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【短編小説】並行世界へ渡る力を持つ「私」が元の世界へ帰れなくなった話

『彼方此方に彷徨う蝶はほぞを噛んだ』


 大人になった今でも忘れられない、鮮明で鮮烈な記憶。
 それは、私が十歳のときに足繁く通った田舎町の記憶だ。
 そうはいっても、その町は実在していない。それは私の夢の中にだけ存在していて、私は続きものの夢として、その町を頻繁に訪れていた。
 始めのうちは、リアルな夢だと思うだけだった。日差しの暖かさも、風の冷たさも、怪我をしたときの痛みも、人に触れたときの感触も、全てが現実と同じだったのだ。十歳という年齢でそれだけリアルな夢をみ続けると、現実との境界線が曖昧になりそうなものだが、私がそうなることは最後までなかった。なにせ、その架空の田舎町には明確にひとつ、相違点があったのだ。
 それは、所謂『不思議なこと』が、当たり前に存在しているという点だ。
 ある日、春の陽気に踊らされるように、私は公園で名前も知らぬ子どもたちと遊んでいるうちに転倒し、膝を擦りむいてしまった。夢の中だというのに膝はずきずきと痛み、私はぼろぼろと涙を零した。様子を見に来た子どもたちは怪我の具合を確認すると、そのうち数人が全力疾走で近くの林に入って行ってしまった。別段、彼らの所為で転んでしまったわけではないのに、一体どうしたというのだろう。
「あの子たち、どこ行っちゃったの?」
 突拍子な行動に困惑した私は、すぐ隣で心配そうにしている男の子に尋ねた。
 すると彼は、それが一般常識であるかのように、
「『飛んでけおばさん』を呼びに行ったんだよ」
と言ったではないか。
 聞き慣れない言葉に首を傾げていると、彼はなにを勘違いしたのか、
「え、知らないの? おばさん、あそこの林に住んでるんだよ」
などと、的はずれなことを言う。
「お花がいっぱい咲いてるときで良かったね。きっとこの怪我も、きれいに治るよ」
 彼の言うことは徹頭徹尾、意味がわからなかった。だから、わからないなりに彼の言葉を噛み砕き、『飛んでけおばさん』が治療しにここへ来てくれるのだろうと解釈するしかなかった。
 ほどなくして、林の中に入って行った子どもたちが全員、公園へ戻ってきた。
 一人は中年女性の手を引き、それ以外の子はそれぞれ小さな花束を手に持っていた。
「おばさん、この子だよ」
「お花、これで足りる?」
 子どもたちは矢継ぎ早に中年女性に喋りかけ、空いているほうの手にぐいぐいと花束を押し込もうとする。花束と言っても、野山に生えている草花で作られたもので、花屋で売られているものとは比べ物になるはずもないお粗末なものだ。
 そして、連れてこられた中年女性はといえば、治療道具など一切持っておらず、あらあらまあまあ、なんて言いながら私の元へ来て、私の膝の怪我をじっと見つめてくる始末だ。これではまるで葬式のようではないか、と私が眉を顰めたのも束の間。
「うん。大丈夫、みんなが持ってきてくれたお花で足りるよ」
 中年女性は、私の膝を見つめている間にもその手に押し込まれ続けていた花束を両手でぎゅっと握り締め、そう言った。
 中年女性は、両手で握った花束を自身の顔に寄せると、深く息を吸い込んだ。花の匂いを嗅ぐにしてはあまりに大仰な動作で、しかし、みるみるうちに花束は萎れていく。これからなにが始まるのか全く推測が立たなくなった私は混乱し、いつの間にか、すっかり涙は止まっていた。
「痛いの、痛いの、飛んでけー!」
 中年女性はそう言って、私の膝に片手をかざした。
 こんなときに、子供だましのおまじないをするだなんて。
 一瞬にして私は怒りの沸点に達した。が、中年女性の手が離れるのと同時に、それもすぐ収まってしまう。
 じくじくと血を流していた傷口が、すっかりきれいに治っていたのだ。痛みもなくなっていて、最初から怪我なんてなかったかのようである。
「え? な、なんで……?」
 普通、怪我は時間をかけて治していくものだ。どれだけ小さい傷であっても、一瞬で治ることはない。しかし今、目の前で確かに怪我が瞬時に完治した。
「君、初めて見る顔だね」
 呆気に取られる私の頭を撫でながら、中年女性は言う。
「私はね、植物から生気を貰って、人の怪我を治すことができるんだよ。また君や、君の友達が怪我をしたら、花束を持って私を呼びにおいで。私はいつも、この先の林の中にある家に居るから」
「う、うん、わかった」
 これが、私が夢の中の田舎町で初めて遭遇した『不思議なこと』だった。
 夢の中。
 だから、非現実的なことが当たり前のように起こる。
 十歳の私はそれで納得できたし、同時に、そんな夢をみることができる自分を誇らしく思った。現実の同級生が語る夢の話は、せいぜいが知り合いが出てきて頓痴気な行動をした、くらいのものだ。しかし私のみる夢は、自分の想像力を凌駕するほど魅力的で圧倒的だったのだ。その優越感から、私は何度か、友達に町の話をしてみようかとも考えた。しかし、そんなことをしたら、あの町は消えてしまうのではないか――そんな漠然とした不安感に苛まれ、ついぞ現実で町の名前すら口にすることはなかった。
 『飛んでけおばさん』と遭遇して以降、それが合図となったかのように、私は数々の不思議な体験をした。人の言葉を話すカラスと出会ったり、千里眼の如く遠くを見通せる人と話したり、水を自由自在に操る人のパフォーマンスを見せてもらったり。私がこの町に訪れる時間がいつも夕方――ちょうど放課後になる頃――だったこともあって、外で遊ぶ子どもたちに混ざって、現実ではできないような遊びもたくさんした。
 そうして日が暮れ、子どもたちが家路に就く時間になると、私はそれとなく輪から外れ、近くの神社へ向かう。特定の神社でなければならないということはなく、鳥居のある神社であれば、どれでも問題はなかった。どういう理屈なのか、神社の鳥居をくぐると私は夢から覚め、現実の世界で朝を迎えるのだ。体力が無尽蔵だった当時の私は、夢の中でたっぷり遊んだからと言って起床後に疲弊することもなく、むしろ一層上機嫌になって登校していた。

 しかし、夢の中にある町に通う日々は、ある日、前触れなく終わりを迎えることとなる。
 いつものように町で遊び回り、いつものように夢から覚めようと、近くの神社に向かった。
 なにも変わらない、いつも通りの帰り道。
 だが、その日は鳥居をくぐっても、私の意識は夢から覚めてくれなかった。
 何度やり直しても、景色は変わってくれない。太陽はそれを面白がって見物しているかのように、じれったい速度で沈んでいく。
 まさか。いや、そんなはずはない。今まで上手くいってたじゃないか。
 不安がる自分を落ち着かせようとして、ぐっと目を瞑る。しかし、眼球がじんわりと熱を持ち、次第に涙が閉じた瞼から零れ落ちるだけだった。視界が歪む。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 動揺してぐらつく思考回路では、まともな答えは導き出せそうにない。それでも、思考を止めてはいけない。止めたらお終いだと、そう思った。
 鳥居の前に蹲り、ぼたぼたと地面に落ちていく涙を眺めながら、私は思案にふける。
「――こんにちは。いや、もうこんばんはの時間かな?」
 と。
 突如として頭上から降ってきた女性の声に、私は反射的に顔を上げた。そうしてほぼ同時に、私に声をかけてきた人物が、この町でも段違いに『普通じゃない』と知ることとなる。
 真っ直ぐ艷やかな黒髪は、腰元に届くほど長く。
 深緑色を基調としたワンピースは、足首がちらりとのぞくほどのロング丈で。
 それだけの説明なら、至極一般的な女性の姿だろうが。
 その人の身長は、たまさか私の倍ほどあるのではないかと思うほどあったのだ。
 いくら私がしゃがんでいるからと言っても、その背丈はあまりに人間離れしていた。
 見上げても上げなりない高い場所にある顔は、両目で私を視界に捉えると、にっこりと笑みを深めて、
二木ふたつぎ充紀みつきだね?」
と、当然のように私の名前を呼んだのだった。
 刹那、この人は人間じゃない、と脳が警鐘を鳴らし始める。涙はいつの間にか、引っ込んでいた。
 この人の口元は確かに笑っているが、目はそうじゃない。どころか、獲物を狩ろうとするような、獰猛な視線とさえ思える。
 逃げなきゃという本能と、逃げられないという直感が衝突した結果、私の身体は硬直し、歯を鳴らしながらその人を見つめることしかできなかった。
「そう怯えなさんな。確かに儂は外の人間は嫌いだが、取って喰うわけじゃない。儂は御主と話をしに来ただけだ」
 穏やかな笑顔を浮かべたその人は、ぱちんと指を鳴らした。
 すると、しゅるしゅると木の蔦が伸びてきて、鳥居のそばに、あっという間に椅子が二脚できあがったではないか。規格外な大きさの存在が作った椅子は、案の定、規格外に大きく。とてもじゃないが、私が自力でよじ登れる高さとは思えなかった。
「ほら、早う座れ。……嗚呼、御主には大き過ぎたな」
 私が自力で椅子に座れないと気づくや否や、その人は再び指を鳴らす。どこからともなく現れた蔦は、優しく私の身体を持ち上げると、椅子の上へと運んでくれた。そのまま身体を拘束されるのではないかと身構えたが、蔦は素っ気なく私から離れ、地中へと戻っていく。
「今日は夕焼けが綺麗だから、きっと時間の流れも遅くなる。御主とはじっくり話ができそうだ」
 この町には、時間の流れを遅くできる人もいるのか。それなら今からでも会いに行って、もっともっと遅くしてもらえるだろうか。その間に、どうにか帰る手段を見つけなければ。
 そんなことを考えた矢先、その人は、
「駄目だ」
と、即座に牽制してきた。
 なんだ、今のは。まるで――
「『まるで心の中を読まれているみたいだ』、か? そうだよ、儂には今、御主の心の声が聞こえている。どうしてかって、そりゃあ、儂は神様みたいなものだからなあ。順を追って儂が御主の前に現れた理由を話してやるから、御主は黙って聞いておれ。良いか、相槌も返事もなしだ」
 そう言って、自称神様も蔦でできた椅子に腰を落とした。
 私の椅子のほうが大きいからか、こうして座っていると、さきほどより感じる威圧感は薄まったように思える。とはいえ、相変わらず脳からは警報が鳴り響いているような状態で、私は緊張した面持ちで頷いて見せた。
「聞きわけが良くて助かるよ。儂と会話をしてはいけない理由も追々話すが、そうだな、まずは単刀直入に訊こう。御主、この世界の人間ではないだろう?」
 それは鎌をかけているなんてものではなく。
 こちらはとっくに見抜いているのだから、大人しく認めろ、と。
 小学生の私でも、言外からの圧をはっきりと感じ取れる言いかただった。
 私は、ぷらぷらと所在なさげに揺れる自身の足先を見つめながら、小さく頷いた。
「ここは御主の夢の中にだけ存在する世界ではない。並行世界――或いは、パラレルワールドと言ったほうがわかりやすいか。同じようでいて、決定的にことわりの異なる世界と言っても良い。この世界に本来御主は存在しないし、御主の世界にこの町は存在していない。並行である以上、決して交わることはないし、干渉もしないものだ。それがどういうわけか、御主は何度も世界の境界を飛び越えてきてしまっている。そちらの世界に、そういった能力を持つ人間は存在し得ないはずなのに、だ。世界の特異点なのか、歪みなのか、或いは――いや、それについての追求は儂の役目ではないし、今この場で取り上げる話題ではないな」
 こほん、と小さく咳払いをし、その人は話題の仕切り直しをする。
「問題は、御主が世界と世界の間を頻繁に行き来し過ぎたことだ」
 私がこの町に訪れるのは、週に三回か四回ほど。
 それが約半年間、続いていた。
「御主の場合、世界を行き来できる力は有限だ。回数券ではなく電池式、その電池も使い切りタイプである……と例えれば、理解し易いか? ともかく、御主は今日この町に来た時点で、その力をほとんど使い果たしてしまったのだ。御主が自力で元の世界に帰るだけの力を、今の御主はもう持ち合わせていない」
 認めなくなかった事実を、その人は容易に口にした。
 大人の人が、否、不思議な力をいくつも使う神様みたいな人に断言されてしまえば、それは子どもにとっては確定事項の通告、或いは死刑宣告と大差ないように思えた。
「家に帰りたいか?」
 願ってもない言葉に、私はそれに即座に頷いた。
「ははっ、素直で大変よろしい」
 その人は口を開けて笑い、それから、
「儂が御主を元の世界に帰してやろう」
と言った。
 良かった、と安堵するのとほぼ同時に、脳裏に不安が過る。
 エネルギー切れで元の世界に帰れなくなった子どもを、どうしてこの人は笑顔で帰してくれると言ったのだろう。対価や代償が必要なのではないだろうか。仮にそれらが必要だとして、私が支払うことはできるのだろうか。
「聡い子だね。だが、対価や代償なんてものは必要ない。御主はこの町で特段悪事を働いたわけでもなく、むしろ、町の人間と仲良くしてくれたからね。それだけで充分だ」
 そんな理由で良いのだろうか、と疑問に感じた私に、その人は当然のように、良いんだよ、と返し、なにごともないように話を続ける。
「さっき、儂は自分を神様みたいなものだと言っただろう? 正確には、人間に信仰され存在する神様よりも、もっと上位の存在なのさ。御主が異界の上位存在と会話をしたら、それが縁になって、この世界に留めかねん。だから御主が儂と口を利くことを禁じたのだ。そういうわけだから、帰るべき世界の輪郭を捉えている御主をそちらへ送ることくらい、儂にとっては造作もないことなのだ」
 強いて言えば、とその人は続ける。
「御主の世界に帰ってからのほうが注意すべきだな。御主は力を『ほとんど』使い果たしているが、『全て』使い切ったわけではない。極端な話、もう一度この町へ来られる可能性だってある。だが、来てしまったら、それが最後だ。力を使い切ってしまったら、元の世界との繋がりは完全に断たれ、いかな儂といえども、帰すことはできなくなる。良いか、二度と此方へ来てはならんぞ。それは肝に銘じておけ」
 刹那、背中に氷水でも流し込まれたように、全身が粟立った。
 自分がどれだけ危ない橋を呑気に歩いていたのか、私はこのときになって、ようやく理解したのだ。
「話は以上だ。さあ、御主を元の世界へ帰そう」
 言って、その人が指を鳴らすと、蔦でできた椅子はゆっくりと解けるように解体されていく。地中に戻っていく蔦に合わせて地面に足をつけ立ち上がると、隣には、既に椅子から腰を上げたその人が居た。
「おいで」
 その人は、私を鳥居の前へ来るよう手招きした。
 そうして私が来たことを確認すると、その人は鳥居の額束の辺りに触れた。
 次の瞬間、ふわりと向かい風が吹く。
 鳥居の向こうから吹いている風なのに、どうにも違和感が拭えなくて、私はそれが元の世界から吹いている風なのだと感じた。きっとこの人が、元の世界へと繋げてくれたのだろう。
「いつも通りに帰るだけで良い。この鳥居をくぐれば、御主の本来在るべき世界に帰れる。さあ、お行き」
 優しい声音で言ったその人の顔を、改めて見る。
 日もほとんど沈み、辺りは薄暗くなりつつある。逢魔ヶ刻だ。その人は相変わらず、獰猛な視線を私に向けつつ、穏やかな微笑みを浮かべていた。
 上位存在というものがなんたるかはわからなかったが、不思議な力を持つ神様みたいな人であることに違いはない。世界に混じり込んだ私という異物を乱暴に放り出すことだってできただろうに、この人は、とても丁寧に説明をしてくれた上で送り返してくれる。
 だから私は心の中で、ありがとうございます、という言葉を大事に抱えて。
 精一杯の謝意を込めて、頭を下げた。
 その人は小さくはにかんで、それから私に手を振る。
「さようなら。二度と会わないことを願っているよ」
 私はその言葉に大きく頷き、両手を振って、鳥居をくぐった。
 いつも通り、朝、自分の部屋で目を覚ました私は、言いようのない喪失感と安堵感との間に板挟みになり、わけもわからず涙を流したのだった。

 あれから、二十年という歳月が流れた。
 あの田舎町――透目町すきめちょうへ行かなくなってから、加速度的にあの日々の輪郭さえぼやけていき、次第にあの町のことを思い出す機会は減っていった。今となっては、一時期だけとてもリアルな夢をみていただけだったのだと、そう思う。
 それでも。
 日毎にぼやけていくあの頃の記憶の中に、あの人から言われた言葉だけははっきりと耳の奥に残っている。
 ――二度と此方へ来てはならんぞ。
 あの日、あの人が私の前へ現れたこと。そして、忠告をしてくれたこと。なにより、元の世界へ返してくれたことを、心の底から有り難く思う。
 透目町で過ごした日々の記憶はぼやけてはいるが、完全に消失したわけではない。漠然と、楽しかったことは覚えている。だから、人生の難所に立ったときは、あの町へ逃げ込んでしまいたいと考えることが多々あった。しかしその度、あの人の忠告が脳裏を過り、馬鹿なことを考えている暇があったら現実と向き合おう、と方向転換をしてこられたのだ。
 そうやって、私は高校受験や大学受験、就職活動という人生の分岐点や、人間関係に苦しんで逃げ出したいときも、どうにか乗り越えてきた。乗り越えられてきていた。きっとこれから先も、私はそうやって生きていくのだろう。
 だって私には、なにもない。
 そうやって生きていく以外の方法を、私は知らない。
 私なんていうのは、子どもの頃にみた夢に感化され、小説家や漫画家を目指し、そして挫折した、普通の人間だ。別段、普通であることを否定するつもりはない。大多数の人間が歩む道のりであるが故に、社会的信用を得やすいし、安定した収入による安全な日常が保障される。普通であることは、なにより大切なこととも言える。
 大学を卒業し、就職し。いずれは誰かと結婚し、子どもをもうけるのだろうか。そうして定年まで働き通したあとは、どうなるのだろう。私が透目町で味わった日常は、きっとそこにはない。なにせ不景気な世の中だ、死ぬまで金の心配をしながら労働をすることになるのかもしれない。
 いや、そんな先のことまで心配したところで無意味かもしれない。私は虚しいだけの生物だ。夢に破れ、日々会社員として働いて生活費を稼ぎ、趣味といえるほどの趣味もなく。死ぬまでの時間をそうやって浪費し続けるだけ。それだけの生き物。
 有り体に言えば、そう、人生に疲れたのかもしれない。
 いや、どちらかといえば、人生を少し休みたくなった、と言ったほうが正確か。
 ともかく、毎日同じことを繰り返し、既定路線を歩きつつも常に先の心配をし続ける日々から、少しだけ離脱したくなったのだ。
 理由とか原因とか、そんな大層なものはない。身体も精神もいたって健康そのもので、だからこそ、健康であるうちに一度全てから離れて休む必要があった。
 しかし、それを周りにどう説明したものか。健康なのだから休職はできない。だからと言って退職すれば、再就職するまでが大変になる。結局のところ、身体なり精神なりが壊れないと休めないのだ。社会とは、なんとも面倒な仕組みをしていると言わざるを得ない。
 ……なんて。
 最近は、そんなことばかりを考えている。
 久しぶりに透目町のことを思い出したのも、現実逃避の一環だった。
 あの町での日々が本物であれ、私の頭の中にだけ在る空想であれ、どうせ、二度と行くことは叶わない場所であることに変わりはない。
 本物だとして、今の私にあそこへ行く力はもう残っていない。
 空想だとして、当時ほどの想像力が今の私に在るはずもない。
 虚無感に苛まれながら、今日も私は床に就く。
 瞼を閉じ、眠ることに意識を集中する。
 意識がゆっくりと沈んできた頃、ふと、私は考えた。
 十歳の私は、いつもどうやって透目町に行っていたのだっただろうか――と。行きたいと願えば行けたのだったか、或いは、目的地を定めて眠りについていたのか。
 それはほとんど無意識に近いもので、他意も意図も決してなかった。
 けれど私は、よりにもよって入眠時に考えてしまったのだ。
 だからこれは、ある意味では自業自得の結果と言えるのだろう。
「…………は?」
 微睡んでいた意識が、あまりの寒さにより、強制的に叩き起こされた。
 自宅のベッドで寝ていたはずなのに、どうして私は今、夜の野外に立っているのか。足元を見ると、靴すら履いていなかった。まさか、裸足でここまで歩いてきたのか? それにしては、足裏は汚れていないような気もするが、如何せん暗くて判然としない。
 わけもわからないまま、私は周囲を見回した。
 とにかく、屋内に入りたかった。十一月も終盤に差し掛かった夜なんて、寒いどころの話ではない。防寒具を着用していたのならともかく、今の私は寝間着姿なのだ。とてもじゃないが、この気温に耐えられる格好ではない。
「……ここは……」
 心許ない月明かりと街灯を頼りに、周囲の状況を見回して、そして、私は愕然とした。
 あれから二十年が経っていようが、いくら記憶が曖昧になっていようが、この場所だけは、忘れられるはずもない。
 見覚えのある道と地形、そして、鳥居。
 冷や汗が、どっと吹き出る。それが身体を冷やして、余計に寒さに震える。
 間違いない。
 私は今、透目町に居るのだ。
 やってしまった、と頭を抱え、そして私は走り出した。あの頃のように鳥居をくぐれば、まだ戻れるかもしれない。ここへ来られた以上、戻れる可能性だってあるはずだ。どうか、そうであってくれ。
 祈るような想いを抱えて、私は鳥居をくぐった。
 だが、夢から覚めることはなく。
 冬が近づく夜は、不気味なほどの静寂が横たわっていた。
 皮膚を裏側から撫でられたような得体の知れない恐怖が、全身に走る。
「戻れ……戻れよ……!」
 何度も何度も、私は鳥居をくぐり直した。
 二十年前のあの日と同じように。或いは、それ以上に。
 しかし、景色は一向に変わってはくれない。時折、風が嘲笑うかのように吹くだけだ。
 ああ、私が間違っていた。
 私にはなんにもないなんて、そんなのは間違いだったんだ。
 少なくともあの世界には、自宅も両親も友人も、仕事も財産も戸籍もあった。それなのに、人生に疲れたなんて馬鹿なことを考えたから、罰が当たったのだ。
 これがフィクションの世界であれば、ここで上手いこと助けが来ることだってあったかもしれない。しかしここは、あくまで不思議なことが当たり前に起きるだけの、もうひとつの現実世界だ。特別な能力に目覚めることもなければ、これまでの経験から得た知識や技能が活きるわけでもない。この世界において、私はただの身元不明な成人男性でしかない。誰にも、私自身でさえ、私が私である証明ができないのだ。
「――来たか、二木充紀」
 と。
 背後から、聞き覚えのある声がした。
 振り返ると、案の定、あの人が立っていた。
 風貌は二十年前と全く変わっていない。当時をして長身だと思ってはいたが、これは三メートル近くあるのではないだろうか。その縦に長い身体を足首まですっぽりと覆うコートは、月明かりでは断言できないが、恐らくは深緑色だろう。
「あ、――っ」
 私は反射的に返事をしそうになって、慌てて右手で自分の口を封じた。
 この人と会話をしてはいけない。相槌も、返事も、してはいけない。
 そういう約束だったはず。
「ああ、良い良い。それは忘れてくれて良い。御主はもう元の世界には帰れない。だから、好きなだけ儂と会話をしても問題ない」
 言いながら、その人は軽い足取りでこちらに歩いて来る。
 表情は相変わらずの笑顔だが、あの日と違って、獰猛な視線は見る影もない。それどころか、ひどく上機嫌であるようにさえ見える。
「あれからそう経ってないというのに、もう来てしまったのか。む、少し背が伸びたか?」
 身を屈め、まるで久しぶりに会った親戚の子に接するように、その人は私の頭を撫でた。
 その手は私の頭など簡単に握り潰せるほどあり、私は咄嗟に身を捩って逃れた。
「に、二十年はまあまあの時間だと思う。それと、あのときと比べれば、そりゃあ背は伸びてるだろうが、成長期はとっくの昔に終わってる」
 混乱する頭では、なにから話せば良いのかわからず、とにかく私は先の言葉に反応した。しかし、返答するだけにしてはあまりに語気が強かったかと後悔しかけた先、その人は、
「儂からすれば二十年なぞ、つい昨日とさして変わりない。が、人間にとってはそうなるか」
と、全く気にする素振りも見せず、呑気にそんなことを言った。
「あ、あの、二十年前みたいに、俺を元の世界に帰すことって、できないんですか?」
 それは、藁にもすがる思いで出た問いかけだった。
 この人は以前、私が世界を渡れる能力を、電池に例えていた。充電式ではなく、使い切りの電池だと。切れかけの電池は、手で擦れば一度くらいは使えるようになる。そういう悪足掻きができないか、という意味も含んでの質問だったのだが。
「できんよ。そうさなあ、電池に例えて言うのであれば、前に儂が力を貸して元の世界に帰ったあのときが、それこそ電池を擦って無理くり使い倒した悪足掻きだったのだ」
 一縷の望みは、ばっさりと切り捨てられた。
「そんな……」
 どうにかならないか、と思考を巡らす。だが実際に、さきほど何度も鳥居をくぐったところでなにも起こらなかったではないか。自力では帰れない。頼みの綱であったこの人も、これ以上はできないと言う。それならば、もう、どうすることもできないのだ。
「そう気落ちするでない。どれ、少し話を……ふむ」
 言いながら、その人はコートを脱ぎ、私の肩に掛けた。
 ただでさえ長身の人が着ていたコートなんて、どうしたって裾を地につけてしまう。
 そう思って咄嗟に裾を持ち上げたが、不思議なことに、コートは私の身体に合う大きさに変わっていた。それどころか、履いた覚えのない靴も履いている。
「その格好では寒いだろう? そのコートと靴は御主に遣ろう」
「いやでも、それだと貴女が――」
 言いかけて、言葉が喉元で詰まった。
 その人は、既にデザインの異なるコートと靴を身に着けていたのだ。
 これも、この人の不思議な力のひとつなのだろうか。この人は一体いくつ不思議な力を持っているのだろう……なんて首を傾げる私を一笑に付し、その人は言う。
「スキメ、だ。町の皆からはスキメ様と呼ばれている」
「町の名前と、一緒ですね」
「そりゃあ、この町の大元を創ったのは儂だからなあ」
 からからと笑いながら、その人――スキメ様は続ける。
「少し、歩きながら話そうか」
 そうしてスキメ様は歩き出した。身長が高いぶん、一歩も大きい。私は小走り気味について行くしかない。
「だけど、話って?」
「御主、この世界では住所不定無職なのは理解しているか?」
「……」
 まさか、町の大元を創造しその名が町名になってる上位存在から、そんな現実的な指摘をされるとは思わず、私は絶句した。
「御主の当座の寝床と仕事に、ちとアテがあるのだ。なに、彼奴あやつは先の戦争が終わってからこの町に住み続けている古株でな。人間の生活に関する大抵のことなら、彼奴に訊けばわかるだろうよ」
 歴史の流れが私の元居た世界と同一であると仮定しても、スキメ様がアテにしてる人物は老人ということになる。恐らくはとっくの昔に隠遁生活に入っているだろうに、突然私なぞが行って大丈夫なのだろうか。
「心配は要らぬ。儂は先日、なんでも一人でやってのける彼奴が『流石に手が足りない』とぼやいているのを、確かに聞いているでな」
 当然のように私の心を読んでそう言ったスキメ様に、私は小さくため息をついてから、
「その人は、なにかお仕事をされてる人なんですか?」
と訊いた。
「ああ。少し前から喫茶店というものを始めておってな。どうもここ最近、店が流行りだして手が足りとらんようだ」
「だから住み込みで働かせてくれる、と? でも、その人が俺を雇ってくれるかどうかなんて――」
「雇ってくれるさ。間違いなく、な」
 スキメ様は、断言した。
 それはまるで、確定した未来の話をしているかのようにも見えて。
 上位存在というやつは、未来視もできるのだろうか。
「いやいや、流石の儂も未来までは見通せないさ」
 ときに、とスキメ様は、あからさまに話を逸らす。
「御主、両親のどちらかの旧姓は『永山ながやま』だな?」
「え? まあ、はい。母方が永山姓ですね」
 話題を変えるにしたって強引過ぎやしないか、と訝しみつつ、私は頷いた。
「その祖先に、死の淵から奇跡的に復活した人間が居るだろう」
「ええ……? ええと……」
 私の実家は、両親のそれぞれの実家の中間ほどに在った。だから両家には比較的頻繁に顔を出しに行っていたが、それも成人するまでの話である。特に、大学を卒業してからは、年に一回行ければ良いほうだった。
 懸命に、古い記憶を呼び起こそうとする。母親の実家はなんでも歴史の長い一族の本家らしく、家屋こそリフォームされていたが、一族の写真が並ぶ部屋はなかなかに圧巻だったことは覚えている。
 脈々とその血を繋ぐ永山一族。
 そういえば、その長い歴史の中で一度、血が途絶えそうになったことがあったと、祖父が言っていた気がする。そうだ、それは確か――
「詳しい元号は忘れましたけど、江戸時代の終わり頃に、当時は治療ができなかった流行り病に罹ったけど、奇跡的に治った人が居たような……」
 祖父曰く、それ以来、永山の一族は大病を患うことなく無病息災であるそうだ。
 なんでも、迎え入れたカミサマを永年祀ることで云々かんぬん、祖父は自慢げに語っていたが、子どもには難しい話だったこともあり、ほとんど右から左に抜けてしまっている。そして、元の世界に帰れなくなった今、その話を聞くことは二度と叶わない。
「だけどスキメ様、一体どうしてそんな話をするんですか?」
 帰れないことを悔やんだところで、どうすることもできない。
 だから私は、ゆっくりと瞬きをして思考を切り替え、スキメ様にそう尋ねた。
 するとスキメ様は上機嫌に、
「いやなに、これから会う喫茶店の店主が、その永山家の人間なのだ」
と言う。
「詳細は省くが、あれは御主の世界とは異なる方法で病から回復した、永山家の人間だ」
 不意に思い出したのは、蝶の羽ばたきのような小さなできごとでも、最終的には大きな結末に繋がっている――バタフライエフェクトという言葉だった。
 母方の祖先が、私の世界とは別の方法で快復し、それが巡り巡って、この世界で私が生まれない現実を生み出したのかもしれない。
 であれば、ここは漠然となにかの理を異とする並行世界ではなく。
 まさしく、私にとっての並行世界なのかもしれない。
 スキメ様から貰ったコートを着ているにも関わらず、ぞくりとした寒気が全身を撫でた。
「儂のほうからあれこれ言うと、彼奴が個人情報だなんだと喧しいからな。知りたいことがあれば、折を見て本人に訊いてみると良い。というか、彼奴とは積極的に会話をして欲しいのだ。元より無愛想なやつだったが、最近はそれに磨きがかかってきていてなあ」
「……善処します」
 恐らくスキメ様は、世界は違えど、血を分けた子孫である私ならば可能だと考えたのだろう。とはいえ、相手は何十歳も年上のご老人だ。あまり会話が続くようには思えない。
「あまり深く考えんでも良い。あれでいて、彼奴の話題の引き出しは多い――と、ここだ」
 そう言ってスキメ様は、一軒家の前で足を止めた。
 一軒家といえば気楽なものだが、数寄屋門すきやもんまで構えている、大層立派な日本家屋だった。
 スキメ様は慣れた手つきでインターホンを鳴らしたが、応答はない。夜も遅い時間だ、高齢の喫茶店主であれば、とっくに寝ていてもおかしくはない。しかしスキメ様は諦めることなく、再度インターホンを押す。応答がなければもう一度。まるで、居留守をしているのはお見通しと言わんばかりのそれに、五度目の呼び出し音のあと、
『なんだ』
と、インターホンからは、不機嫌を隠そうともしない男性の声が応えた。いや、これは彼でなくとも不機嫌になるだろうけれど。
 スキメ様はしゃがんでインターホンのカメラに顔を近づけ、話し始める。
「儂じゃよ」
『それはわかってる。隣に居るのはなんだ?』
「御主の店に住み込みで就職希望の若者だ」
『また妙なの拾ってきやがって……』
「おい永山ひさし、今の、丸々儂に聞こえておるからな」
『聞こえるように言ったからな』
 男性は、スキメ様と気がおけないやり取りを終えるとインターホンの通話を切り、ほどなくして玄関の戸が開く音がした。つっかけサンダルが地面を擦る音が近づき、数寄屋門の引き戸を開けて出てきたのは。
恒平こうへい伯父さん?!」
 私は目の前に現れた人物を指差し、思わず大声でそう言った。
 いくら子どもの頃に比べて会う機会が減ったとはいえ、身内を見間違うはずがない。雰囲気が似ているとかそういう話ではなく、彼は伯父の永山恒平本人にしか見えなかった。ただ、私の知る伯父は六十代だったはずで、目の前に居る男性は、どれだけ多く見積もっても三十代前半がせいぜいといったところに見える。
 事前にスキメ様から聞いていた話では、戦後からこの町に住んでいる老人のはずだが……?
此奴こやつで間違いない。他より長生きなのだ」
 スキメ様は当然のように、私の内に湧いた疑問に答えた。
 いや、これは長生きという言葉で片づけて良いものではないようにも思うのだけれど。当時から今まで見た目も変わらずいるのであれば、それはもう不老不死である。
「……で? これはなんだ?」
 動揺する私とは裏腹に、永山久と呼ばれていた男性は、私を指差して冷静にスキメ様に問うた。
 スキメ様は楽しそうに目を細めて、言う。
「御主とは異なる方法で生き延びた、並行世界の永山家の子孫。そう言えば理解できるか?」
「理解できないことはないが……その並行世界の人間が、どうしてここに?」
「元々此奴には並行世界に渡る能力が備わっていたのだが、その力を、ついさきほど使い果たして、元の世界に帰れなくなってな。今日からこの世界で生きていくことになったのだ。御主、彼奴の面倒を見てくれるな?」
「……」
 スキメ様の言葉を受け、永山さんは深いため息をついた。それは、私が自分の能力の限界すら管理しきれていなかったことに対する呆れなのか。或いは、それで真っ先に自分を頼りに来たことに対する怒りなのか。
「あ、あの、スキメ様は決して嘘は言ってなくて、その――」
 状況を見極められないまま、それでもこの重たい空気を打開したくて口を開いた私に、永山さんは右手を小さく振って、私の不安を否定する。
「いい、わかってる。スキメ様は嘘をつかないし、君が永山家の子孫だということも、その顔を見れば、嫌でもわかる」
「顔って……?」
「君の顔、僕の父親の若い頃にそっくりなんだよ。二百年ぶりに見た。うん、こんな顔だった気がする」
 二百年ぶりだなんて、大阪の人みたいな誇大表現をする。彼の発音に訛りは一切ないが、関西圏になにか縁があるのだろうか。
 呑気にそんなことを思った私の隣で、スキメ様は小さく笑い、
「御主、ついこの間、自分はまだ二百年も生きていないと言っていたではないか。歳を盛るものではないぞ」
などと、これまたよくわからないツッコミを入れる。
「まあ、儂にとっては数十年も数百年も、誤差みたいなものだがな」
「規格外の長寿は黙ってくれ」
 それで、と永山さんは続ける。
「そこの若人が並行世界の永山家の子孫だっていうのは理解した。突然帰れなくなって、ウチで住み込みで働きたいというのもわかる。だが、無条件に雇うわけにはいかない。人には向き不向きがある」
「それは、ごもっともだと思います」
 ごくりと、唾を飲み込んだ。
 スキメ様は永山さんを、並行世界の血縁者だからという理由で紹介してくれた。これより先は、私の能力に賭けるしかない。
 それじゃあ訊くけど、と言う永山さんに、私はぐっと肩に力を入れて身構える。
「君、飲食店での接客経験はある?」
「はい。高校生のときはファミレスで、大学生のときは居酒屋でアルバイトをしてました」
「ホームページ作成とか、SNS運用の知識ってある?」
「学生のとき、自分の趣味用の個人サイトを作ったことはあります。ほとんどタグをコピペして構築したサイトでしたけど。SNS運用のほうは、それが仕事だったので、多少の自信はあります」
「なるほど。うん、そういうことなら、君を採用しよう」
「えっ、あ、ありがとうございます」
 たったあれだけの質問で採用されるとは思わず、私の声は若干裏返ってしまった。
「給料とか勤務時間とか、この町で生きていく上での諸々の手続きとかは、明日以降に話そう。今日からここが君の勤務先であり、帰ってくる家になる。ええと――」
 握手をしようと右手を差し出したところで、永山さんが言い淀む。そういえば名前を名乗っていなかった、とすぐに思い立った私は、その右手を握り返しながら、
「二木充紀といいます。永山は、母方の姓なんです」
と言った。
「僕は永山久という。これからよろしく」
「こ、こちらこそ! これからお世話になりますっ!」
「過度な感謝は必要ない。これも僕が果たすべき役割のひとつ、なんだろう?」
 そう言って永山さんが問いかけた先は、スキメ様だった。
 数寄屋門前で行われた面接試験を眺めていたスキメ様は、永山さんに向けて微笑んだかと思うと、
「どうだかのう」
と、勿体つけるような、意味がありそうでなさそうな、曖昧な言葉を返す。
 そうしてこの話はそこまでと言わんばかりに、視線の先を私に変えた。
「な、大丈夫だっただろう? 改めて、ようこそ透目町へ。歓迎するぞ、二木充紀」
 スキメ様は、小さな子どもにするように、無遠慮に私の頭を撫でた。大人になってから誰かにこんな風にされることがなかったというのもあるが、成人男性の手よりも大きなその手で撫でられるというのは、なんとも不思議な感覚だった。

 それから。
 永山さんが客間に用意してくれた布団に入って、あっという間に眠りに落ちた。
 もしかしたら、結局これも質の悪い夢でしかなくて。次に目が覚めたら、いつも通り自宅のベッドに居るかもしれない。そうして毎日同じ動作を繰り返すように身支度を整えて、会社へ向かうのだ。きっとそうだ。
 そう思った。否、そうであってくれと、強く願った。
 果たして。
 朝が来て、目が覚めて。
 まず目に入ったのは、見慣れぬ木製の天井で。私の身体は、慣れないにおいのする布団の上にあった。
 帰れなかった。
 本当に、二度と帰れないのだ。
 そう思うと胸のあたりが急に苦しくなって、涙はだらだらと頬を伝い枕を濡らした。




※本編中に登場した永山久については、こちらの作品に語り部として登場しています。
 彼の根源的な話でもありますので、よろしければどうぞ。




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