【長編小説】暮れなずむ秋と孤独な狛犬の歌 #13
10月4日(金)――(3)
「ふーふふふんふーん、ふーふふふんふーん、ふーふふふんふー、ふふふふーん」
「……」
「ふーんふんふーふん、ふーんふんふーふん、ふんふんふんふんーふーふふふーん」
「……」
「ふーふふーふんーふーふふんふーん、ふーふふんふん……あ、アキだ!」
「……よう」
残りの授業を耐え抜き、あいつらをどうにか躱して逃げたあと。
自転車に乗り、冷たい秋風に晒されながら神社へやってきた僕は、自称狛犬が楽しげに鼻歌を歌っている場面に遭遇した。
選曲に明らかな他意を感じるが、それについて言及はしないでおく。僕の器はそこまで小さくないのだ。無駄に上手いのが腹立つとか、思ってない。
「今日も元気そうだな」
少女は、今日も相変わらず夏用の制服に身を包んでいる。衣替えの移行期間も終わり、学校で夏用の制服を見ることがなくなって数日。日に日に秋が深まっていく中で、どうしたってその服装は浮いていた。
僕はこの少女が狛犬だろうと、普通の人間だろうと、どちらでも構わないと思っている。しかしその反面、少女がこの服装を維持するあたり、狛犬という設定に並々ならぬこだわりがあるようだ。
「アキが来てくれたからな。今日も元気いっぱいだ! ……くしゅんっ!」
元気いっぱいと言ったその口で、少女はくしゃみをした。
「……もうちょっと厚着したほうが良いんじゃないのか?」
少し迷ってから、僕は遠慮がちにそう提案した。
しかし、今日は急激に気温が下がったから、夏服では本当に寒いだろうに。
「さ、寒くないぞ! 狛犬だから寒さなんて感じないのだっ!」
「……それじゃあ、元気いっぱいな狛犬サンに、これあげる」
これ以上この会話を続けるのは不毛と判断し、僕は鞄からジュースを二本取り出した。
りんごジュースと、コーヒー牛乳。
どちらもストローを挿して飲むパックタイプのものだ。これなら、お面をつけている少女でも多少は飲みやすくなるだろう。そう思ってこれらを選んだのだが、こんなことなら温かいものにすれば良かったと、僕は小さく後悔する。
「えっ」
しかし少女は、それまで楽しげに揺れていた身体をびくりと震わせ、動きを止める。さっきまでの元気が嘘のように、がちがちに固まってしまった。
「い、いらない。もらえない」
「どうして?」
「昨日、お茶をもらったばっかりだし……」
少女は首と横に振って拒絶する。
それくらい、別に構わないのに。
小さく息を吐きながら、僕はそんなことを考える。とはいえ、善意の押しつけは良くない。
「どっちも苦手な味だったか?」
「……いいや」
「しいて言えば、どっちの味が好きなんだ?」
その質問に、少女は僕の手に握られたそれぞれのジュースを見比べる。
しばらくの後、少女は躊躇いがちに、
「……コーヒー牛乳」
と答えた。
「それじゃあ、はい」
改めて、僕は少女にコーヒー牛乳を差し出す。
「とりあえず渡しとく。要らなかったら、僕が帰るときに返してくれたら、それで良いよ」
少女はしばしそれをじっと見つめたあと、ふと視線を上げて僕を見た。
「……アキ、本当に良いのか?」
「うん。だって、お前と一緒に飲もうと思って買ってきたんだし」
やけに遠慮する少女に若干の違和感を覚えながら、僕は頷いた。
「それなら……うん。いただきます」
昨日と似たようなことを言って、少女はおずおずとコーヒー牛乳を受け取った。
それを見届けてから、僕は少女に背を向ける。飲みやすいものを買ってきたとはいえ、結局はお面をずらさないといけないことに変わりはない。僕が少女のほうを向いていたら、飲むものも飲めないだろう。
少女のほうも僕の意図を読み取ってくれたらしく、こちらに背を向けた。どうして背後で起きていることがわかるのかと言えば、答えは明瞭である。少女が僕の背に、軽く寄りかかってきていたのだ。
背中から少女の体温が伝わってくる。それにつられて、僕の体温まで上昇するようだ。
なんとなく、それを少女に知られたくなくて、僕は慌ててりんごジュースを喉に流し込んだ。買ってそう時間の経っていないりんごジュースは、その冷たさを保ったまま喉を通過し、胃へと向かう。夕暮れの冷たい風も手伝い、妙な熱はあっという間に引いていく。
「アキ」
おそらくは少女もコーヒー牛乳を飲みながら、僕を呼ぶ。
「今日の学校は、どうだったのだ?」
「ん? 別に、普通だけど……」
言いながら、今日一日のできごとを思い返す。いつもどおり、ため息ばかりが出る日常だ。
いや、そういえばひとつだけ、少女に伝えておきたいできごとがあったじゃないか。
「そうだ、合唱コンクールで歌う曲が決まったんだ」
「おお、昨日ワタシが歌った五曲だな? どの曲になったんだ?」
僕が曲名を答えると、少女はなるほど、と相槌を打つ。
「その曲、ワタシは好きだぞ。月並みだが、ラストに向けて盛り上がるところの歌詞が好きなのだ」
「わかる。だけど僕は、歌い出しも好きかな」
そう言って思い出していたのは、昨日聴いた少女の歌声だ。一曲目だったということを差し引いても、第一声からあれほど惹きつけられたのは、候補に挙がった五曲の中でも、この曲だけだった。
「お前が昨日歌ってくれたの、すごく参考になったんだ。ありがと」
「ビッ……、いや、どうしたしまして」
なにか言いかけて、しかし少女は別の言葉に置き換えた。
それを誤魔化すように、勢いよくコーヒー牛乳を飲む。
「ともあれ、曲が無事に決まって良かった」
それならば、と言うと、少女は勢いよく立ち上がった。
背中から温もりが消え、秋の冷たい風が僕の背を撫でる。
「あとは練習あるのみだな! ワタシがソプラノ、アキが男声パート。ふふ、ばっちりではないか」
くるくると舞うように階段を下り、少女は言う。
そのはしゃぎようたるや、お面で表情が見えなくてもわかってしまうほどである。
「いや、だけど……」
「歌は良いぞ。聴くのも歌うのも、全部楽しい。その楽しさをアキと共有できたら、ワタシはとても嬉しく思う」
「……」
「せっかくの合唱コンクールだ。楽しまなければ損だぞ」
楽しまなければ損。
その言葉は寝耳に水だった。
この半年、学校の行事を休まないようにだけ考えていた。
休めば周囲がやかましいし、なにより、僕なんかが行事を楽しんではいけないような気がしていた。
だけど、少女がそれに巻き込まれる理由はない。
「ふふん、安心して良いぞ、アキ。ワタシはこう見えて、教えるのが得意なのだ」
黙り込んだ僕に、少女は自信満々にそう言った。
ここで断れば、少女は悲しむだろう。
そんな姿は見たくない。
このときの僕が抱いた気持ちは、それだけだった。
「それじゃあ、お手柔らかに頼む」
「うむ!」
僕の答えに、少女は花が飛び散らんばかりの雰囲気をまとって頷いた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?