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【長編小説】暮れなずむ秋と孤独な狛犬の歌 #35

10月7日(月)――(7)

「コマ!!」
 痛みに軋む自分の身体なんて、どうでも良かった。
 僕は慌てて立ち上がり、走って、手を伸ばす。
 少女も反射的に、こちらに手を伸ばしていた。
 けれど、僕と少女の間には距離が開き過ぎていて。
 伸ばした指先がふたつ、空を切る。
 少女が僕の目の前から消えていく。
 吸い込んだ空気が、吐き出せない。
 心臓が、直に掴まれたように痛む。
「お、おれは悪くないからな……!」
 背後から前田の情けない声が聞こえてきたかと思ったら、一気に足音が遠ざかっていった。けれど今、あんなやつを追いかける気力は微塵にも湧かない。
「コマ……」
 少女の名前を口にしてから、はたと気づく。
 僕はまだ、少女の本当の名前を教えてもらっていなかった、と。
 また、後悔することになってしまった。
 やっぱり僕はまだあの三月から動けないままで。
 僕の所為で、また、大切な人が死んでしまう。
「――……き、……アキ!」
 少女の声が聞こえた気がして、僕は我に返った。
 そんな、まさか。
 それでも一縷の望みにかけて、僕は少女の落下した場所を覗き込んだ。
「うあ、ああアキぃ……」
 そこには、斜面に生える木の幹を両手で掴まりぶら下がる、少女の姿があった。木の枝に当たったのか、手や頬に切り傷が見える。けれど少女は確かにそこに居て、涙声ながらも声を発している。
 生きている。
 そこに居る。
「コマ、お前――」
 このとき、僕はなにを言おうとしたのだろう。
 わからない。
 安堵した途端、涙がぼろぼろと溢れてきて、思考回路を制御している余裕なんてなかった。
「待ってろ。今、助ける」
 涙を乱暴に拭い、僕は言った。
 うつ伏せになって、再び少女に向かって手を伸ばす。ここにはロープなんてものはないし、取りに行っている時間もない。であれば、この身ひとつで助ける以外に方法はなかった。
「こっちに手、伸ばせるか?」
「う、うん……」
 少女は頷いて、そろそろと右手を差し出した。
 僕と少女の間に置かれた距離は、お互いに手を伸ばしても、ぎりぎり指が触れないほど。
 あと少しで届くのに、あと少しで届かない。
 そのもどかしさが、焦りを加速させる。
「大丈夫だ」
 少女に、そして自分自身に言い聞かせるように、僕は口を開く。
「絶対に助けるから」
「アキぃ……」
「情けない声出すなよ。大丈夫だってば」
 言いながら、僕はさらに身体を乗り出す。
 僕の命綱と言えば、炉端の小さな岩のみである。それに足を引っ掛けているだけで、上半身はほとんど宙ぶらりんだ。怖いけど、顔には笑顔を浮かべて見せた。きっと無様に引きつったものだろうけれど、それでも、不安そうな顔を晒すよりはマシだと思った。
「ほら、もうちょい――」
 息を詰めて、指先に全神経を集中させる。
 もう少し。
 あと少し。
 お互いに手を精一杯伸ばして、そして。
「――よっし!」
 僕は少女の手を掴むことに成功した。
 掴んだ手の先から、少女の体温が伝わってくる。ひんやりとした少女の手は、小刻みに震えながらも強く僕の手を掴み返していた。
「思いきり掴んで。遠慮しなくて良いから」
 両手でしっかりと少女の手を掴む。そうして、宙ぶらりんになっていた身体をゆっくりと後退させながら、少女を引き上げにかかる。ここで焦っては、全てが無駄になってしまう。
 この手は絶対に離さない。
 だから、大丈夫。
 早鐘を打つ心臓に、僕はそう言い聞かせた。
「コマ、そこの太い枝まで移動できるか?」
 ゆっくりと引き上げていくと、ちょうど少女の近くに踏み台になりそうな木の枝を認めた。
「う、うん」
「絶対にこの手は離さない。だから落ち着いてゆっくり、な?」
「わかった」
 少女は小さく首肯して、大きく深呼吸をする。
 きゅっと口を真一文字に結んだ少女は、右手は僕を握ったまま、左手で枝を掴みながらゆっくりと上り始め。様子を伺いながら、こちらからも少しずつ少女を引き上げていけば、そう時間はかからず丈夫な枝の上へ移動することができた。
「よし、良いぞ。あと少しだ」
 絶えず少女に声をかけ続ける。
「大丈夫、大丈夫だからな。そこに足、かけられるか?」
 斜面には木の根が張っているところもあり、存外足場は多そうだった。
 一歩一歩、確実に。
 真下に広がる光景に慄きながら、それでも少女は登る。
 死ぬのは怖い。
 それは誰もが持ち合わせている当たり前の感情で。
 居場所を見失っていた僕らにも、当然のようにそこに在るものだった。
「もうちょい――おわっ!」
 斜面の縁から少女の頭が覗いたところで、少女が勢いよく駆け上がってきた。急な動作に驚き後ろに倒れ込んだ僕に、勢いそのまま少女が覆いかぶさってくる。
「アキぃ……」
 ぎゅうっと抱きついてきた少女に、僕は、
「……もう大丈夫だぞ」
とだけ答え、その震える背中にそっと手を回した。
 そうしてその背中を、とん、とん、と軽く叩く。小さい頃、母さんが僕にしてくれていたように。きっと母さんがしてくれたようにはできていない。それでも僕は、その手を止めようとは思わなかった。不安なとき、こうして背中を優しく叩いてもらえることに、僕がどれだけ安心したのかを覚えていたから。ほんの僅かでも良いから、僕は少女に安心してほしかった。
「怖かったぁ……。し、死んじゃうかと思ったぁ……」
 少しして、少女は吐き出すようにしてそう言った。
「ああ、そうだな」
 手を止めず、僕は頷く。
「だけど、もう大丈夫だ。よく頑張ったな、コマ」
「うん……!」
 アキ、と少女は僕を呼びながら、ゆっくりと身体を起こした。
 真っ直ぐな黒髪は、風に煽られてぼさついており。頬や指先には切り傷を、膝には擦り傷を作り、傷だらけになっていた。
 それでも今、こうして僕の目の前に居る。
 生きている。
「すまない、アキ。助けに入るつもりが、逆に助けられることになってしまった……」
 少女はひどく意気消沈した様子で手を伸ばし、そっと僕の頬に触れる。
 顔面は直接攻撃されなかったはずだが、地面に叩きつけられたときか、袋叩きになっているとき、地面に転がっている石で切ってしまったのだろう。少女の触れた先が、じくりと痛んだ。

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