどうしていいのか分からない」
「誰かに自分と同じ不安な人がいてほしい」
「とにかく頭のいい人に助けてほしい」
そんな感覚になったから、あのお年寄りたちは拡声器と旗を持ってデモをしようと思ったのかな。
もちろんこれだけが理由じゃない事は分かっている。
一人ひとり違う事情があってデモに参加したこと。
もしかしたら、自分の孫が保育園に入れな方のかもしれないし、
家族に核の被爆者がいるかもしれない、
消費税が上がると生活できない状況の人なのかもしれない。
でも仮に、そういう状況じゃない人たちがデモ行進していたのなら、どういう感情で参加しようと思うのだろう。
これが、ちょっと前に見たデモから感じたこと。
「こんなデモがあったんだよ」って事を友達に言ってみた。
デモをする高齢者の方に対する感情は良いものじゃなかった。きっと自分と同年代の若い人は、大抵同じ反応をすると思う。
私も、日常の出来事がきっかけで、彼らがデモ行進する感情を理解出来そうになったけど、だからと言って自分が同じことをするとは思えない。
しかし、彼らはデモという手段を取って社会に立ち向かって行動していたのは事実だ。
だとしたら、デモ行進するあのお年寄り達の方が、それを冷めた目で見る私たちよりよっぽどすごいと思ってしまう。
私たちには、社会全体に立ち向かうほどの気力が無いからだ。
いつから私たち若者は、こんなにも世の中にことに無関心になってしまったのだろうか。
私が思う理由の1つに、「日本人の若者の自己認識の低さ」が社会への無関心に繋がっているのではないだろうか。
「日本人は自己肯定感が低い」というのはよく聞く話。13歳から29歳の若者の意識調査で、自己肯定感、意欲、社会形成・社会参加、将来のイメージが諸外国と比べてかなり低い事が分かっている。
それに対して、社会規範への意識は非常に高い。
そして、日本人の若者がこうなってしまった理由としてよく挙げられるもの。
それが学校・家庭教育による『いい子症候群』だ。
いい子症候群は、教育評論家の尾木直樹さんが広めた言葉。
学校や家庭内で「いい子」でいるために、周りを優先し、自分の意思で行動することが苦手になってしまう。
その結果、過度に周りに合わせた行動や言動をするようになってしまうというもの。
特徴としては、
親を基準に行動したり、
人の顔色を伺ったり、
自分より周りに合わせたり、
感情表現が苦手だったり、
助けを求められなかったり、
反抗期がなかったり、
自己肯定感が低かったり、という例が挙げられる。
自分の主張を前に出せない人たちが増える中、自分の主張を大声で、街中で叫ぶデモを自分からしようとする人たちがいないのはある意味当然じゃないだろうか。
そもそも街中で大きな声を出したり、道路交通を妨害したりといった行為自体を、したくないと思う人も多いだろう。
結局、「自己認識の低さ」が全ての若い人たちの無関心の原因なのであろう。
そもそも「社会規範を過剰に守る」という行為は、「自分なんかが他人に迷惑を掛けてはいけない」という、一種の低い自己肯定だと私は思う。
SNSが些細なことで異常なほど炎上する、最近の世の中の嫌なところ。
社会規範を逸脱した人を見て、
「そんなこと許されないだろ!」という社会規範が根本にあって、
そこに、自分が表面にうまく出せない鬱憤の「吐き出し場」が成立してしまう。
社会への無関心も、SNSの炎上も、「若者の自己認識の低さ」という側面から捉えると、なんだか腑に落ちるように気がする。
しかしここからが本当に難しいところ。
長い年月をかけて落とされてきた私たちの自己認識は、どうやって今度上がっていくというのか。
恐らく自己認識が落ちていく様は、非常に構造的な部分に由来するのだろう。
日本の社会全体が、だんだんと停滞していく。
すると日本社会に余裕がなくなっていく。
そして学校や親は、子供に失敗をさせたくなくなる。
その結果、私たちは「いい子」にならざるを得なくなってしまった。
このような構造は、最近になって認知されるようになってきた。
だから、かつて「最近の若者は意欲が無い」と思われていた所から、
「そうなったのは親世代と学校教育が原因」という場所が、現在落ち着いている着地面だ。
だけど多分そこで落ちついてたら、一生私たちの自己肯定感は上がらない。
なぜなら、「親世代が原因」と告げられた私たちは、「じゃあこうなったのは仕方ないじゃん」と思って変わる努力をしなくなるから。
ある研究で、肥満の人に、
「あなたは生活習慣が原因で肥満になりました」と伝える場合と、
「あなたの肥満は遺伝が原因です」と伝える場合、
後者の方は、やせる努力をしなくなったという面白い研究がある。
私たちの自己肯定感も同じだと思う。
外部に対して無関心になってしまったのは、確かに私たちの責任じゃないかもしれない。
だけど、その現状はもはや大人たちには変えられない。
きっと大人たちももう疲れているんだ。
だから自分たちで、自分の自己肯定感を高める方法を知らないと、社会は変わっていかないんだと思う。
町の小さなデモからとんでもない話になってしまいました。
ここまで読んでくださった方、長くなったにもかかわらず、拝読して頂きどうも有難うございました。
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