いつか、ここではないどこかへ動くときが来たらちゃんと動き出せるように。

「問う」という行為を大切にしたいと思っている。他人に対してというよりかは、自分に対して。問い詰めるのではなく、もう少しやわらかな意味合いで。

自分の行動を制限されるしんどさを自覚するのは、おそらく制限されているときではなく、その制限が解除されたときだ。
人間は環境に慣れる生き物なので、はじめはつらいと感じても、徐々につらさを感じなくなる。個人差はあれど、人間には適応能力がある。

制限されていることが通常の状態で、制限される前の感覚は徐々に薄れてゆく。その人にとってそれが普通になるということ。疑問を抱かなくなるということだ。

仕事をするとか学校に行くということは、そのわかりやすい一例だと思う。決まった時間に出勤する、決まった時間にお昼休みをとる、指示された期限に合わせてタスクをこなし会議に出て、決まった時間にパソコンをシャットダウンし席を立つ。
決められた制服とカバン、毎日同じ時間に鳴るチャイム、10分の休み時間、帰りのホームルーム。誰が決めたかはわからないその既存のルールに、わたしたちは文句を言いながらも黙って従う。

エスカレーターの右側か左側をひとり分空けておくこと、病院では静かにすること、子どもが泣いたら周りに頭を下げながら泣き止ませること。仕事や学校以外にだってたくさんある。
それに従わなければ周りから白い目で見られ、咳払いされ、ルールを守れと怒鳴られる。やって当然のことだから。やらないとそこに居られないから。


「なんで」「どうして」という質問を嫌がる人は多い。考えても答えが出ないことに関しては特に、そんなこと考えてどうするのと邪険に扱う。いいからルールに従いなさい、上手に生きろと腕を引っ張る。何事も上手にやることが、周りのために、そして自分のためになるのだからと。

誰かの決めたルールに従うこと、常識に沿って行動すること。それはこの世界で生きてゆくためには欠かせないことで、誰かを守り、自分を守る。秩序が生まれ、一定の平和が保たれる。

疑問に感じても、許容範囲であれば考えない。考えるより黙って従った方が事を大きくしなくて済む。なにより、背いた後のごたごたをを考えれば絶対に従っていた方が楽だ。

これはあくまでも許容範囲内の話で、我慢できない状況になれば人は何かしら行動を起こす。意識的か無意識的に。あるいは目に見える形で心身に異変が生じるかもしれない。

何かひとつ変化が起こると、その周りに少しづつ波紋が広がって変化が連鎖する。例えばそうだ、誰かが会社を辞めれば残った人がその人の抱えていた仕事をこなさなければならなくなるみたいに。
辞めてあっさりさよならといかないところが厄介だけれど、それが誰かと生きる世界を共にしているということでもある。

今は辞められるような状態じゃないから、と我慢して居続ける人もいる。それもひとつの選択で、ひとつの正解だ。数学みたいに答えがひとつとは限らないから、人は選んだ選択を自分なりの正解にしてゆく。

わたしたちは決められたルールの中で、自分がそれなりに許容できる場所で、愚痴をこぼしながら、その都度何かを選択して生きている。耐えられなくなったら別の場所を選んで、また愚痴をこぼしながら何かを選択する。湧き出てくる「なんで」「どうして」を、なかったことにしたり考えてみたりして。

「問う」ことを大切にしたいのは、常に「なんで」「どうして」を考えるようにしたいということではない。
職場で嫌なことがあったとき、友達とうまくいかなかったとき。誰かと会話をしてるとき、映画を観て涙が出たとき、誰かのnoteを読んだとき、バスの中で赤ちゃんが泣いたとき。

ふと、もう少し突き詰めて自分自身に問うてみようと思うことがある。
きっとこの「問う」は、いま自分が背負っている荷物を、少しだけ軽くしてくれるはずだ。
必要のない荷物は降ろして、いつか、ここではないどこかへ動くときが来たらちゃんと動き出せるように、そのために問い続けたいとわたしは思う。




最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。