見出し画像

だから今夜は自分のために豚汁をつくった。

「美味しいごはん」から涙が溢れて止まらなかった。

何がそんなにわたしをそうさせるのか分からないまま、「ふたりの花泥棒」「きれいな水」と、目次の順番通りに読み進める。ページをめくっても、涙は止まらないままだった。

わたしにも食べものをうまく食べられなかった時期がある。そして環境が変わった今、またしても食べものをうまく食べられない日が続いている。だからだろうか、

自分のためにごはんをつくることができるようになれば、どんなに悲しいことがあったときでも、なんとかそれを乗り越えられる。

上間陽子著「海をあげる」p9

上間さんのこの言葉が、痛いほど胸に沁みた。

わたしは母と娘のやりとりに弱い。とりわけ母目線で描かれる何気ない日常に。母が娘の成長を願う、ただそれだけのことなのに。
料理の本をよだれまみれになりながらながめる風花ちゃん。そんな風花ちゃんを、上間さんは「食べることが好きな子でよかった」と思いながらひょいと抱き上げる。ただそれだけなのに、こんなにも毎日が尊い。

ある友人と数年ぶりに会った。彼女とは学生時代からの長い付き合いで、趣味も食べものの好みも合わないのに、当時からなぜか一緒に過ごすことが多かった。
彼女もまた幼い頃から家族の病気やそれに付随するさまざまな問題に悩みながら生きているうちの一人である。それゆえにプライドも高く、承認欲求が強い。

彼女はわたしの話のほとんどすべてを、アドバイスで返す。自分の経験してきたものを武器にして、わたしに「話を聞いてあげる」という。いつの頃からか、彼女との会話に違和感を感じるようになった。本人が聞いたら否定するかもしれないが、おそらく彼女は、わたしの考え方や社会に馴染めない姿を見て、「30にもなってこの子は大丈夫だろうか」「もっとうまいやり方があるのに」とやきもきしているはずだ。

それはつまり自信の無さの裏返しでもあるのだけれど、「言ってごらん、私はいろいろ経験しているから助言できるよ」という(ように見える)彼女のスタンスは、今のわたしにはどうも受け入れがたい。そういう自分の気持ちを騙しながら、彼女に何も言えない自分がひどく憎い。

引っ越した関係で病院を変えることになった。新しい主治医の先生は淡々としていて、診察にはあまり時間をかけないようだ。新しい場所で初めましての人と一から関係を築いていくのだから、相手のことを初見で判断してはいけないと自分に言い聞かせるようにしていた。これまでの主治医と比べてはならない、十分に話を聞いてもらえなくても仕方がない、と思うようにしていた。

わたしにはどうやら、薬の力だけではなく、定期的に話を聞いてもらえる場所が必要なようだ。金沢で10年以上生きてきて、それを学んだはずだった。それなのにいまのわたしには、話を聞いてもらうための貪欲さが足りていない。だからわたしなりに考えて、別の病院を探してみようと思っている。

話を聞いてほしい気持ちと同じくらい思っていることがある。それは、さまざまな生きづらさを抱える人達の声なき声を拾いたいということである。
痛みを抱えて生きる人の声を、そのつらさを、静かにそっと掬い上げたい。言葉にならない行き場を失った気持ちを、見ないふりし続けるのは苦しい。そしてただ、誰かにその気持ちが届くことを願う。

そんなことが自分にできるだろうか。どういう方法があるだろうか。なにかないか、なにかあるのではないか。社会に馴染めないわたしだからできる、その”なにか”を、ずっと探している。

だから今夜は自分のために豚汁をつくった。カット野菜をフル活用した簡単なものだけれど、わたしの血肉となるはずだ。美味しいごはんは、きっとわたしの生きる源になる。


最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。