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【結婚の歴史②】

こんばんは!パパリーマンです!

本日は結婚の歴史についてお話ししたいと思います!結婚後、独身時代とは違うギャップに悩まされる男性も多いと思います。

それでは結婚の歴史を順を追ってお話しできればと思います! 

明治・大正時代〜


 明治4年に戸籍法が定められ、8月には華族から平民に至るまで通婚が許されるようになりました。明治4年ごろから政府はいわゆるチョンマゲを切って洋風の散髪を励行させたようです。婦人の髪形は江戸時代末期のままであったが、明治18年頃からは女性にも普及していきました。
 

 明治民法では、婚姻年令を男子17歳、女子15歳以上としていましたが、実際の一般の結婚年齢はおよそ男子が22才、女子が20才だったんですって。令和の現代より全然若いですね笑笑

妻の氏名は、昔からの慣習に従って、婚姻後実家の氏を称すものとされていました。ただ夫の家を相続したときに、夫の氏を称すことが必要だったため、次第に夫の姓に変えるようになったようです。当時の法制度から徐々にシフトしていったのですね。

〜民間の結婚〜

明治30年7月21日、東京日比谷大神宮の拝殿で初めて高木兼寛男爵媒酌の神前結婚式が行われて以来、その影響で一般にも神前結婚式が挙げられるようになりました。神前式は明治の後半に始まったのですね。

日比谷大神宮の費用は、特別一等が人員35人以内で50円、同2等が30人以内で35円、3等が30人以内で25円、松が25人以内で20円、竹が20人以内で15円、梅が10人以内で12円だったようです。

当日は親族、仲介人、および知人などが臨席して神前の式に臨んだのだとか。また仏教での仏前結婚が始まったのは、明治26年春、真宗本願寺派の藤井宣正が、東京白蓮社会堂で仏式結婚を行ったのが初めとされているらしいですよ。

 〜大正時代の結婚式〜

 大正時代になると、娯楽施設も増え、喫茶店の店員さんも洋服を着るようになりました。自由恋愛も盛んとなり結婚式は簡略化されていきました。式は神前結婚が多く、自宅結婚は減っていったようです。宴会は料理屋かホテルで行うようになり、新婚旅行も一般化していったようです。かなり現代の結婚式に近かなってきたのではないでしょうか。

またホテルの結婚式の始まりは大正12年9月、関東大震災が起き、その影響で日比谷大神宮が焼失し、そのため神社で行われていた結婚式が不可能となったため、帝国ホテルで多賀神社の御祭神である伊邪那岐命、伊邪那美命の2神の御分霊を同ホテル内に安置したそうです。これがホテル結婚式の始まりと言われてます。

〜昭和から平成〜


〜総合結婚式場の誕生〜

 昭和6年、目黒に本格的な神殿を常設した雅叙園が完成したようです。これか美容、写真、衣裳などの施設を整えた総合結婚式場の先駆けとなったようですね。

〜戦後の復興〜


 昭和22年11月、結婚式場「明治記念館」が誕生しました。総合結婚式場というネーミングをつけ、その後の結婚式場のモデル的存在となりました。翌23年に施行された新民法により、結婚の成立要件は、当事者間に結婚の意思があること(民法742-1)、結婚年令は男子18才以上、女子は16才以上(民法731)などが決められた。昭和初期に今の結婚制度ができたのですね。

〜人前結婚のブーム〜

 戦時中は神前結婚を奨励する風潮が強かったようですが、戦後民主化運動が高まり、人前結婚という形式が産み出されたようですね。東京都は昭和26年から「新宿生活館」を設置し、そこで結婚相談所と同時に結婚式も行うようになりました。この結婚式は人前式で、館長が司会を務める簡素なものだったそうです。こうした結婚式は評判をよび、一時は行列を作るほどの盛況だったそうですよ!地方でも各地に公民館が設置され、そこで簡素な結婚式が営まれたようです。


〜皇太子明仁親王の結婚〜


 昭和34年、皇居賢所で皇太子明仁親王(25)と正田美智子さん(24)の結婚の儀がとり行われました。午後2時30分、皇居から渋谷常磐松の東宮仮御所まで8.9キロ、皇太子夫妻を乗せた6頭立て馬車を中心としたパレードが出発し、賢所での模様とパレードはテレビの実況中継で報道され、結婚のパフォーマンス性が若い男女に新鮮な感動を与えたようです。また結婚を祝う宮中の祝宴は、4月13日から15日までの3日間行われました。

 招待されたのは皇族をはじめ国会議員、民間代表など全部で3059名。祝宴の献立は日本料理と日本酒で一人前千円程度。招待客への引出物は、菊の紋章の入った銀製のボンボン入れと銅製の文鎮。この披露宴の費用はしめて1300万円という。

ヒョェェー!さすが宮中ですね!笑笑

〜空前の豪華披露宴〜


 昭和35年には東京日比谷の日活国際ホテルで、俳優の石原裕次郎と北原三枝が結婚式を挙げました。約400名の招待客に詰めかけた報道陣は120社、240名で、会場のシルバー・ルームはごったがえしたようです。
 新郎は黒のモーニング。新婦は角かくしに、金襴緞子という純日本風花嫁衣裳。メインテーブルの左には、3日がかりで作られたという高さ1メートルのウェディング・ケーキ(時価7万円)、150キロのシャチホコをデザインした氷柱一対が飾られました。メニューは1人前6000円の予算、400人分で240万円という豪華さで話題を独占したんですって笑笑 

さすが芸能人、、羨ましい限り、、

〜オリンピック以後の会館での挙式〜


 昭和38年 (1963)には、東京オリンピックをあて込んだホテルの建設ラッシュが続きました。昭和37年まで少しずつ伸びを見せていた式場の数が、ここに来て急激に跳ね上がり、以後毎年多くの式場がオープンしていきました。この時期の特徴として、結婚式場の普及とともに、神前結婚式も普及してきました。これまで結婚式は簡素に行なわれてきましたが、日本の景気が上昇を続けるなかで、結婚式も徐々に派手になっていったようです。

今や結婚式はすごくクオリティが高いですよね。

〜スターの結婚式〜


 昭和46年、歌手の橋幸夫が帝国ホテル内の神前結婚式場で挙式を行ったようです。そのあとの披露宴の模様を当時の 「女性セブン」は次のように報じています。

“「記者会見のあと12時25分に孔雀の間に入った。この日、橋、緒方両家の招待客は1000人余り。(中略)披露宴は、1時から玉置宏の司会ではじまった。」媒酌人の型どおりのあいさつ,主賓の祝辞のあと,ケーキカットであるが,そのとき部屋の明りが一斉に消え,それと同時に中央のドアから19人の子供たちが手に手にローソクを持って,場内の各テーブルに火を点じていった。そのあとスポットライトが,4メートルのウェディングケーキを浮かび上がらせた。披露宴の予算は1人2万円。衣裳などを含めると総額5,000万円となる。新婚旅行はハワイ,そのあとロスアンジェルス,アカプルコへ出発した。”

いかがでしょうか?

結婚の歴史も現代の結婚式の形になるまでさまざまな発展を遂げてきたのですね!未来の結婚は果たしてどのような形になっているでしょうか?

バーチャルでの結婚式が当たり前になったりして、、笑笑

それでは本日もお疲れ様でした!

二児のパパリーマンより

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