【短編小説】美しい嘘
(1)――「殺せるものなら、殺してみろ。ただし、美しくな」
暗闇の森。
この辺りの人間がそう呼び畏れ近寄らない森で、少年が一人、ぽつねんと輝いていた。
輝いていた、という言葉に間違いはない。
老人のように白い髪、陶器のように白い肌、血の色をした瞳。
そんな姿で、陽の光が差さない森の中に居れば、輝いていると表現したくもなるものだ。
魔女は、そんなことを考えながら嘆息し、同時に心を弾ませる。
軽い散歩のつもりで歩いてきたが、思いがけず美しい光景に出会ったものだ――と。
「お前、捨て子か」
有象無象の人間ならば、そのまま、人食い動物やら植物やらに喰われてしまえと、敢えて放置しただろう。
しかし、彼があまりに美しくて、魔女はついつい自身が人間嫌いであることを放念し、声をかけたのだ。
魔女の声に、少年はびくりと肩を震わせ、それから声のしたほうを見上げる。
――誰。怖い。助けて、お父さんお母さん。
恐怖で揺れる双眸からは、術を使わずとも、そんな声が聞こえてくるようだった。
しかし、それも致しかたのないことだ。
暗闇の森。
人を喰う動物や植物の巣食う森。
不死身の魔女が封印されている森。
大の大人も恐れて近寄らないような場所だ、子どもにとっては地獄も同義だろう。
「ち、ちがう」
少年は、先の魔女の言葉を否定した。
そうしてゆっくりと魔女から距離を取りつつ、言う。
「道に迷っただけだ」
「なるほど迷い子か。一人か?」
「違う。お父さんとお母さんも一緒だ」
「こんな、暗闇の森に?」
「そ、そうだ」
少年は嘘を吐いている。
魔女は、どうしたものか、と一瞬だけ考え、次の瞬間には術を使い、少年の心を覗いてみることにした。無意味なやり取りを重ねるよりも、こっちのほうが確実で正確だ。
「なるほど、忌み子か」
「なっ?!」
少年は驚嘆の声を上げたが、魔女はさらりと無視して、少年の記憶を辿る。
異端。
悪魔の子。
不吉の象徴。
日照りの原因。
――そいつが居るから、駄目なんだ。そいつさえ居なければ、日照りにはならなかった。
――殺せ。
――殺せ。
――殺せ。
――自らの手で殺せないのであれば、暗闇の森に捨てろ。あの森は人間を拒む。きっと殺してくれるだろうよ。
――そうだ、きっと暗闇の森の魔女が、こいつを殺してくれる。
――嘘だよね、お父さん、お母さん?
――やめろよ、離せ。ねえ、お父さん、お母さん。こんなの辞めさせてよ。どうして無視するの?
――僕は、二人の大切な子どもなんじゃないの?
――そうだ、お前にひとつ条件を出してやろう。良いか、あの薄気味悪い魔女を殺してこい。そうしたら、村に戻ってきても構わない。
――殺す。絶対に殺してやる。
――……暗い。一人は怖い。怖い。怖いよ。
――誰か、助けて。
「……はん、人間らしい卒爾な考えだな」
必要な記憶を見終え、魔女は吐き捨てるようにそう言った。
そうして、少年に取られた距離をぐんと詰めて、続ける。
「お前、私に殺される為に、この森に捨てられたのだろう?」
「違う」
「嘘を吐いても無駄だ。知らないようなら教えてやるが、私には、人の心を読む魔術の心得があるんだよ。お前がいくら虚勢を張って嘘を吐こうと、その奥にある本音が、私にはわかるんだ」
「……嘘なんて、吐いてない」
「無駄だ無駄だ」
魔女はひとしきりからからと笑って、それから、少年と目線を合わせる為に軽く腰を曲げて、言う。
「お前、私のところに来るか?」
「はあ?」
少年は、真紅の瞳を猜疑に歪ませ、訝しむような声を上げた。
「村の連中から、私を殺してくるよう言われているのだろう? 構わんよ。お前のように美しいものに殺されるのなら、悔いはない」
「……あんた、死にたいのか?」
少年は、信じられないといった様子で魔女を見つめていた。
魔女はその熱烈な視線を受け、にいっと笑みを深める。
「私はな、死ねないんだよ。もう何百年もこの世をさ迷っている」
だから、と。
魔女は少年を見据えて、言う。
「殺せるものなら、殺してみろ。ただし、美しくな」
その言葉に、少年がぞくりを震え上がったのを、魔女は見逃さなかった。
ああ、この少年は穢れを知らないのだ、と魔女は思う。大人が何人も束になってかかってきても殺せない魔女を、その細い腕で殺せると思えてしまえる少年の無垢さが、魔女の目には新鮮に映った。
殺せないのなら、閉じ込めてしまえ。
そうして強引にこの森に封じられた魔女は、長い間、人間を恨めしく思っていた。
しかし、こんなにも美しい人間がいるのであれば。
いつか討伐されるとしても、それは愚かな人間ではなく、この少年が良い。
そう思った。
「決まりだな」
魔女はするりと少年の手を掴むと、家へ向かって歩き出した。
「な、なにするんだよ?!」
「お前、そんな痩せこけた身体で私を殺せると思っているのか?」
碌な食事も与えられていなかったのだろう、少年の骨ばった手を指先で感じながら、魔女はため息を吐く。
「首を締められるだけの握力をつけろ。刃物を振るえるだけの筋力をつけろ。私の意表を突けるだけの知識をつけろ。まずは飯を喰え。話はそれからだ」
ぽかんと呆気に取られている少年の手をぐいぐいと引っ張って歩きながら、魔女は、そういえば、とあることに気づく。
「お前、名はなんという?」
「……自分を殺す相手の名前なんて、知る必要ないだろ」
「だからこそ知りたいんだ」
ほら教えろ、と促す魔女に、少年はぷいっと顔を逸らす。
「名前なんて、ねえよ」
「嘘を吐くな」
そう言いながら、魔女には既に、少年が親からもらった名前を把握していた。同時に、少年が、自分を捨てた親から与えられた名の価値を見失いかけているということも。
「名がないというのは不便だからな。ないというのなら、私が名づけてやろう。そうさなあ……嘘吐きだから、『ライ』でどうだ?」
「……別に。どうでもいい」
顔を背けたままの少年から、しかし魔女はひとつの感情を読み取り、小さく笑う。
「私の名はネリネだ。期待しているぞ、ライ」
「うるせえ」
(2)――「なあ、ライ。ここに隠しておいたクッキーを知らんか?」
暗闇の森という環境が体質に合っていたのか、少年は初めて会ったときからは信じられないほど健やかに成長していった。
「なあ、ライ。ここに隠しておいたクッキーを知らんか?」
「し、知らない……」
「嘘を吐くな。口の端に、食べかすがついているぞ」
「食べてねえってば! あんな不味いクッキー、誰が喰うかよっ!」
「やはりな。随分と前に隠しておいたのを今ほど思い出したから、捨てようと思ったんだが」
「……うげえ」
少年は、目を見張るほど逞しくなっていった。
いつの日か魔女をこの手で殺す為に、強く、強く。
「おいネリネ、何度言ったらわかるんだよ。一人でふらふら散歩に行くんじゃねえって。危ねえだろ」
「私に指図するな。それに、この森は私の庭のようなものなんだ。危ないことなどあるものか」
「それは、あんたが死なない身体だからってだけで、危ない目には何度も遭ってるだろ。この間、人喰い花に両足を喰われて数日帰ってこられなかったのは、どこの魔女だ?」
「……ぐぬぬ」
「あの人喰い花を僕に退治してもらって、僕におんぶされて帰ってきたのは、どこの魔女かって訊いてるんだが?」
「う、うるさいうるさい!」
「全くもう。僕が殺す前に死ぬんじゃねえぞ。長年の努力が無駄になるだろ」
「たかだか十年ほどの鍛錬で、戯言を吐かすな。それに、あの程度で死ぬ私ではない。あの花には前にも何度か喰われかけてるからな」
「それなら良いけど……。うん? 良いのか?」
「なんだ、ライ。お前、私の身を心配してくれているのか?」
「してねえよ! 誰がするか、そんなもんっ!」
騒がしくも満たされた日常だと感じていたのは、魔女か、少年か。或いは、両方か。
それは神のみぞ知る話である。
(3)――「ら、ライがおかしくなった!」
ある日のこと。
気がつくと、少年はひまわり畑に居た。
じりじりと肌を焼く夏の日差し。雲ひとつない真っ青な空。息も詰まるような暑さ。そして、視界いっぱいに広がるひまわり。人影はなく、辺りは不気味なほど静まり返っている。
周囲を一望できる、小高い丘の上。
そこに一本だけ生えた木の側に、少年は座っていた。
少年は、目前の光景を吟味し、その赤い瞳を細める。
自分はついさっきまで、別の場所に居たはずなのに――と。
しかし不思議なことに、直前の記憶が見当たらない。なにか薄い膜を張られたように、ぼんやりとしている。
「おいお前、そこでなにをしている?」
不安で蹲る少年に、ふと声が降ってきた。
見上げると、そこには魔女が居るではないか。
少年がそれを魔女と一目で判断できたのは、彼女が魔女然とした格好をしていたからに過ぎない。
つば付きのとんがり帽子。口元から足先まで全身をすっぽりと覆うローブ。そして、片手に箒を持っているとなれば、百人が百人、彼女を魔女と思うだろう。それだけの話だ。
「……ネリネ?」
ほとんど顔も見えない状態の魔女を見て、少年は零すようにその名前を口にした。
途端、張られていた膜を突き破り、これまでの記憶が流れ込んでくる。
暗闇の森に封じられているはずの、心が読める不死身の魔女。
少年の命の恩人であり、少年自らの手で殺すと誓った魔女本人だ。
森の封印は強固で、魔女でさえ破れないものだと、少年は聞かされていた。それが何故、暑苦しい格好をして、真夏のひまわり畑に居るのか。
「なんだお前、私を知っているのか」
怪訝そうに言った魔女は、少年をじろりと見回し、小さくため息を吐く。
「昔、どこかで会ったか? お前のように美しいものを、この私が忘れるはずないと思うのだが……」
「え?」
少年は、思わず言葉を失った。
魔女とは、つい先刻も彼女の殺害に失敗し、さんざ人の殺しかたについて講義を嫌々受けたばかりであるというのに。
どうして目の前に居る魔女は、少年そのものを知らないような態度をとるのだろうか。
魔女が少年を知らない。
たったそれだけの事実が、少年の胸を強く抉る。
「そうがっかりするな。私の記憶力は人並みなんだ、一人や二人、忘れることもある」
少年があまりに愕然としていたのか、魔女は憐れむように言う。
「お前、名はなんという?」
そして、少年と出会った日と同じ問いを投げかけてきた。
悪い夢でもみているようだ。
少年はそんなことを考えながら、一縷の望みを賭けて口を開く。
「ライ。僕の名前は、ライだ」
それは、魔女自身が少年につけてくれた名だ。
「ライ? 変わった名だな。誰がそんな名前をつけたんだ?」
しかし魔女は、少年の名を耳にしてもなお、初対面の体を崩さない。
芝居ではなく、彼女は本当に少年を知らない様子だ。
「あんただろ……」
「うん? なにか言ったか?」
「なんでもねえよ」
わけがわからず、少年は膝を抱える。
長い間忘れていたほうが不思議なほどの煢然とした思いが、少年の内側を占拠する。
「お前、迷い子か?」
魔女は、再び小さくため息を吐いたかと思うと、少年の隣に座った。
「迷子じゃない」
「どこから来たか、覚えているのか?」
「……暗闇の森」
「ふうん? 知らん場所だな。ここから遠いのか?」
「……」
「しょげるなしょげるな。せっかくの美しい顔が台なしだぞ?」
そう言って少年を宥める魔女の瞳は、少年がよく知る優しいそれだ。
だからこそ、余計にわからない。
ネリネにしか見えないこの魔女は、一体誰なんだ?
そんな疑問が、少年の頭の中でぐるぐる回る。
「大丈夫だ、安心しろ。私がお前を、必ず元居た場所に返してやるからな」
「……うん」
言動も仕草も、少年の知る魔女そのものだ。
それなのに彼女は、少年のことを知らないと言う。
わけのわからない状況を打破しようと、少年は魔女に問いかけることにした。
「あんた、他人の心が読めるよな?」
少年からの問いに、魔女はひどく驚いたように目を見開いた。
「ほう、私はお前にそこまで話していたのか。しかし、うむ、お前になら話していてもおかしくはないか」
ぶつぶつとなにか考え始めた魔女に、少年は、
「いいから。答えろよ」
と、割り込むように言った。
その様子が面白かったのか、魔女は軽くからからと笑う。
「読めない。それはまだ習得中だ」
その答えに、今度は少年がきょとんとする番だった。
「生まれつき読めるんじゃないのか?」
「生まれつきは、この不死身の身体だけだ」
お前はもう知っているかもしれないが、と魔女は続ける。
「気味の悪い化け物と非難され、ついさきほど街を追い出されてきたところなんだ」
言いながら、魔女は帽子を取り、口元まで覆っていたローブを僅かにはだけさせる。
そこに隠されていたのは、ひどい火傷だった。
傷は、まだ新しい。
「……」
少年は、知っていた。
手足がもげようと、一週間後には新しく生え変わっているような治癒力を持つ魔女だが。裏を返せば、一週間という時間を要するということを。
この火傷は、恐らく数時間前に受けたものだろう。
自身の身体の扱いが雑で傷の耐えない魔女を知っている少年は、そんな風に彼女の傷を分析する。同時に、理屈はわからないが、この魔女がネリネ本人で間違いないことも確信した。
「とはいえ、今回は早々に街を追い出されて正解だったかもしれない」
魔女は、少年の真っ白な髪を撫でながら、続ける。
「お前のように美しいものと出会うことができたのだからな」
それに、と魔女は、視線を少年からひまわり畑に移す。
その瞳には、空の青とひまわりの黄色が映り込んでいた。
「これほど見事なひまわり畑は、長いこと生きているが初めて見た。人間も、たまには良いことをする」
酷い火傷を負った顔で、恍惚とそう言う魔女を見ていると、少年は嫌な胸騒ぎがした。
まるで、そのまま解けて居なくなってしまいそうで。
「――ネリネ!」
少年は思わず魔女の名を叫び、彼女の袖を掴んだ。
「大丈夫、私はここに居る。これまでも、これからも、ずっとな」
にいっと笑みを深めて、魔女は言う。
これは、魔女が本心を隠そうとするときにする仕草だ。
そこまでわかっても、少年には魔女の本心まではわからない。
少年には、心を読む術がない。
「私はどこへも行けない。それは、ライ、お前が一番よく理解していることだろう?」
「それは、暗闇の森のことを、言ってるんだよな……?」
少年の問いに、しかし魔女は答えない。
「お前と会えて、本当に良かった。どうやら私は、化け物扱いされて森なんぞに閉じ込められていても、存外楽しめているらしい」
「なっ、まさか、僕の心を読んで……?!」
「習得中、と言ったはずだ」
言いながら、魔女は少年の腕を掴んで、共に立ち上がる。
「さあ、元居た場所へお帰り」
魔女はそのまま、少年を軽々と上に向かって放り投げた。
投げられた少年の身体は、そのまま空へと向かって上昇していく。
「未来の私に、よろしくな」
魔女の姿が、一本の木が、ひまわり畑が、遠のいていく。
遠くなって、小さくなって。
そして。
「……」
気がつくと、少年は書庫で仰向けに倒れていた。
瞼の裏に青空とひまわり畑がこびり着いているような錯覚を覚えながら、少年はぐるりと周囲を見回す。
ここは、暗闇の森の中にある魔女の家――その書庫だ。
掃除をする為に書庫へやって来た少年は、書架の埃を払う為に踏み台を使い、上の段へと手を伸ばしたが、バランスを崩して転倒してしまったのだ。反射的に手を伸ばしたとき、指先が触れたのだろう、少年の周りには本が数冊落ちている。ちょうど、普段は閲覧を禁じられている書架だったようだ。
あのひまわり畑や火傷を負った魔女は、頭を強くぶつけて見た夢か幻だったのだろうか。
そんなことを考えながら、少年は身体を起こす。
刹那、どたどたと大きな足音を立てながら、血相を変えた魔女が書庫に姿を現した。
「大丈夫か、ライ?! すごい音がしたぞっ?!」
「……」
少年の身を案じる魔女の顔に、火傷の跡はない。
しかし、少年に向ける眼差しは同じだ。
「おい、本当に大丈夫か? 私が誰か、わかるか?」
「……ひまわり……」
「ら、ライがおかしくなった! ……ん?」
動転する魔女は、しかし少年の側に落ちていた一冊の本が目に止まると、ああなんだ、と納得したように肩を竦めた。
「懐かしいものを見ていたのだな」
一冊の本をひょいと手に取った魔女に、少年は首を傾げ、
「それ、なんなんだ?」
と、魔女に尋ねた。
「これは、日記のようなものさ」
懐かしむようにページを捲りながら、魔女は言う。
「この森に封じられる前の記憶だ。そうそう、このひまわり畑は特に美しかった。だから、ライに見せたくなったのだろうな」
「そんな、まるで記憶が自我を持ってるみたいな言いかたするなよ、ややこしい」
「なにを言っているんだ、ライ。魔女の記憶が自我を持つのなんて、日常茶飯事だぞ?」
「へ、へえ……」
魔法に関する知識に疎い少年は、曖昧な相槌を打って誤魔化した。
「私を殺してこの森を出たら、一度行ってみると言い。この記憶は随分と前のものだから、現存している保証はないがな」
「……ふうん」
「んん? なんだ、ライ。お前、私と一緒に見に行きたいのか?」
「なっ?! 微塵にも思ってねえよ、そんなことっ!」
(4)――「寂しくなったら、私に会いに図書館へおいで」
「妙な気配がする」
少年が魔女と生活を共にするようになって、何年が経った頃だろうか。
二人で昼食を摂り、少年は魔女の毒殺に失敗し、殺害対象本人から毒の講義を受け終えた頃。
魔女は不意に、そんなことを言った。
「具体的には、どんな?」
昼食と毒物の片づけをしながら、少年は恐る恐る訊いた。
しかし魔女は、小首を傾げながら、
「勘だ」
と言うではないか。
「魔女なら、占いとかでそういうの、もっとはっきりわかるんじゃないのか?」
「前にも散々講義したが、魔女にも得手不得手があるんだ。中でも未来視なんて、対価が大き過ぎて、並大抵の魔女には使えないものなのさ。ライ、対価については訊きたいか?」
「……やめとく」
少しの逡巡の末、ライはそう言った。
「賢明な判断だ」
少年の答えに、魔女はからからと笑った。
「ともあれ、魔女の勘というのは往々にして当たるものだ。しばらく気をつけたほうが良い」
「気をつけるって、何から?」
「敵だ」
不敵に笑って、魔女は言う。
「私はこの森から出られないが、他の魔女との親交は続いていてね。噂によれば、外では魔女狩りというものが激化しているらしい。叡智の結晶である魔法を、その使い手である魔女を忌み嫌い、排斥して回る連中が居るそうだ」
「……だけど、そんなの、ネリネなら一網打尽だろ?」
「当たり前さ。魔術回路が破壊されない限り、私は無敵だ」
魔女は、これまで少年によるあらゆる攻撃を、全ていなし続けている。
殺せるものなら殺してみろ、と豪語していただけあって、魔女は手強かった。単純な腕力による殺害計画は初期の段階で頓挫し、少年は目下、奇を衒った殺害方法を試している最中である。
どうせ死なないのなら、拘束でもして死ぬまで痛めつければ良いのかもしれない。けれど少年は、それを実行には移さなかった。
美しく死にたい。
それが魔女の願いでもあるからだ。
彼女の言う美しさを、少年は理解していない。せいぜいが、死に様が綺麗であれば、それは美しいと言えるのだろうか、といった程度だ。だからこそ毒殺に精を出しているのだが、成果は上がっていない。
「ところでネリネ、さっきからなにを書いているんだ?」
片づけを終え、ついでに食後の温かい茶を二人分用意した少年は、魔女の手元を覗き込んだ。
「こら、覗き見は駄目だぞ」
さっと手を翳して手元を隠し、魔女は言う。
「これは日記だ」
その一言で、少年はわかりやすく苦い表情を浮かべた。
以前、うっかり書庫で日記に触れて記憶に呼び込まれたことを思い出したのだ。そうでなくとも、魔女の記憶はどれも好奇心旺盛で、少年は何度か彼女の記憶の中に呼ばれていた。どれも美しい風景が印象的だったが、どの記憶の魔女も少年のことを知らず、何度も初めましての自己紹介をした。あの時間が、少年はとても嫌いだった。
「ネリネって、日記書くの好きだよな」
「そりゃあ、何百年と生きていると忘れてしまうことも多いからな。だが、こうして書き記していれば、記録として残しておける。時折、読み返して思い出すことができる。手間はかかるが、実に有益な作業だ」
「ふうん」
少年は、魔女のところへやって来るまで、字が読めなかった。
魔女が懇切丁寧に教えてくれた結果、今はどんな本も読めるほどになっている。
知識は武器だ。
魔女は少年に、そう言いながら文字を、本の読みかたを教えた。
どんな知識も、いつか必ず役に立つ。この世界に、無駄なことなどなにひとつないのだ。
それが魔女の口癖だった。
「そうだ、いつかこの森から出ることがあれば、魔女の図書館へ行ってみると良い」
「魔女の図書館?」
「ああ。北にある大きな図書館でな。魔女が記したものは、全てあそこに収蔵されるんだ」
「その日記も?」
「ああ。私が所有権を放棄すれば、魔女の図書館へ転送される仕組みだ。理由はわかるか?」
「……記憶が、自我を持つから?」
少し考えるような仕草をしたあと、少年は自信なさげに答えた。
「正解だ」
魔女は少年の頭を豪快に撫で、それから続ける。
「本の中に引きずり込み、場合によっては抜け出せなくなってしまうからな。魔女の矜持として、不必要に人間に迷惑をかけるわけにはいかない。そういう思想の下、造られた図書館なんだ」
「……どうして、僕にそこへ行くよう勧めるんだ?」
「え? だってお前、私を殺したあと、一人になってしまうじゃないか。寂しくなったら、私に会いに図書館へおいで。そういうことだよ」
「……。誰が行くかよ」
(5)――「魔女狩り……!」
それは、前触れも予兆もなく、唐突に始まった。
いつものように少年と魔女による殺し合いの日々に終止符を打ったのは、矢の雨だった。
ちょうど、畑仕事の為に二人して外に出ているところを狙われたのだ。
魔女が咄嗟に防御魔法を展開してくれたおかげで、二人に怪我はなかった。
しかし、火矢を放たれ、家屋はあっという間に火に包まれ。
火の勢いに巻き込まれないようにと、家から離れたところで。
突然、魔女が倒れたのである。
「……ネリネ?」
なにをしても死なない魔女が、何故、倒れたのか。
少年にはそれが理解できなくて、理由を探る為に必死に頭を働かせながら、のろのろと魔女を見遣る。
魔女の身体には、矢が突き刺さっていた。
よく見れば、矢のシャフト部分には、呪符のようなものが貼られている。
「ぐっ……魔術回路破壊の呪符か……」
苦悶の表情を浮かべながら、魔女は冷静に状況を分析する。
「魔女狩り……!」
苦々しく呟いた魔女の背に、呪符が貼られた矢が、容赦なく何本も刺さった。
魔術回路破壊。
それは魔女にとって、不死身の崩壊を意味した。
傷が塞がらない。
血が止まらない。
視界が霞みだす。
ぐらぐらとして。
くらくらとする。
魔女は生まれて初めて、終わる、という概念が脳裏を過った。
「そんな……! ネリネ、おい、ネリネッ!」
少年は魔女を守るように覆いかぶさりながら、彼女の安否を確認する。
幸いにして、矢の雨は止んでいて、少年が傷つけられることはなかった。
しかし安心したのも、束の間。
「そこを退け、小僧。我々は魔女狩りの一団である」
重装備に身を包んだ騎士たちが、ぞろぞろと姿を現したのだ。
魔女狩り。
噂には聞いていたが、こんな辺鄙な森に封じられた魔女でさえ、その対象となるのか。或いは、それだけ魔女は駆られ尽くし、残るはこの森だけとなったのかもしれない。
「……ライ、聞こえるか」
掠れる声で、魔女は少年に呼びかける。
「転移魔法を、展開させる。準備が整うまで、奴らの気を、逸らせるか?」
本来であれば、魔女はこの森より外には出られない。
しかし、状況は変わった。
騎士たちが魔術回路破壊の呪符を持ち込んだということは、魔女を封じていた結界を破壊してここへやってきたということだ。
普段であればいくつも魔法を展開できる魔女だが、魔術回路を破壊され魔力が不安定な今、転移魔法ひとつだけで精一杯である。
千載一遇の機会。或いは、窮途末路が見せた明光か。
「できる。任せろ」
魔女の問いに、少年は即答した。
そうして、すっくと立ち上がると、魔女の前に出て両手を広げた。
魔女狩りの騎士たちの重装備に対し、少年は丸腰だ。
恐怖で身体が震えるが、そんなことは構うものかと、少年は声を張り上げる。
「嫌だね。絶対に退かない」
人間の子ども相手なら手出しはしないだろう――なんて算段は通用しない。
少年は、その風貌から忌み子としてこの森に捨てられたのだ。異形の扱いこそされ、人間扱いはされないだろう。きっと騎士たちには、魔女の使い魔のように見えていたに違いない。
騎士の一人がすっと手を上げると、どこからともなく矢が飛んできた。それは少年の足元に、すとんと落ちた。威嚇射撃だ。
「次は当てる。小僧、降伏するなら今だぞ。人間側に付くというのなら、命までは奪わないでやる」
どこか遠くのほうから、きりきりと弓の張り詰める音がした。
次は間違いなく矢を当てられてしまうのだろう。
わかっていても、少年は口を開く。
「……お前らが、僕に、村に、なにをしてくれたっていうんだよ」
そうして少年は、その赤い瞳で騎士たちを見据えて、言う。
「日照りで苦しいとき、なんにもしてくれなかった癖に。魔女を殺すときだけ活気づいてるんじゃねえよ」
少年の声は独り言でも呟いているかのようにか細くなっていき、騎士たちの耳には届かない。
むしろ、それが魔法の詠唱と捉えられたのか、飛ばされてきた矢が少年の足に刺さったではないか。
「ぐっ……」
思わず、少年は膝をついた。
毒矢の可能性を考慮し、すぐさま矢を引き抜いたが、手当てまではできない。だらだらと流れ出した血が、少年の衣服を赤く染めていく。
「もう一度訊く。小僧、その魔女を差し出せ。降伏しろ。人間側に付くのだ」
再度騎士から問われ、少年はゆっくりと立ち上がった。
そうして今一度、両手を広げ、魔女を守る姿勢を取る。
「ネリネは――この魔女は、僕の命の恩人で、僕が美しく殺すって約束してるんだ。お前らなんかに、殺させはしない!」
少年が見栄を切ったそのとき、転移魔法の準備が整った。
魔女の血で描かれた魔法陣が淡く光り、少年と魔女を包み込む。
騎士たちは慌てふためいていたが、魔法が展開できさえすれば、こっちのものだ。
「ライ、こっちにおいで」
魔女は少年を呼び、そっとその身体を抱き締めた。
それは、より転移魔法を安定させる為であることはもちろんのこと。
気持ちに嘘を吐かずに吐き出せたな、と感心したが故だった。
(6)――「それが魔女という生き物なのさ」
次に魔女が目を覚ましたとき、その身体は見覚えのない場所にあった。
いや、厳密に言えば知らない場所ではない。
魔女自身の転移魔法で飛んできたここは、数百年前に拠点にしていた家だ。人間が立ち入らない深い森の中に建てた家で、その自然の豊かさを気に入り、長居した場所でもある。
まだ残っていたのだな、と安堵した、そのとき。
がちゃりと音を立ててドアが開き、そこから見慣れた真っ白な少年が姿を現した。
「起きたのか、ネリネ。調子はどうだ?」
少年の手には、魔女の看病に使おうとしたのだろう、替えの包帯や、身体を拭く為のタオルがある。
「全身が痛い」
「だろうな。お前、三日間も眠ってたんだぞ」
「そりゃあ、苦労をかけたな」
そんなやりとりをしながら、少年は魔女の身体が横たえられているベッドの側にあった椅子に座る。
「傷は、治るんだよな?」
「いいや、もう治らない」
少年に妙な期待を持たせても意味がないと判断した魔女は、ばっさりと言い切る。
「私の身体に生まれつき在った魔術回路が破壊されたんだ。この身体に受けた傷は、もう二度と治ることはないだろうよ」
「そんな……。人間だって傷は治るのに……!」
少年は、信じられないと言わんばかりに声を震わせていた。
「それが魔女という生き物なのさ。はは、全身穴ボコだな」
茶化すように言って空気を和ませようとした魔女だったが、それは失策に終わる。
少年は、静かに涙を流していたのだ。
「僕以外に殺されそうになってんじゃねえよ……」
「安心しろ、ライ。私はまだ生きている。だからお前の手で、美しく殺してくれ。な?」
そう言って、魔女は少年の頭を優しく撫でた。
それさえやっとの思いで手を動かさなければならず、魔女は人知れず苦虫を噛み潰した。
(7)――「私は今夜、死ぬだろう」
不死身の魔女の終わりは、魔女狩りの襲撃から数年後、緩やかに訪れた。
むしろ、身体中を矢に貫かれた状態で数年ももったほうが奇跡としか、言いようがなかった。
少年は毎日甲斐甲斐しく魔女の傷の手当てを行い、少しでも滋養がつくような食事を作り続けた。
それでも、日々魔女は衰弱していく。
魔女は、寝ている時間のほうが長くなっていった。微睡みの中を生きるような生活で、それでも魔女は、日記を書くことだけは辞めなかった。
「私は今夜、死ぬだろう」
ある日の夜。
二人で夕飯を囲っていた折、魔女は零すようにそう言った。
「……そっか」
死期を悟った魔女に、少年はそれだけの言葉しか返せなかった。
激励も間然も、既にひとしきりやり終えたあとだったのだ。そのあとに残るのは、受容だけである。
その後の夕飯は無言のまま終わり、少年は自室に引っ込んでしまった。
少年にとってはこれが、初めて経験する身近な者の死になるのだろう。それに対してどう向き合えば良いのか、心の整理は必要だ。唐突に目の当たりにするより、事前に告知しておいたほうが良いだろうと思ってのことだったが、まさか自室に籠もるとは、魔女は考えていなかった。
最期は人並みに見送られて死にたいものなんだな。
そんなことを考えながら、魔女は嘆息した。
「ネリネ、起きてるか?」
と。
ドアをノックし魔女の部屋に入ってきたのは、ティーセットを持った少年だった。
少年は慣れた手つきで茶を淹れると、そっと魔女の手に持たせた。魔女一人の力ではティーカップさえ碌に持てなくなった今、当然少年の補助つきだ。
「このお茶は毒入りだ。あんたは、僕特製の毒入り茶で死ねるんだ」
少年のその言葉に嘘が含まれているかどうかは、今の魔女でも把握できる。魔術が使えなくても、少年は思考が顔に出やすいのだ。それは、金輪際教えてやるつもりはないのだけれど。
魔女は淹れてもらった茶を見、それから、少年の顔を見遣った。
自信に満ち足りた顔。それでいて、僅かに浅い呼吸。
ああ、そうか。そうなのか。
「嬉しいなあ」
それは、これ以上ない美しい死にかただ。
魔女はにこやかに笑い、少年の手を借りて茶を飲み干したのだった。
(8)――また魔女に会えるのなら、それだけで良かった。
魔女の死から数年後。
魔女狩りはいつの間にか衰退していき、過去のものとなり。
かつて魔女と暮らしを共にしていた少年は、立派な青年へと成長していた。
それだけの時間が経っても、彼の風貌が異端であることに変わりはなく。一人になった青年は、変わらず世間から身を隠すような生活をしていた。
青年が故郷の村に帰ることはなかった。
気味が悪いと自分を追放した村に、いまさら居場所などないとわかっていたからだ。
それ故に青年は、一人の生活を続ける。
なにごとも一人で。
なにもかも独りで。
とにかく生きることに必死になって、そして、すぐに疲れてしまった。
しかしそれは、当然の帰結ともいえよう。幼少期から、魔女を美しく殺すことを目標に生きてきた青年は今、成すべきことが皆無なのだ。
惰性で生きることに苦痛を感じ始めた頃、青年はふと、魔女とのある日の会話を思い出した。
――いつかこの森から出ることがあれば、魔女の図書館へ行ってみると良い。
魔女の図書館。
魔女が記したものは、その所有権が放棄されると、その図書館とやらに転送されるらしい。実際、魔女が死んだ次の日の朝、魔女の部屋にあったいくつかの本は消えてなくなっていた。
――寂しくなったら、私に会いに図書館へおいで。
その言葉に導かれるように、青年は北を目指して旅を始めた。
記憶の中の魔女に会ってなにがしたいのかは、わからない。それでも、また魔女に会えるのなら、それだけで良かった。
ただそれだけが、今の青年の原動力となった。
(9)――「はは、なんだ、寂しがり屋さんめ。もう来たのか」
旅を始めてから、どれだけの年月を消費したか。
青年はひたすらに北を目指し、ときに人々から聞き込みをし、ようやく魔女の図書館に辿り着いたのだった。
山奥の、そのまた奥。秘境も秘境といった、そんな場所に、おおよそ人間の手で作られたとは思えない荘厳な建物は、確かに存在していた。
青年は、恐る恐る建物に足を踏み入れる。
正面から入ったが、人気は全くない。自分の足音だけが反響する。
何者かに見られているような気配は感じるが、攻撃してくることはなかった。人間であることを理由に追い出されることも覚悟していたが、魔女がここを訪れることを勧めていたことを考えるに、来る者拒まずといった姿勢なのだろう。
長い廊下を歩いた先に、大仰な扉があり。
それを押して中に入ると、そこは広大な閲覧室になっていた。
書架は全て天井に届くほど高く、本に四方八方を囲まれているような気分になる。
これまでの人生で見たことのなかった光景に圧倒されながら、青年がさらに歩を勧めていくと、調査相談窓口に行き着いた。
「ようこそいらっしゃいました。此方は魔女の図書館です」
書棚を背に椅子に座っている司書は、無表情のまま青年を出迎えてくれた。
「ネリネ・サザーランドの書記は、ありますか?」
青年は、意を決して司書に尋ねた。
「お調べいたしますので、少々お待ちください」
そう言って、司書は背後にあった書棚から一冊の目録を取り出すと、文字をなぞるように調べ始める。
そして、青年が想定していた時間よりも早く、
「ネリネ・サザーランド。所蔵がございます」
と、返答してきた。
「ご存知かもしれませんが、魔女の書記は、記憶に取り込まれてしまう危険性がございます。それでも、書記の閲覧を希望されますか?」
「はい」
迷いは、旅の途中で捨ててきた。
今の青年にとっては、魔女と再会することが全てで、その後どうなろうと知ったことではなかった。
「承知いたしました。なお、閲覧後の貴方様の状態について、当館では責任を負いませんので、あらかじめご承知おきください」
青年がそれに頷いたのを見て、司書は足元に置いていたらしいランタンに灯りを灯すと、ゆっくりと立ち上がる。
「それではご案内いたします。こちらへどうぞ」
迷路のような閲覧室を、司書は迷いなく歩いていく。司書の歩調は、決して早くない。むしろ、遅いくらいだ。その歩みの遅さは、まるで『引き返すなら今のうちですよ』とでも言いたげで、青年の肩には自然と力が入った。
「こちらです。お帰りの際は、近くにあるベルを鳴らしていただければ、職員がお迎えにあがります。それでは、失礼いたします」
目的の書棚に到着すると、司書はそれだけ説明し、あっという間に姿を消した。
青年は、ゆっくりと書棚を見上げる。
そこには、一面魔女の書記が並べられていた。
よく書き物をしている人だとは思っていたが、これほどとは思わなかった。一部、煤けているものもあるが、これは暗闇の森に居た頃の書記だろう。所有権を放棄したら転送されるという条件であれば、あの日、魔女は森を離れるときに所有権を放棄することで、この記憶たちを守ったということだ。
青年は、見覚えのある本を一冊手に取った。
それは在りし日、ひまわり畑に誘ってくれたものだった。旅の道中、それと思しき場所を通ったが、焼け野原になってしまっていたことを思い出しながら、ページを捲る。
しかし、記憶の中には入れてくれない。
見慣れた魔女の筆跡が並ぶだけだ。
あの頃は、青年の意思など関係なく迎え入れてくれたというのに。一度見たものには、二度と入れないのだろうか。
青年は、手当たり次第に本を開いたが、結果は変わらず。
「寂しくなったら会いにおいでって言ったのは、あんただろ……」
青年は零れそうになる涙を必死に堪えて、本を手に取っては開いていく。
まさか、会いにおいでというのは、こうして文字列で思い出に浸れということだったのだろうか。
「……会いたい。会いたいよ、ネリネ……」
その声は、泣き出しそうな子ども同然の弱々しいものだった。
それでも、魔女の書記は青年を迎え入れてくれない。
結局、一冊も反応がないまま、とうとう、最後の一冊になってしまった。
それは、魔女が亡くなる直前まで書き記していた装丁の本だった。他の本と比べると、異常に分厚い。
青年は、震える手で、それを手に取る。
そして本を開いた、次の瞬間。
青年は、ひまわり畑の真ん中に立っていた。
慌てて、青年は周囲を見回す。
ひまわり畑の中央はぽっかりと空間ができていて、気持ちの良い草原が広がっている。近くには、こじんまりとした家が立っていて。玄関先には、色とりどりの花が植えられた花壇がある。
そして。
その花壇に水をやる人影が、在った。
魔女だ。
もう何年も寝たきりの姿しか見ていなかったから、上機嫌で花壇に水をやっている姿を見ただけで、青年の涙腺は決壊してしまう。
青年は無我夢中で走り出し、勢いそのまま、魔女に抱き着いた。
「はは、なんだ、寂しがり屋さんめ。もう来たのか」
魔女も青年を抱き返し、乱暴に青年の頭を撫でる。
「会いたかった……会いたかったよ、ネリネ……」
「すっかり正直者になったなあ、ライ。良い子だ」
髪、瞳、声、抱き締めてくれる力の強さ。
そのどれもが懐かしい。
ずっとずっと、こうしていたかった。
「良いよ。お前が望むのなら、ずっとここに居ても良いんだ」
「本当に?」
「もちろんさ。私は嘘を吐いたことがないだろう?」
「……そうだな」
魔女は、ゆっくり青年の頭を撫で続ける。
青年はうっとりと、その優しさに浸かりながら、考える。
きっとここは、魔女が作り上げた空想の世界だ。魔女の持ち得る全ての記憶を集結させ、彼女が美しいと思う、最高傑作の終の住処。そこに青年を迎え入れてくれたことが、心の底から喜ばしい。
「満足するまで、ここに居れば良い。ここなら、誰もお前を非難したりしない」
魔女の言葉に、青年はこくこくと頷き、それから、魔女を抱き締める力を緩めて、彼女の顔を見た。
「ただいま」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでも青年は、満面の笑顔を浮かべて、そう言った。
「おかえり」
青年の涙をそっと拭いながら、魔女も笑顔で答えた。
それ以降、外の現実世界で青年の姿を見た者は居ない。
end