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”ひとりでいるのがこわくなるような大勢の友達”を、わたしは無理矢理作らない。

角田光代さんの『対岸の彼女』を初めて読んだのは、確か高校生のときに受けた模試だった。

現代文の問題として扱うのは、小説のごく一部分。そのごく一部分にわたしはぐいと引き込まれて、何故だかこれは始めから最後まで読まなければと思った。 

本屋に着いて一目散に文庫本コーナーへ向かう。早く読みたくてうずうずしながら、家に向かって必死に自転車を漕いだような…すこし話を盛り過ぎたかもしれないが、そのくらい読むのを楽しみにしていたのは本当だ。


女同士の友情と亀裂が描かれたこの物語を、当時高校生だったわたしはどんな気持ちで読んだのだろう。人との出会いに希望を求めていたのか、それとも絶望を確信したかったのか。永遠に続く友情などあるのだろうか。

今は近くにいる友達も、学校を卒業しお互いの生活や状況が変われば、いずれきっと遠くの人になってしまう。地元を離れても、卒業しても、わたしたちの関係は何も変わらない。そんなことはあるはずがない。あるはずがないのだ、と確信めいた気持ちを持ちながら、わたしは心のどこかで何か別の答えを探していたのかもしれない。


物語の中にこんな言葉が出てくる。

ひとりでいるのがこわくなるような大勢の友達ではなく、ひとりでもこわくないと思わせてくれる何か。

仮に同級生みんなを友達と呼ぶのなら、当時のわたしは友達の輪の中にいることに毎日不安を感じていた。不安と恐怖に怯えながら、何かに違和感を感じながら、わたしという人間は誰で、一体どこに向かっているのか。わからないまま、何も答えが見つからないまま、”いつか自分はどうにかなってしまう”そんな予感を抱いていた。

たとえ戻れるとしても、高校生に戻るのはまっぴらごめんだ。そんな冴えない高校生活ではあったけれど、ありがたいことに、今でもくだらなくて真面目なやり取りができる友達がいる。

そんな友達とも、高校を卒業してお互いの新しい生活が始まったばかりの頃は、再会するたびに違和感ばかりを感じていた。「ああ、もうお互いに違う場所にいるのだなあ」、毎回のようにそんなことを突きつけられている気がした。

お互いに違う場所で、違う人達に囲まれて、違う世界を見て、そうやってそれぞれがひとりの大人になってゆく。お互いに離れてゆく人もいれば、離れてもまたすれ違う人もいる。すれ違うだけの人もいれば、そこで足を止めてお喋りができる人もいる。

かつて同じ場所で同じものを見ていた人が、今は違う場所にいるということを突きつけられるのはとても怖いことだ。ずっと一緒などありえないとわかっていても、そこが、違う場所にいるとわかった瞬間が、目の前にいるその人との最後になることもある。


『対岸の彼女』を読んで感じたのは、希望ではなく安堵だった。”ひとりでいるのがこわくなるような大勢の友達”を、無理矢理作らなくてもいいのかもしれない。近くにいる大人の言葉より、小説の一文がひどく胸に刺さった。

一昨日、無性にこの物語を読み返したくなって、バイト終わりに寄ったカフェで、久しぶりにページをめくった。昔とは違う場所で、あれからいくつか歳を重ねて、また同じ物語を読み返すのは、人と出会い別れることとどこか似ている。


ちなみに。『対岸の彼女』で角田光代さんを知ってから、新幹線に乗るときはJR東日本のサービス誌『トランヴェール』のエッセイを読むのが、わたしの密かな楽しみだった。また、新幹線に乗ってどこかへ行きたい。



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最近、ふっと心が救われるような、そんなある人との再会があった。お互いに歳を重ねて、また会って話ができたことに感謝しています。ありがとう。




最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。