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【レビュー・考察】 『天の敵』 | イキウメ

2017/05/20 @東京芸術劇場シアターイースト

本編あらすじ
 天を敵にまわす、選ばれし者の健康法。体によい食べ物とはなんなのか。菜食の料理家、橋本和夫へのインタビュー。若さを追い求め、たどりついた楽園の孤独。
 完全食を求めて生き延びた男をめぐる物語。2010年初演の短篇「人生という、死に至る病に効果あり」を長編化、フルスケール版にて、お送りする。

 ライターの寺泊は、食事療法の取材中、戦後まもない1947年に「完全食と不食」について論文を書いた医師、長谷川卯太郎を知る。その卯太郎の写真が料理家の橋本和夫に酷似していたことで、寺泊は二人の血縁を疑い、橋本に取材を申し込む。菜食の料理家として人気を博す橋本のルーツは、食事療法を推進していた医師、卯太郎にあると考えたのだ。
「いや …… 長谷川卯太郎は私です。今年で122歳になる」

東京芸術劇場公式HPより


 イキウメのマイベスト『天の敵』が、この夏再演するということで、DVDを観劇。まだイキウメと出会って間もない頃、この作品に衝撃を受けたのを、パッケージを眺めながら思い出す。

 この美しいヴィジュアルは、スウェーデンを拠点とするユニット、インカ&ニクラスの作品。誰もが目にする自然風景が、彼らの仕事により、マジカルで神聖な瞬間へと変換される、そんな作風である。

 非日常的な劇中の設定が、ともすると我々の日常生活にもあり得るのではないか。本作は、平穏な日常に懐疑心を植え付け、身の周りの均衡を揺さぶるような、そんな感情を与えた。
 ありえない設定でありながらも、時世の流行や登場人物たちの心の機微といった所に、ある種のリアルさが内包されている、という点でそう思うのかもしれない。

イキウメ『天の敵』ポスター(2017)



二項の均衡状態、その間で揺れ動く人の情動

 前川のプロットというのは、思うに、今まで見たいくつかの作品において、対極の2つの概念(あるいは登場人物)を対立的に配置している。
 そして、その境界、あるいは橋渡しとなる間で、登場人物(の立場あるいは彼らの感情)の揺れ動くところにドラマ性を持たせる構図を作る、という操作が多いように感じる。

 境界の設定は、常に感情的な部分にコミットしているモチーフであり、人間の普遍的な欲望を直喩、あるいは暗喩している。そのため、観客はどちらの側にも善悪の判断や感情移入を振り切ることができず、それ故に、その二項対立の問題に対して考える余地を与えている。
 その絶妙な、やじろべえというか、バランスのとれたギリギリの均衡状態を作るための、プロットの骨子である場面や登場人物の設定が、今回は抜群に秀でていたように思う。最後のライターの無言の号泣は、それを静かにかつ印象的に伝える、本当に美しく良いシーンだった。



明快な時空間設定と、技巧的な舞台演出

 そして、1時間のインタビューというミニマルで短い現実の時間設定と、回想の中で拡張し凝縮された何十年という途方もない時間スパンの緩急。
 この時間の緩急は、一つの舞台の上で同時に存在し、現実と回想の時間軸を、行ったり来たり繰り返しながら、自在に伸縮させる。

 言葉としてのモチーフや小道具、ライターの存在は、メタな視点で境界のこちら側とあちら側を動き回る。
 舞台空間の上で現実と回想の次元を二分せず、境目を曖昧に溶かし、混沌とした総体として見せている。

 演劇特有の技巧的なレトリックを他作品と同様、小慣れて、さらっと軽く流されてしまうような自然な演出は、悔しいほど巧い。



唯一無二のイキウメ布陣、ここにあり。

 長回しのセリフを物ともせず淡々と喋り続ける飲血者役のキャストと、かつての妻であり助手役の女性の、役のキャラクターに対するハマり具合が見事だった。そしてトキサダという、飲血者の師匠で小汚い百姓役の、記憶に残る強烈でアクの強い外見と芝居。シリアスな場面に絶妙なタイミングで放り込まれるユーモアもとても好きだ。

 反復するシャッター音、カーテンを模した巨大な布から漏れる照明の、陽光の温かみを感じるかのような演出。
 稀に出会う、文句の付け所のない、とても満足できる舞台だった。

 5年後のこの夏、リメイクした今回は、新たにどんなキャストが旨みを与え、どんな脚本が味にアレンジを与えてくれるのか。数ヶ月後が待ち遠しい。

引用元|イキウメ公式HP

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