『偶然と想像』感想
自分が一つにまとまらないし、まとめたくない。
一つになる感動
いわゆる大衆から人気を集める映画には、一つになる感動がある気がする。バラバラの想いを持つ人たちが共感を通して繋がり、何か一つのものに対して一緒に直面する。そこで一緒に変化を迎える。
今流行りのミュージカルなんて特に顕著なのではないだろうか。音楽ライブは強制的に居る人を同じ仕草にさせる。同じ仕草をしながら、種類は違えど互いに熱を持てば、同じものになれた気がして心が高まる。
何故心が高まるのか。
それは、人とひとが同じものになれることなんて普段は滅多に無いからだ。
人は同じものを見ても違うことを感じている。同じことで同じように興奮していても、決して同一の存在にも感動にもなれない。そしてそれを測る術もない。
映画は元来、複製芸術である。
メッセージを訴えかけたり、自己表現したりする美術とは異なる。人生の産物としての芸術が美術ならば、人生を模倣し、鑑賞者のそれぞれの産物を引き出すのが映画なのではないかと感じた。
特にこの映画は我々に何か一つのメッセージを伝えようとしている感覚がない。作り手の個性やこだわりを見せつけるような感覚もない。
受け取り手がそれぞれメッセージを浮かべ、自己表現に辿り着くことを促すようなハプニングを単に映し出している。
我々の世界を模倣して、そこに不思議な偶然と想像を散りばめ、興味を惹く演出を仕掛ける。そこでは人とひとが同じになっていくことは無くて、違うものでありながら心と頭が動く。
投げかけられる言葉にハッとさせられたり、ゾッと引いてしまったりする。良い心の動きとも悪い心の動きとも言い切れない。けれども確実に心と頭が引き出され、動かされている。
観ていて自分語りをしたくなる。そんな感動があった。
加えて、私がしたくなった自分語りは意見文にしたら駄文になってしまうようなものだった。
多分語っている時の自分の映像を取り、ネットに上げたのなら誰かしらの癪に障るような存在になるだろう。そう思うほどちぐはぐに、まとまりなく、それぞれの場面に感情が生まれてる。
でもこれで良いのだと感じた。
これが当たり前の人間だと思った。
ちぐはぐであることが当たり前で、ちぐはぐであるから偶に分かち合えたときの感動もあって、嘘でも想像でも繋がりのない存在同士でも繋がり合えるのだから。
偶然と想像が重なれば、面白い。
ならば無条件に我々は生きていける。
それはとても心強いことだ。