【短編小説】腹ぺこ吸血鬼の恩返し
(1)――「血を、寄越せ……!」
その日の帰り道は、生憎の雨だった。
今日はせっかくの満月の日だっていうのに、空は一面厚い雲に覆われ、月のつの字もない。
雨だ。
豪雨だ。
土砂降りだ。
ざあざあと、雨が強くアスファルトを叩いている。
そんな最悪な帰り道の、途中。
暗い道に、思い出したかのようにある街灯の下。
そこに、一人の女が座り込んでいた。
ぐったりと項垂れ、意識を失っているように見える。
酔っ払いだろうか。それにしたって、酔い潰れるには早い時間のような気もする。バイト終わりの帰り道だが、そうは言ってもまだ日付が変わる前である。
起こすべきかどうか、少し、迷う。
なにせ、なにかと物騒な世の中だ。酔っ払い一人の所為で人生を棒に振られる危険だってある。
「……あの、大丈夫ですか」
逡巡の末、俺は酔っ払いに声を掛けることにした。
これを放置して明日の朝、ニュースで悲惨な結末を知るなんて寝覚めの悪いことになるよりかはマシだと、そう思ったのだ。
「う……うう……」
肩を軽く揺すってみると、酔っ払いは小さく唸った。
しかし、こうして近寄ってみてわかったことだが、彼女からはあまりアルコールのにおいはしなかった。酒に弱いのに飲まざるを得なかったとか、そんな感じだろうか。それなら、水を飲ませて落ち着かせれば、それで大丈夫な気がする。水なら、ちょうど今、買ったばかりで口をつけていないものが手元にある。
「……ど……喉、乾いた……」
あれこれ段取りを考えていると、酔っ払いが呟くようにそう言った。
「水、ありますよ。これ、飲めますか」
蓋を開けて口元に近づけると、酔っ払いは微かに震えながら口をつけた。
が、すぐにむせ返ってしまう。あんまりにも激しく咳き込むものだから、そのまま吐いてしまうんじゃないかと危惧するほどだった。
「違う……」
酔っ払いは弱々しく首を横に振った。
しかし、酔っ払いには水以外にないだろうに。
そう嘆息したのも、束の間。
「血を、寄越せ……!」
息も絶え絶えに、それでいて俊敏な動作で、俺は酔っ払いに抱き着かれた。
待て待て待て、今すげえ不穏な言葉が聞こえたぞ?
そう思う間もなく、首にがぶりと噛みつかれる。
「――いってぇなクソ!!」
「ふがっ」
全身全霊。
火事場の馬鹿力。
とにかく全力で酔っ払いを引き剥がしにかかると、存外簡単に成功してしまえた。酔っ払いは動きこそ俊敏だったが、力はほとんど入ってなかったから成功したとも言える。
「急に人様の首に噛みつきやがって、なんだお前、吸血鬼かよ!」
また抱き着かれるわけにはいかないと、適正以上の距離を取り、俺は文句を垂れる。
酔っ払いはと言えば、強引に引き剥がされたときに意識がはっきりしてきたのか、おろおろとこちらとの距離感を測りあぐねているようだった。そんな動揺と落胆と遠慮が入り混じりつつ、酔っ払いは、
「はい、吸血鬼です……」
と、素直に俺の冗談を肯定してきたではないか。
「……マジで?」
「マジです」
再度確認し、それに頷かれ、改めて彼女を見る。
確かに、瞳は人間のそれではないし、獰猛な獣のような牙もある。容姿にしたって、この世のものとは思えない美貌だ。しかし、なにより決定的だったのは、視線をちらりと上に向け、カーブミラーを見たとき、そこには俺しか映っていなかったことである。
「……マジかよ」
「マジなんですって」
酔っ払い改め吸血鬼は、言う。
「なにぶん何ヶ月も血を飲んでいない状態でして。さきほどは失礼しました」
そうして深々と頭を下げられれば、こちらとしても溜飲が下がるというものだ。
「謝ってくれるんなら、もう良いよ。これからは気をつけてな。それじゃ」
「待ってください!」
面倒ごとには関わりたくない俺は、早口にそれだけ言ってこの場をあとにしようとしたのだが。叫ぶように呼び止められては、足を止めざるを得なかった。
「……なに」
嫌々振り向きつつ、しかし、このあとなにを言われるかはなんとなくわかっていた。
「血を、飲ませてください!」
ほらねー。
(2)――「うみゃ……うみゃ……」
予想が的中したことで脱力しつつ、俺は言う。
「やだよ。俺、まだ死にたくないもん」
「そ、そんなに飲みませんよ!」
「本当に?」
「本当です!」
そう言われても、安心なんてできるわけがない。体の良いことを言って俺を騙し、血を飲み干す悪党かもわからないのだ。
「相手が死ぬまで血を飲むなんて、絶対にしませんよ! そんなことしたら、吸血鬼ハンターに追われちゃいます」
「あんたは既に俺を襲ってるわけだけど、それでハンターは動かないの?」
「はい。殺したわけではないので」
割と判断基準緩めなんだな、吸血鬼ハンターって。
……なんて、なんだか和やかに会話をしているが、今だって俺の血を彼女に分け与えるかどうかの駆け引きの最中である。
「わかった。それじゃあ、俺が失血死するほどの血を飲まないと、信じるとしよう」
さっさと帰って楽しみにしている配信を観たい俺は、言う。
「俺はあんたに血を飲ませる。それで、あんたは?」
「『あんたは』とは?」
「等価交換、物々交換……どっちでも良いけど、なにか見返りが欲しいって話」
今日日、献血だってあれこれと景品が貰えるのだ。
行き倒れの吸血鬼に酷なことを言うかもしれないが、これがお互いの精神衛生上の為だと思う。
「それなら……夕飯を奢ります!」
「残念、もう買ってあるんだ」
持っていたビニール袋を見せ、俺は言った。さっきあげた水だって、今夜のぶんにするつもりだったのだ。
「じゃ、じゃあ、朝ご飯を……」
「俺、朝食食べない派なんだよね」
「お昼は……」
「昼は学食で食べるから無理」
「で、でしたら明日の夕飯は、如何ですか?!」
「明日の夕飯なら、うん、大丈夫」
でもさ、と俺は続ける。
「あんたに奢らせて、俺一人が食べるのって、あんまり気が進まないんだけど」
「ああ、ご心配なく。わたし、満腹感を得られないだけで、人間の食事も楽しめるタイプの吸血鬼ですので」
「ふうん」
得意気に胸を張った吸血鬼に、俺は、大変そうだなあ、なんて月並みな感想を飲み込みつつ頷いた。
「それでは、交渉成立……ですね」
口から漏れ出る涎をじゅるりと啜りながら、吸血鬼は言った。
せっかく綺麗な顔立ちをしているのに、台無しである。
「もう一度言うけど、俺が死ぬまで飲むんじゃないぞ」
「もちろんです!」
吸血鬼は、俺の念押しの確認が聞こえているのか怪しいほど、俺の首一点を見つめながら、首肯した。
大丈夫か、これ。
一抹の不安が脳裏を過る俺をよそに、吸血鬼はがばっと俺に抱き着いたかと思うと、かぷりと首筋に噛みついた。
「いっ……」
堪らず声が出てしまったが、しかし、さきほどより痛みは少ない。あくまで最初のは、我を失い過ぎていたが故のものだったということか。
「うみゃ……うみゃ……」
首元で、吸血鬼がなにやら喋りながら俺の血を飲んでいる。喋りながら食べる子猫か。
そんなしょうもないことを考えている自分が馬鹿らしくなるが、そうでもしないと、美女に抱き着かれ首を噛まれているという状況に、どうにかなってしまいそうな自分が居るのだ。さっきから、汗が尋常でない。じっとりとかいた汗で服が背中に張り付いて気持ちが悪い。早く終われと、そう願うばかりだ。
「――ふはー! ごちそうさまでしたっ!」
それから、どれくらい経った頃か。
少なくとも、俺の頭がくらくらとしてきた頃になって、ようやく、吸血鬼は満足そうにそう言って俺から離れた。
「いやあ、おかげさまで生き返りました! おにーさんの血、めっちゃ美味しかったですっ!」
「そりゃあ、なによりだよ……」
身体はふらつくが、これだけ元気になったのなら良かったと思うのは、あまりにお人好し過ぎるだろうか。けれど、これだけ美しい満面の笑みを向けられたら、それで良いと思ってしまうのだ。
「それじゃあ、おにーさん。明日の夜、駅前広場まで来てください」
今度は不敵な笑みを浮かべ、吸血鬼は言う。
「おにーさんの食べたいもの、なんでも奢ります。なにが食べたいか、考えておいてくださいね」
そう言うと、吸血鬼は指をぱちんと鳴らした。
途端、今までそこに居たはずの姿が、霧が晴れるように消えてなくなり。
その場に残ったのは、ざあざあと降りしきる雨と、貧血気味の俺一人だけだった。
(3)――「やーい、ひっかかったー」
翌日の夜。
時間を決めてなかったから、最悪何時間も待つことになるだろうと覚悟を決め、俺は駅前広場に来た。
昨日とは打って変わって、晴れ渡った夜空が広がっている。満月から少し欠けた月は、十六夜の月と呼ぶんだったか。
「おにーさん」
と。
雑踏の中で空を見上げていた俺の肩を叩く声があった。
聞き覚えのある声に振り返ると、彼女の人差し指が俺の頬に刺さった。
「やーい、ひっかかったー」
「……」
改めて振り返ると、そこには昨晩空腹で行き倒れていた吸血鬼の姿があった。
ここへ来たとき、ざっと見回したが、こんなに目立つ人は居なかったように思うのだけれど。いつの間に来たのだろう。いや、こんなしょうもない悪戯を仕掛ける為に、どこかに隠れていた可能性だってある。
「ようやく来ましたね、おにーさん」
「どこで待ってたんだ?」
「わたしの見た目って結構人目を引くみたいなので、姿を消して待ってました。で、おにーさんが来たから、姿を現しただけです」
「それは……」
誰かに見られていたら大問題なのではないか。
そう思ったのだが、吸血鬼はけろりとした様子で、
「でもほら、実際、誰も気にしてないじゃないですか。そんなものですよ」
と言った。
「……確かに」
認めたくはないが、俺の周囲に、明らかに動揺したり驚愕したりしている人間は居なかった。
適度に無関心。
適度に無反応。
都心部の希薄な人間関係に万歳、というわけだ。
「それで、おにーさん。どこに食べに行くか、決めてきました?」
「もちろん」
頷いて、俺は駅前にあるひとつのビルを指差す。
「あそこの焼肉屋に行きたい」
「ははあ、高級焼肉に洒落込もうというわけですね。良いですねえ、遠慮がなくて。奢り甲斐があるというものです」
「え、マジで良いのか?」
「良いですよ」
「あそこ、かなりお高いぞ?」
「でも、おにーさんはそこに行きたいんですよね」
吸血鬼は、どんと己の胸を叩いて言う。
「ご心配なく! こう見えてわたし、お金には結構余裕があるのです」
「へえ」
詳細を聞こうとは思わないが、存外人間社会に溶け込んでいるようであることはわかった。それなら、遠慮なく奢ってもらうとしよう。
(4)――「これからも、わたしにおにーさんの血を飲ませてくれませんか!?」
「おにーさん、マジで遠慮しないですね。いや、良いんですけど」
件の焼肉店に入り、注文した肉が届くと、俺は次々に焼き、そして食べていった。もちろん、吸血鬼のぶんを取り分けることは忘れていない。一人で焼肉を食べることもあるが、やはり誰かと食べるほうが美味しいのだ。
「誰かさんのおかげで、貧血気味なんでな。栄養つけなきゃいけないんだよ」
俺はこれまで健康そのものだった為、人生初の貧血気味という状態に、今日は四苦八苦してきたのだ。血が足りないというのが、こんなに大変なことだとは思わなかった。
「いやあ、お陰様で命拾いしたんですよ。おにーさんはわたしの命の恩人です。ささ、こちらのお肉もお食べください」
「ありがと」
「そろそろ冷麺とか頼みますか?」
「いや、それはもうちょいあと」
「おっけーです」
必要最低限の会話を挟みつつ、黙々と食べ続けた。
吸血鬼と食事をするなんて、字面だけ見たらなんて頓痴気な状況だと思うが、これが思ったより居心地が良かった。
人間の食事で満腹感を得られないと言っていた吸血鬼が、俺のハイペースな食事に見事付き合いきったというのも、大きいだろう。
そうして、締めのデザートを注文したところで、
「あの……おにーさん」
と、吸血鬼がなにやらおずおずと話し始めたのである。
「本当に、おにーさんのお陰で、しばらくは血を飲まなくてもやってけるくらいに元気になったんですよ。だけど、その……」
なんだろう、嫌な予感がする。
早くデザートのアイスが来てくれないか、と通路側にちらりと視線を遣った、その隙を突いて、吸血鬼は立ち上がり、俺の肩を掴んだのである。
「これからも、わたしにおにーさんの血を飲ませてくれませんか!?」
ほらね、嫌な予感が当たったよ、もう。
吸血鬼の指は、痛いくらいに俺の皮膚に食い込んでいる。
「おにーさんの血、マジでほんと、めっちゃ美味しくって。わたしの長い吸血鬼人生でも、こんなに美味しい血を飲んだのは初めてっていうレベルで美味しくって」
興奮気味なのか、吸血鬼はたどたどしい言葉選びで語る。
「こんなに美味しい血を、一度限りっていうのはあまりに酷だなって思ったんです!」
「わ、わかったから、ちょっと落ち着け」
「でもおにーさん!」
宥めにかかった俺に食い下がる吸血鬼。
俺は現実時間にして二秒ほど考え抜いた末に、通路側を指差した。
「デザート、来てるから」
そこには、二人分のアイスをトレイに乗せた店員さんが立っていた。
「あうう……しゅみませ……」
吸血鬼は途端に大人しくなり、席に着く。
店員はそのタイミングを見逃さず、ささっとテーブルにアイスを置くと、「ごゆっくりー」と、取り繕った笑顔を浮かべて場をあとにした。
「……あんたの要求はわかった」
アイスを一口食べてから、俺は言う。
「こうして奢ってくれるんなら、うん、別に良いよ」
「本当ですか!?」
「うん」
バイトで生活費を工面している苦学生にとっては、血のひとつでここまで贅沢させてもらえるなんて、破格の条件だ。
だから俺は、素直に頷いて見せたのだった。
「じゃ、じゃじゃじゃあ、三ヶ月に一度くらいの頻度で良いので、お願いできますか……?」
「献血もそれくらい間隔を空けるっけ。うん、それなら、三ヶ月に一度ってことで」
「ほああ……!」
吸血鬼は、自分にこんなに都合の良いことがあって良いのか、とでも言いたげな奇声を上げた。
「それよりほら、アイス食べちゃえよ。溶けるぞ」
「あ、はい」
アイスを食べるよう促すと、吸血鬼はにこにこと笑みを浮かべながら食べ始めた。
この笑顔にやられたんだよなあ、なんてことは、本人には言わない。
大学の友達にでも話したいところではあるが、行き倒れの吸血鬼を助けたらギブアンドテイクの関係になった――なんて、あまりに荒唐無稽で、信じてもらえないだろう。
誰にも言えない、ここだけの話である。
終
お題ガチャで書いた小説です。
【文章】 「汗で服が背中に張り付いて気持ち悪い。」
【単語】 「吸血鬼」「月」「雨」
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