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映画感想 ゴダール『言葉の力』+ペドロ・コスタ『火の娘たち』特別上映

7月15日に下高井戸シネマで行われた、ジャン=リュック・ゴダール『言葉の力』とペドロ・コスタ『火の娘たち』の特別上映、およびペドロ・コスタ監督のトークショーへ行ってきた。

(実はこの二作品を見るのは二回目である。昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でも一度鑑賞しているのだが、その時はまだいろいろと汲みきれなかったような気がして今回足を運んだというわけです。)

上映作品もトークの内容も非常に得るところが大きかったので備忘録を兼ねてnoteに記しておく。所感交えつつになります、読みづらかったらごめんね。

作品概要

ゴダール『言葉の力』フランス/1988/25分

ジェイムズ・M・ケインによる犯罪小説『郵便配達は二度ベルを鳴らす』に書かれる不倫と殺人をめぐる会話を、電話越しに口するひと組の男女。そしてもうひと組の男女が、ボードレールによって仏訳されたことでも名高いエドガー・アラン・ポーの『言葉の力』を、台詞にして対話する――「言葉の物理的な力について、なにかの考えが君の心に浮かばなかったか?」 映像メディアの創造性を考察しながら、ボブ・ディラン、バッハ、ピカソなどさまざまな芸術作品をコラージュした本作は、70年代以降ゴダールが取り組んできたビデオ作品のひとつの到達点として、『映画史』の第1章(1A)と同時期に発表された。

山形国際ドキュメンタリー映画祭2023プログラム

ペドロ・コスタ『火の娘たち』
ポルトガル/2023/8分

カーボ・ヴェルデのフォゴ火山噴火で離散した3人の若い姉妹。彼女たちは「いつの日か知るだろう、私たちがなんのために生きて、なぜ苦しむのかを」と唄う……

山形国際ドキュメンタリー映画祭2023プログラム

『言葉の力』

ということで前者は、ゴダールが『映画史』の時期に制作した短編のビデオ作品であり、『映画史』同様、さまざまな映画や絵画の文学作品や音楽を頻りに引用したモンタージュから構成された作品である。
異なるのは、『映画史』はゴダールの語りや対話を中心としているのに対し、『言葉の力』は男女の物語を中心に展開する点だろう。

大まかな展開としては……
ある惑星で古い機械が動き出した、的なモノローグがあり、回るフィルムの映像と太陽の光の点滅するようなモンタージュ。電話で言い合いをする男女の映像と音声に差し挟まれる、地球や人工衛星のCG、ピカソの絵画、流れる水などのフッテージ、そして音楽。映像は時空間を行き来し、遠い未来の何処か水辺の草原に異なる二人の男女がいる。幻想的な雰囲気。彼らはいわゆる天使的な存在なのだろう。片方は老いた男でもう片方は若い女。映画中でいちばん印象に残るのは、車に寄り掛かり地面に座った老人のシーン。俯き加減の男が凭れているタイヤの輪郭の曲線が、背中から生えた翼のように見える。(これは単にモチーフの好みの問題かも。)
滅んだ星について老人が若い女に話す。「言葉の物理的な力について、なにかの考えが君の心に浮かばなかったか?」俳優は変わっているものの、おそらく彼らは電話で言い合っていた二人とパラレルな存在なのだろう。
彼らの詩的な会話が示唆するのは、言葉は空気の振動であり創造とは手の動きであること。そうした物理的な運動のもつ途方もないエネルギーと、その帰結としての破滅。噴火し荒れ狂う大地の映像。暗闇と音楽。
……明確な筋のある映画じゃないので難しいが、要約して雰囲気を伝えるならこんな所だろうか?

ゴダールの映像=思考、歴史=物語を見せる映像作品であり、『映画史』と多くの点で通じる作品だ。「言葉の力」という題に滲んでいるのは、トーキーの誕生の時点で既に予期された歴史の惨劇と、ある種の映画のカタストロフィーだろう。
しかし創造はそれが破壊するものから生み出され、芸術は循環するものである。頻繁に用いられる火山というモチーフ、マグマの絶え間ない運動と破壊的な噴出には、運動するイメージとその表出がもたらす裂け目が想像される。
そしてまた暗闇から、強烈なイメージが現れるのだろうか?

『火の娘たち』

そして今回のプログラムでは、その後に来る強烈なイメージとして本作品が上映される。いやあ、センスあるなあ。
この併映のアイデアは、昨年のカンヌ国際映画祭での上映に際して、映画祭のディレクターとの相談によって生まれたものだとトークで話していた。

8分程度の短い作品なのだが、映画の構成は以下のようになっている。
三分割された画面上に三人の女性。噴火で焼けた大地のような背景。左側の女性は力強い表情で歩き続け、中央の女性は地に倒れている。右側の女性は目を見開いた怯えたような印象の表情のクローズアップだ。そして各々の音程でそれぞれに歌う彼女らの声がずれたり、重なったりして不思議な音楽となる。「生きなくては」
「いつの日か知るだろう、私たちがなんのために生きて、なぜ苦しむのかを」
そして最後に1分ほど、静寂とカーボ・ヴェルデの荒涼とした風景、そこに佇む人々を写したフッテージが映し出されて、映画は終わる。

本短編は、次に公開予定の長編作品の制作のなかで生まれてきた試みらしい。カーボ・ヴェルデのフォゴ火山の噴火で離散し、移民となった三人の姉妹の物語。そのエッセンスを詰め込んだある種の予告のような作品でもあると思った。
ゴダールとの併映によってラストシーンのドラスティックさが更に増している。そこにわれわれが見出すのはやはり破滅の後の再生のイマージュだろう。

ペドロ・コスタ監督トーク

こいうこと言ってたな〜というのを所感交えつつ箇条書き。メモ取ってたけど漏れはあるかも。

あんまりちゃんと撮れなかったよ〜泣

・ゴダール作品との併映のアイデア

2023年のカンヌ国際映画祭の際に映画祭ディレクターからゴダールの遺作『ジャン=リュック・ゴダール 遺言 奇妙な戦争』との併映を提案され、了承したのがきっかけ。
山形のときや今回の上映で、『言葉の力』を選んだのは、ゴダールの作品のなかでも気に入っていて、特に影響を受けた作品だから、だそう。

・ゴダールと彼の作品について

優れた映画監督は同時に優れた音楽家でもあり、ゴダールはそのうちの一人。ゴダールのモンタージュは音楽における対位法を思わせ、また『言葉の力』ではバッハなどのそうしたバロック音楽が作中に用いられている。
映像などの素材を組み合わせる作業は、音楽を生み出す過程と同じであると彼は述べる。作曲すると構成するが同じ語(compose)であるのは示唆的だ、という話もしていた。
過去のインタビューでも彼は、映画のもつ力というのは書かれた言語以前のものであり、音楽のようなものなんじゃないかといったことを言っていたと思う。そして実際、今作はほとんど三人の女性が歌うシーンのみの映画だったのだけど、その純粋さゆえにとても力強さを感じた。

・ラストシーンについて

カーボ・ヴェルデの荒涼とした風景とそこに佇む人々を写したフッテージ。噴火の翌日の映像らしい。映画のなかで異質さを放ち、その距離が作品に強度を与えている。この映像は、ポルトガルの人類学者でありペドロ・コスタ監督の師であった方が撮ったものとのこと。名前も言っていたはずなんだけど、聞き逃しちゃった……。製作をしていて、昔講義で見たそのフッテージを思い出して連絡を取り、映像を使わせてもらうことになった、と言った話をしていた気がする。映画として撮られたシーンじゃないからこその異質さなのね。面白いなあ。

・三人の女性と歌について

次に公開する予定の長編作品に登場する三人の姉妹で、それぞれの性格や運命を思わせる映し方にしているといったことを話していた。キャストのうち一人は歌手を目指し練習中であり、ほかの二人は教会で聖歌などを歌う方であるとのこと。
長編で用いる音楽はマリーニやバッハなどのバロック音楽やカーボ・ヴェルデの伝統的な音楽などの断片から構成される。歌声を通じ、空間を超えて交信するようなイメージ。
3面スクリーンは編集の過程で思いついたがおそらく次の長編では用いないだろう、といったことも話していた。
歌詞は彼女らとの対話のなかで作られていったものとのことだ。チェーホフの『三人姉妹』も参照している。

・製作上の工夫や苦労など

普通、歌声というのは別録りにするが同時録音に拘った。製作に携わるメンバーを最低限にしている(5人くらい!)ゆえに可能になったこともあれば、大変だったこともあったとのこと。
また常に気をつけているのは、当然だが出演者たちを苦しめないということだと彼は話す。今作では何テイクも繰り返して撮る喉に負担をかけてしまうから、そういう方法は取らないようにした、と。もちろん身体的な負担だけでなく、精神的な負担に関しても。歌うことはある意味で英雄的な行為で、勇気がいることだという話もしていた。インタビューの話し振りも威圧的な雰囲気がなく細やかな気配りを感じる監督だと思った。
先述した歌詞もそうだが、本当に周りとの対話や共同作業のなかで作品を作っていく人なんだなと。自分はここに一番感激したかもしれない。なかなかできることじゃない、というか、ゴダールはそれを目指しつつも徹底的に失敗しつづけたのだから。そして確かに、ペドロ・コスタはそこにある人の生そのものをスクリーンに刻印することに彼は成功していると思う。彼の作品が持つドキュメンタリー性はそこに由来するのだろう。

(ゴダールが『映画史』で、映画作りについて述べていたことを幾つか挙げておこう。スタジオ・システムやかつてのヌーヴェル・ヴァーグに優れたものがあったとしたら、それは個人の作家性よりむしろ共同作業や語り合いの場から生まれてきたものであったということ。彼自身、俳優とともに映画について話したり作り上げたりをかつてしようとしたがうまくいかなかったということ。映画とはある種のコミュニケーションであり、それは表現することではなく感化されるーーなんらかの痕跡を写し取ることなのだと。彼は対話や共同作業の重要性を唱えながらも製作のスタイルはだんだんそこから遠ざかっていった。)

・なぜカーボ・ヴェルデ?

偶然の巡り合わせ。ポルトガルにはカーボ・ヴェルデなどアフリカの旧植民地国からの移民とその子孫が多く暮らしている。『溶岩の家』(1994)でカーボ・ヴェルデを撮ったときに、ポルトガルに住む家族に渡してほしいと多くの手紙や荷物を受け取った。郵便屋のようだった、と話していて、なんか良いなーと思った。それを届けるためにリスボンのフォンタイーニャス地区を訪れ、彼ら移民との出会いが次の作品の構想へと繋がっていった。
その頃、大人数のスタッフを引き連れたりスケジュールの調整に追われたりする既存の製作体制に嫌気が差していた。映画の作り方を見直そうと考えたときに、自ら物語を考える必要はないのだと思い至った、的なことを言っていた。
ほんとうに関わりのなかで映画を作っているんだなあ。
映画というのは本質的に小さなものがとても大きくなる、という性質のものだから……という話もしていたと思う。製作体制を見直して最低限のやり方で組織することにした、という話の時だったかな。

・祈りの歌について

観客から祈りの歌の意味や歌うことを撮ることについて聞かれてたと思う。歌うことはある種の英雄性と言葉以上の高次性が付き纏う、といった話をしていたような。だからこそ音楽を用いるのには注意が要るとも。

・黒という色

観客から「今作でも他の作品でも、が印象的に用いられていると思った。なにか思い入れがあるのでしょうか?」という質問。昔から黒という色に魅力を感じていた、と答える。それは秘められた内側の世界や、暗闇を表す色であり、映画がするべきことは暗闇をより一層暗く、秘密をより秘密にして映すことなのだとも。

・映画の尺について

「今回の映画はとても短い作品だったが、映画の尺の長さについてどういう考えを持っているか?」という質問。何かを伝えるのに必要な時間というものがあると思う。それが2時間や3時間の場合もあるが、最近の映画はやたらに冗長な傾向にある。それは現代人が馬鹿になってきて、説明が過剰になっているから。といった回答。

実際、今回の映画は台詞もなく三人の歌声と歌う姿、そして最後のフッテージだけで構成されている非常に純粋な作品になっているが、たしかに伝わる。長々とnoteを書き綴っちゃったりしているけれど、心に受け取ったのは言葉以前のものだったと思うぜ。(言ったら台無しか?)

所感もろもろ

いや良かったです、朝から並んだ甲斐あった。
通常上映も良いんだけど、併映によるモンタージュ的な効果で、映画がみずから思考を生み出すようなことに成功しているプログラムだと思った。

あとはゴダールが高速で切り替わる画面と奔流のような言葉で表現しているものを、三分割画面と歌声の重なりで表現しているという対比が印象に残った。
次作が本当に楽しみです。
あと特に言及無かったけどネルヴァルのほうはどういう風に意識してるんだろうか、日和って聞けなかったな。

だいぶ長い文章になってしまった、みなさん今日もお疲れ様です。それでは。

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