愛を伝えること

世界中が一色に染まっているときって、胸のあたりがもやっとして表に出たくなくなる。

ありがとうって心の奥から生まれてくるもので、やりましょうっていわれてやるもんじゃないと思う。

感謝をしたい、そう思ったときに伝えることにした。病気になったとき、『ありがとう』は当たり前の中にも、めんどくさいの中にも、いやだなと思うものの中にもあるもの。そういう風に思った。もっと当たり前の中にあるものがいい。わたしの中では少なくとも、誰かや世界にやりなさいと言われて生まれるものじゃない。自分が誰かに感謝されるとしたら、そのひとが伝えたいと思ったときに伝えてほしい。一年中いつでも、早朝だろうが夜中だろうがいい。

わたしは大事な友達の誕生日にもプレゼントをあげたりあげなかったりする。自分がもらったからといって、毎回お返しするわけでもない。たぶん物で言ったらあげた物よりもらった物が圧倒的に多い。あげたいと思うものが見つからなかったら、誕生日だから言って無理に探したりもしない。

友達が本当に辛いときに、ちょっと笑えることできないかなと思って、幸せを運ぶエケコ人形と、お菓子をいろいろ詰めて送ったことがある。

鳥取に行ったときに、父にそっくりなワッペンを見つけて、あげよっかなと思って買ってある。旅人ワッペンなんだけど、なんかすごい似てて、思わず買ってしまった。鳥取に行ったのは半年近く前なのに、一向に渡すタイミングが来なくて、まだ家にある。タイミングが来たらあげようと思っている。

大切な方が病気で入院したとき、お見舞いに行った。毎回手ぶらで行った。一回目なんて、今行きたい!と、いきなり夜に寝間着に手ぶらで行った。でも、その方はすごく喜んでくれた。うわべじゃなくて、本当に喜んでくれているのが伝わった。次に行ったときも、やっべえ今日も手ぶらで来ちゃったって思ったけど、いつもただただ愛だけ持って行った。それでよかった。その人はこの世界からは旅立ってしまった。そのことは今でも悲しい。でも後悔はしていない。もっと話したいことも、聞きたいことも、学びたいこともあったけど、不思議と後悔はしていないのは、うわべじゃなくて、自分が持っている愛だけで関わったからだと思う。

その人はわたしの書く文章が好きだった。わたしのブログを、病室でずっと読んでいてくれた。わたしが生きていることを喜んでくれた。その思い出が心の中にあるし、見ているだろうなと思う。だから今もわたしは生きようと思うし、書こうと思うし、何かを作りたいと思う。

なんかね、そういうのがいいんだ。わたしもよくわからないけどね。正解なんてないからね。