【短編】イエローサブマリン(前編)

 まとわりつくような蒸し暑さと無数の蚊、うっそうとした草木が針須(はりす)ジョージを襲った。高層ビルの反射光や排ガスならまだ我慢できたジョージだが、初めて経験するそれらにはまったく耐性がなかった。ジョージは色白のか細い腕で蚊や草を懸命に払う。その度に、幼いながらも端整な彼の顔に苛立ちが滲んだ。

「はよぉ行けよ、都会っ子」

 連野純(れんの じゅん)はそう言うと、虫取り網の柄尻でジョージの腰を背後からつついた。彼は真新しい白のポロシャツを着ている。牛乳瓶の蓋のような眼鏡の奥の目はジョージを見下していた。

「もうへばっただか? これだからもやしは」

 連野のさらに後ろから真銅豊人(まあか とよひと)が言った。垂れ目のニヤケ顔がその発言とともにさらに歪んだ。泥汚れが目立つ無地のTシャツを着ている。

「あぁ、腹減ったべ……。握り飯でも持ってくればよかっただぁ」

 最後尾にいる星慎吾(ほし しんご)がぼやく。オーバーオールに支えられた、リンゴのように丸い腹を擦った。

「うるさいなぁ! いいから黙って歩けよ!」

 ジョージは首をねじり、青い目で背後にいる彼らを睨んだ。前に向き直ると同時に重いため息をつく。

「元はといえば全部父さんのせいだ……!」

 ジョージの脳裏に五日前の記憶がよみがえる。

「すまん、ジョージ! 急な仕事が入ったので今年の旅行は中止にさせてください!」

 帰宅したばかりの父親は頭の上で手を合わせ、ジョージに頭を下げた。途端、ジョージの期待という名の風船が盛大に破裂した。

 絶賛夏休み中のジョージは、翌日からの一週間、父親と二人で旅行をする予定を立てていた。その内容は、父親が運転するサイドカーでツーリングをするというものだった。

 ジョージにとってその旅行は、自分の誕生日やクリスマスの何十倍も楽しみにしているイベントだった。さらに今年は小学生最後の夏休みである。やりたいこと、見たいものをすべて盛り込んだ、夢のような一週間になるはずだった。

「父さんの馬鹿! 大嘘つき!」

「本当にゴメン!」

「僕、一か月も前から準備してたのに! しおりだって頑張って作ったのに!」

「誠に申し訳ございません!」父親は土下座した。「代わりと言ってはなんだけどさ、今年は俺のおばあちゃん家に行こう! デッカイ山とキレイな川があるいいところだぞ!」

「絶対に嫌だ! 浜松行って航空祭見る!」

「……ゴメン、それは無理なんだ」

「父さんの馬鹿ああ!」

 ジョージは勢いよく走り出し、自室に入ってドアを力任せに閉めた。そのまま勢いよくベッドに飛び込むと、「父さんの社畜野郎!」だとか「母さんに言いつけてやる!」などと悪態をついた。腹いせに、戦闘機を模したぬいぐるみを何度も何度も殴る。

 ひと通り暴れると、ジョージは徐々に冷静さを取り戻した。それに伴い、彼の中に焦りが込み上げてきた。祖母の実家にも行かなければ、夏休みの思い出が皆無になることに気づいたからだ。

 勝気な性格が災いし、ジョージはクラスで孤立していた。夏休みをともに過ごす友人はいない。それどころかクラスメイトたちに旅行のことを鼻高々に自慢していた。そのような状況で彼らに旅行をしていないことがバレたなら、間違いなく馬鹿にされる。それだけはジョージのプライドが許さなかった。

 翌朝、ジョージは父親に祖母の実家に行くことを伝えた。何度も頭を下げて礼を言う父親をあしらい、ほどなく二人は家を出た。

 父親は近所にあるショップでレンタカーを借りた。助手席に座ったジョージは、二時間くらいで着くだろうと高をくくっていた。

 父親の実家までは都心から六時間以上かかった。そこは、コンビニはない、自販機も二台しかない山村だった。都会で生まれ育ったジョージにとって、その光景は無人島に漂着したのと同等の絶望を与えた。さらに父親は自分を置いてとっとと帰ってしまった。父親への怒りは最高潮に達したが、憂さを晴らす対象はなかった。

 連野たちに絡まれたのは滞在四日目のことだ。昼前、いまだに父親への怒りがくすぶる中、村役場近くの自販機でコーラを買った。そこに連野たちが現れた。その場には真銅と星以外にも二人の少女がいた。

「なんだオメェ、初めて見る顔だな」

 ジョージは直感的に連野たちと関わらないことを心に決めた。相手は自分と同年代の子どもだったからに恐縮することはなかったが、連野の顔が嫌いなクラスメイトに似ていていけ好かなかった。ジョージはこちらを見てくる連野たちの横を、目を伏せて通り過ぎた。

「オメェ、針須さんとこの子だろ。聞いてた以上にひょろっちい都会っ子だなぁ」

 冷笑が聞こえる。ジョージの額に青筋が浮かんだが、それでも聞こえないフリをした。

「なんだ、ビビッて声も出ねぇのか? とんだ×××××だべ」

 真銅が発言した途端、ジョージは足を止めた。その言葉は自分だけではなく、現在海外に出張しているイギリス人の母親のことまで侮辱しているように思えた。

 ジョージは顔を真っ赤にして真銅に殴りかかった。意表を突かれた真銅だったが、すぐさま反撃に入った。その取っ組み合いを見て、連野は腹を抱えて野次を飛ばした。そのことがジョージの癇癪(かんしゃく)に障り、ジョージは彼にも殴りかかった。

 ほどなく星と女子二人が仲裁に入ったが、彼らの気はまるで治まらなかった。噛みつき合うような口論の末、ジョージはいつの間にか、連野たちとカブト虫取り勝負で決着をつけることになっていた。気持ち悪がって蝶にも触れないのにだ。

 その帰りに飲んだぬるいコーラは、過去最高にまずいコーラだった。

 ジョージの口から再び重いため息が漏れた。周囲の草や蚊はすでに気にならなくなっている。ぶつくさと不満をこぼしながら、早朝の森の中をさらに進んだ。

 ふとジョージは足を止めた。目の前に何かあることに気づく。

 太く高い杉と杉の間に古びた縄が張られている。しめ縄だ。それが左右の木々へと延々続いていた。そして縄の向こうは洞窟のように深く暗い森が続く。

 ジョージは思わず振り返った。そこには連野と真銅のニヤけ顔があった。

「ジョージぃ、ここにいる間は何をしていてもいいけんど、『鬼神の森』だけは、ゼッテーに近づくんでねぇぞ」

 ジョージの頭に祖母の言葉が過った。二日前、滞在三日目の出来事だ。

「きじんのもり?」

 当時のジョージは怪訝(けげん)そうに祖母へ聞き返した。祖父母の家の居間でレトロな扇風機を占領しつつ、ソーシャルゲームをしている最中だった。

「そうさぁ。鬼神様がおるおっかねぇ森だべ」

「そんなのいるわけないじゃん」ジョージは祖母の顔からスマホの画面に視線を戻した。

「まぁ、所詮は古臭い伝承かもしれねぇさ」祖母は氷入りの麦茶をテーブルに置く。「ただな、オラが子どもん時は、耳にタコさできるくれぇ、大人たちから何度も話さ聞かされたもんだぁ」

 祖母は鬼神の伝承を語り始めた。内容を要約すると次のようになる。

 その昔、一匹の鬼がクジラに乗って海の底から現れた。鬼は次々に村を襲撃し、作物や酒、人間までも食って回った。鬼を退治するため、腕の立つ四人の侍が集められ挑んだが、まるで歯が立たなかった。やむなく近くの村々から奇術師が寄せ集められた。そして鬼を深い森の奥までおびき寄せたころを、彼女たちは自分たちもろとも鬼を森に封じた。

「オレのひいじーちゃんの頃はな、鬼神様が暴れて森から出てこねぇように、定期的に人様を生贄(いけにえ)に捧げるようなこともしていたらしいんだ」

「へー」

「だからなジョージぃ、何度も言うけんど、森にはゼッテーに近づくんでねぇぞ。いいな」

「はいはい」

 ジョージは祖母の話を、なびく風鈴のように聞き流していた。そのせいで内容のほとんどを覚えていなかったが、頭の片隅にかろうじて残っていた記憶が、ジョージの背中に嫌な汗を滲ませた。険しい表情で連野たちを見る。

「虫取りじゃなくて肝試しが本命だったのか」

「肝試し? 何のことだ?」連野は口角を上げて言った。

「とぼけんな。この先が鬼神の森ってところなんだろ。そのくらいは知ってるぞ」

「でもよぉ、この先が俺たちの秘密の虫取り場なんだべ。んだな、星?」

「へっ? ……あぁ! んだんだ、この先だ!」真銅の目配せに対し、星は激しく頷いた。

「なめやがって。こんなのホラゲより余裕だ」

 多分、という言葉を、ジョージはグッと飲み込んだ。

 大きく深呼吸をする。ややあって勢いよく縄をくぐり抜けた。特に変わったことは起こらない。そのままジョージは森の奥へと進んだ。連野たちは声を漏らし、ジョージに続く。

 鬼神の森をいくらあるいても、彼らはカブト虫を一匹も見つけられなかった。それどころか蚊すら見当たらなかった。

 ジョージがスマホを確認すると、時刻は午前七時過ぎていた。日差しはまるでない。木々や草はより一層濃く、深くなる。不気味な静けさに、ジョージは忍び寄るような恐怖と寒気を覚えた。

 だがジョージの背後は騒がしかったからに、それを露呈させずに済んだ。

「なぁ連野ぉ、そろそろ帰んねぇか?」

「なんだ星、俺に指図するだか」

「そういうわけじゃねぇけんどよぉ、やっぱここ気味悪りぃべ……。腹も減ったし……」

「ウッセー! 男がこの程度でビビッてんじゃねぇ!」

「うぅ……けんど……」

「ここで帰ったらなぁ、今度オメェを度胸橋から突き落とすかんなぁ」

「――! わ、わかったべ」

「ったく、都会っ子よりビビッてんじゃねぇべな」

「そういうオメェも、実はビビってんべ。さっきから声が震えてっぞ」

「はぁ? 稲作農家がなにほざいてんだ」

「村長の孫ってだけでエバってんでねぇぞ。力比べなら俺が全戦全勝なの忘れたのか?」

「お、オメェら喧嘩してる場合で……――」

 星が急に静かになった。何事かと思い、三人は足を止めて振り返る。星は少し離れた場所で突っ立っていた。

「おぃ星、何してんべ!」

「腹減り過ぎて動けなくなっただか?」

「ち、チゲーべ! 確かに腹は減ってるけんど、あれ見るべな、あれ!」

 星はある方向を指差した。三人が一斉にその方向に体を向け、目を凝らす。

 数十m先の木の陰に何かがあった。

「た、確かに何かあるな……」ジョージは震える声で呟いた。

「熊か? にしてはデカ過ぎるか」真銅はあごに手を当てる。

「ま、まさか鬼じゃねぇべな……!?」星は声をひそめた。

「お、おぃ都会っ子、オメェ先行って様子見てこい」

 途端、ジョージは連野に思いきり背中を叩かれた。

「イテ! 何で僕なんだよ! 行くならお前が行けよ、ビビッてんのか?!」

「び、ビビッてなんてねぇべ!」

「だったら二人で行くぞ! それなら文句ないだろ!」

「あぁ、いいべ! ただし、ほんのチビっとでも遅れたら度胸橋だかんな!」

「望むところだ!」

 ジョージと連野は互いを邪魔し合いながら走った。その後ろを青ざめた顔をした星が追いかけ、取り残されそうになった真銅も焦って走り出す。ほどなく開けた場所に出て、四人はそれの正体を目の当たりにした。

 潜水艦だった。


《つづく》⇒

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