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文章を見せる羞恥心からの逃れかた。

文章を人に見せることは、写真や動画を見せることよりも恥ずかしい気がする。それは、なぜなのだろうか?

インスタに載せる写真・聞く音楽・着てる服。そういう小さな選択のすべてにその人は現れ、文章もその一部に過ぎない。でも文章は数あるコンテンツの中でもかなり高度な解像度で表現をすることができる。本人に近すぎる。

だから人が書いた文章を読んだとき、その人のありのままがいるような気がしてしまうのだ。

そこに背伸びしたい気持ち、
カッコつけたい気持ちはちゃんと含まれているのに。
そのギャップが恥ずかしさにつながる。

めっちゃマツエクしてて、ゴリゴリにカラコン入れてて、それを自覚してるのに『あなたは自分のすっぴんを実物より随分と美しく捉えているのね』と解釈されてしまう恥ずかしさ。

そして自分の経験に、自分の感情をのせて書くとき、書き手との距離がさらに近すぎ、より生々しさを帯びる。ゴリゴリ透明な補正下着着てるのに、あなたの全裸はそんなに美しいのね(嘲笑)と。

ああ、、無理、、、。
たった1分の自己紹介すら、
自分の捉え方を見透かされたようで苦手なのに。


だから、すきなもので語る。
音楽・本・映画。それらは私たちの中に確かにある感情を最大限美しく描いてくれる。共感を覚えるコンテンツには、自分の一部が弁図のように重なり合っているのだ。

「共感します。」
その一言で、どれくらい重なっていて、どんな色・形をしているかを露呈せずとも自分の中にこんなに美しい感情が確かにあった、と他者に伝えられる。
他者の感性を借りて、自分の人生の美しさを表せる。

それでいいと思ってたけど、私は書きたい。
放置していると、重なりから漏れてしまった気持ちを知覚することすらいつかできなくなってしまうから。

だけどやっぱり、すっぴんの文章を書くことも、解釈違いをされることも嫌だ!!!!

そこで私は中間地点をとる。コンテンツの批評に乗せ、自分の感情を書く。それくらい自分から離れた場所であれば、文章をさらすことの恥ずかしさをだいぶ下げることができる。

書くことの目的は表現で、感情はあくまで手段だ。
だから誇張表現を用いてもいい。
小さな感情を最大限引き延ばしても嘘じゃない。
だってそれが目的じゃないからね、技法だから。
大丈夫大丈夫。そう言い聞かせて、カッコつけた言葉を紡ぐ。

そしてこういう文章を一度書いておくことで予防線を張っている。

私マツエクしてます!カラコンしてますよーー!!!

でも、自分の経験を自分の素直な言葉で語る人の美しさには、どんな表現技法もかなわないし、どんな共感もかなわない。そんな文章を書ける人はとても素敵な人だなぁと思う。

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