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オーストラリアで飛び込み営業して学んだことを胸に

2015年12月、私はオーストラリア北部の都市ケアンズで、かたっぱしから飛び込み営業をしていた。仕事を探していたのだ。

2ヶ月前に日本を出発し、フィリピンでの語学留学を経たのち、ワーキングホリデービザを使ってオーストラリアに来てすぐのことだった。

オーストラリアに来た目的はただ一つ。旅の軍資金を増やすためだ。期間は特に決めていなかったけど、なるべく早く、1年以内に日本円で100万円以上をつくり、北米・南米の旅に出発したかった。

そのために割りのいいバイトを探していた。オーストラリアは物価が高い分、賃金も高く、ケアンズがあるクイーンズランド州の最低賃金は17ドル。当時のレートで1,350円くらいだった。

レストランなどの接客業では時給25ドルなんてのはザラだった。しかし、それ相応の英語レベルが必要で、当時、日本を出発したばかりの私ではレストランジョブは到底受からなかった。

オーストラリアの仕事探しは、基本的に足を使う。Wordで自作した履歴書に、氏名と連絡先、職務経歴とスキルを書いて、直接お店に持っていく。

運が良ければその場で面接してもらえることもあるが、英語が不得意なアジア人は履歴書すら受け取ってもらえないこともよくあった。

食べて寝る、普通に生きているだけで物価の高いオーストラリアではすぐにお金が飛んでいく。手持ちの資金をなるべく減らしたくなかった私は、英語ができない外国人でもすぐに働けて、尚且つ稼げる仕事として、農場での仕事に絞って職探しをすることにした。

オーストラリア北部に位置するクイーンズランド州は大農業地帯だ。観光都市ケアンズから少し外れただけで、バナナ農園やイチゴ農園などが点在し、野菜や果物栽培で有名な町がたくさんあった。

ただ一つ問題だったのは、ファームジョブをゲットするためには、一般的に運と時間と心の余裕が必要だということだった。

兎にも角にも、まずは農場がある町に移動するのが常套手段だった。

各町には、農場での仕事を斡旋してくれる宿やエージェントがあって、そこに登録しておくと、仕事の空きがでたら待機リストの上から順番に仕事を回してもらえた。また、日本の日雇い労働と同じように、毎日、農場主がその日の仕事量に合わせてワーカーをピックアップしていくこともあった。

何にせよ、すぐに仕事がもらえるか、もらえないかは行ってみないとわからなかった。1ヶ月以上待たなければいけない場合もあったし、仕事待ちをしていて、気がついたら作物のシーズンが終わってしまったなんてこともよく聞く話だった。

早くお金を貯めて、早く旅を開始したかった私は、なにが何でもさっさと仕事にありつきたかったので、そんな賭けみたいな仕事探しはやってられないなと思った。なにか効率的に仕事を探す手段はないかと考えながら、ケアンズに来て数日間、町をほっつき歩いていた。

そんな時だった。

ある一件の旅行会社の入り口に、「Strawberry Picking $20(イチゴ 収穫 20ドル)」と手書きの看板が出ていることに気がついた。

何だろう?と思い、ダイビングやらシュノーケルやらの写真がずらりと並ぶ店内に入り、従業員に外の看板について聞いてみた。

「マリーバでのストロベリーピッキングさ。興味あるかい?」

のほほんとした口調で、ケアンズからバスで1時間ほどの町にあるイチゴ農園の仕事を紹介された。

え?ここ旅行会社だよね?

話を聞くと、歩合性だったのと、いつから仕事があるかはやっぱり町に行ってみないとわからないとのことだったので、そのイチゴ農園での仕事はお断りしたのだが、私にとっては大きな収穫だった。

どうやらケアンズでは、町中の旅行会社でもファームジョブを斡旋しているらしいぞ...!!!

その旅行会社の人に「他の旅行会社でもファームジョブを紹介しているの?」と聞くと、「さあねー。うちはたまに知り合いからそういう話が来るけど。聞いてみたらどうだい?」と、外国人特有の両肩を上にあげる仕草をした。

なるほど、なるほど。

次の日から、私はケアンズ中の旅行会社やお土産やさん、個人経営のカフェにまで出張って、履歴書を配りまくり、ファームジョブを斡旋していないか聞いて回った。

旅行会社ではまず客に間違われた。仕事を探していること、しかもファームジョブを探してることを説明するのに、私の拙い英語ではとても苦労した。

「うちは旅行会社だ。ダイビングがしたい人が来る場所だ」と、心から迷惑そうな顔をされたり、鼻で笑われたりしたこともあった。

私を客だと思って最初はにこやかに応対していた店員は、私の事情を聞くと、みるみる表情を変えた。人間て、こんなにもすぐに表情を変えられるんだなぁと明後日の方向に思考を飛ばしてやり過ごす技も覚えた。

「仕事はない」「おかえりください」「英語もできないアジア人め」

冷たく追い出されることが続くと、店に入って店員に話しかけるのも怖くなった。履歴書を持って、入るかどうが30分くらい迷ってから、「別のところに先に行こう」と立ち去った店が何件もある。

それでも諦めなかった。もはや意地になっていたかもしれない。

グレートバリアリーフの一大観光拠点であるケアンズには、回りきれないくらい旅行会社があったし、お土産屋もたくさんあった。

南国風の小綺麗なワンピースを来て、真夏のクリスマスを楽しむ旅行者を横目に、灼熱の太陽の下、汗でベッタベタになりながら、3ドルのチーズサンドウィッチを頬張り、文字通り地べた駆けずり回って仕事を探した。

そんな自分をかっこ悪いとは思わなかった。

英語ができなくて恥ずかしい思いをしても、冷たくあしらわれても、辛いとは思わなかった。目標に向かってがむしゃらに頑張っている自分に、絶対的な自信があったからだ。落ち込むことはあっても惨めな気分になったことはなかった。

履歴書配りをはじめて5日目で、旅行会社の一角を間借りしてひっそりと営業していた仕事斡旋おばさん(おそらく個人事業主)に出会い、条件にピッタシのバナナ農園での仕事を紹介してもらった。その場でファームのオーナーに電話してくれて確認し、翌週からすぐに働けることになった。

全部で何件の店を回ったかは数えてないけれど、めぼしい旅行会社は大体回り終わっていた。

旅を終えて、日本で定住生活をしている今でも、たまに当時のことを思い出す。フリーランスのライターを目指して独立準備をはじめた最近は特に、当時のシャカリキな自分が懐かしくなる。

あれから5年がたち、当時20代半ばだった私は30代に突入した。経過した年月や蓄積した経験の分だけ「大人」になれているのかはわからないが、26歳のあの夏の日のがむしゃらさを私は一生忘れてはいけないと思っている。

かっこ悪さは他人が決めるものじゃない。

スマートじゃなくたって、不格好だって、うまくいかなくたって、頑張ってる自分を、その行いを、自分で肯定さえしていれば「かっこ悪い人間」にはならないはずだ。

年の瀬の、真夏のオーストラリアで学んだことは、5年たった今でも、私の一番大切な部分にきっちり生きている。

あの12月の夏の日のように、これからの人生も生きていきたいと思う。


イラスト:RIKAKO KAI


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